気の向くままに

山、花、人生を讃える

人間は原子の集まり?

2020年07月20日 | 人生

昨日の日曜日、『最後の講義』と題した物理学者 村山 斉(ひとし)教授の講義の再・再放送があった。そのせいと思うが、ブログのアクセス解析によれば、私が以前にその講演の内容を紹介した記事(『最後の講義』 村山 斉 教授)へのアクセスが、夜中に20回近くあった

 

それで改めてその記事を読み、なかなか良い話だと思ったのですが、その中に一つ気になることもあった。

 

それは村山教授の話の中に紹介されている、物理学者ファインマンが、
「もし、今あなたが死ぬとして、100年あとの後世の人に一言だけ何か残すとしたら、何を伝えますか?」と聞かれたときに、「万物は原子で出来ている」と答えたというところです。

 

ここにある「万物は原子でできている」という言葉は、有名な物理学者の言葉だけに、「人間も原子が集まって出来ている」という、特に若い人にはそんな錯覚を起こさせやすい、あるいはそんな人間観を持たせやすいように思えたので、その点を補足したくなったのでした。

 

人体なら、「原子で出来ている」と言ってもよいのでしょうが、「人間も、原子で出来ている」と解すれば、それはとんでもない間違になると思う。人間は、人体を造ったものであって、人体そのものが人間ではない、ということです。

 

原子というのは、以前は物質の最小単位と思われていたものですが、そういう物質は誰かが手を加えない限り勝手に動くものでないことは誰でも知っています。そんな物質である原子を誰が動かすのかと言えば、それは智慧ある生命が動かすのであって、手が造られ脚が造られ、目、鼻、耳が造られ、内臓各器官が造られ・・・という具合になるのであって、原子が勝手に動き集まって人体になるわけではない。補給された栄養分から、それぞれ別の各器官や臓器へと構築されていくには、生命が天下り、生命の智慧(理念)に従って配列されなければ、このような精密な人体が出来る筈がない。その人体の奥にある「智慧ある生命」こそが、人間なのだと思う。簡単な計算機さえも人間の智慧による設計がなければできないことを考えれば、よりわかり易いと思う。

 

イエス・キリストは「人新たに生まれずば、神の国を見ること能わず」と説かれた。するとユダヤの長老だったニコデモと言う人が、「我、早老いたれば、如何にして再び母の胎内に入りて生まれ変わることを得んや」と反論した。するとキリストは、「何回生まれ変わっても、塵(物質)より生まれた者は塵であると言われた。

つまりキリストは、人間を肉体と観るのではなく、肉体の奥にある生命であるというように、自覚の生まれ変わりが必要だということを説かれたのであって、自覚が変らなければ何回生まれ変わっても塵より生まれたと思う者は塵なのである。

お釈迦様も同じことを説いておられて、『般若心経』で顛倒夢想 (てんどうむそう:アルものをナイと思い、ナイものをアルと思う逆さまの思い) を遠離(おんり)すれば恐怖なし」と説かれいる。そして最近の物理学では、般若心経と同じく、物質が本来空であることを教えている。さらに法華経では、その空の奥に、如来のいのちが尽十法に満ちていることを説いておられる。

 

このように釈迦もキリストも同じことを説いておられて、つい難しそうな話になったが、とかく人間は目に見えるものに惑わされやすく、反対に目に見えないものについては忘れがちになります。だから、人間をどのように観るかということは、単に思想の問題というだけでなく、その人が歩む人生にも影響を及ぼすので、補足させてもらいました。

読んでいただきありがとうございます。

コメント
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