《創られた賢治から愛すべき真実の賢治に》
では、昭和3年2月分について賢治の営為と詠んだ詩等を『新校本年譜』から以下に抜き出してみると、二月九日(木) 湯本小学校で農事講演会に出席し、講演。帰途堀籠文之進の長男を見舞う。
二月初旬 労農党稗和支部の事務所に帰ってみたら「謄写版一式と紙に包んだ二十円があった、『宮沢賢治さんが、これをタスにしてけろ』と言ってそっと置いていったもものだ、と聞いた」という。(煤孫利吉談)
二月一五日(水) 堀籠文之進の長男を見舞う。
二月 梅野健造来訪。
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)年譜篇』(筑摩書房)より>二月初旬 労農党稗和支部の事務所に帰ってみたら「謄写版一式と紙に包んだ二十円があった、『宮沢賢治さんが、これをタスにしてけろ』と言ってそっと置いていったもものだ、と聞いた」という。(煤孫利吉談)
二月一五日(水) 堀籠文之進の長男を見舞う。
二月 梅野健造来訪。
のようになっていて、約4ヶ月ぶりに賢治の営為が読み取れる年譜となっている。少なくとも外に出歩ける程までに賢治は回復していたようだし、その営為も具体的に記述されているのでこれならば考察も可能となろう。ただし、詩については下表
【賢治下根子桜時代の詩創作数推移】
<『新校本宮澤賢治全集第十六巻(下)・年譜篇』(筑摩書房)よりカウント>
のとおりであり、前年10月以降引き続いてこの月も日付の付いた詩は一篇も詠んでいない。この時期賢治の詩囊はかなり痩せていたということなのだろう。
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