≪冬の景色≫
冬の朝の光は地を這うように射してきて、いかにも光が射しているという感じがしてうれしい。また枯葉に朝の光が当たるのは何でもない平凡な風景だが、これも冬の詩情を感じさせてくれるものがあってうれしいものです。
若い頃、樹木に関心があったわけではないが、落葉樹よりも、葉の散らない常緑樹がいいと思っていました。それがいつごろからか、落葉樹がいいと思うようになり、裸になった木を見ると、心も人格もある「木の人間」を見るような感覚が湧いてきて、時には兄弟を、また自分の分身を見るような気さえもして、いっそう裸木を見るのが楽しみで好きになってきました。これも冬でしか味わえないことです。
冬で真っ先に思い出すは、
遠山に日の当たりたる枯野かな (高浜虚子)
という俳句です。私に冬の美しさを開眼させてくれたのはこの俳句でした。はじめてこの句に接した時、瞬間的に脳裏に、生き生きとした美しい冬の景色が浮かびました。俳句ってなんて良いものだろうと思いました。いながらにして、瞬時に冬の大パノラマを見せてくれるのですから。
この句の解説には「蕭条(しょうじょう)たる枯野・・・うんぬん」という説明があったのもよく覚えていて、それ以来「蕭条たる枯野」という言葉も好きになりました。25,歳の頃だったと思います。これもやはり、冬の日射しがあってこその風景です。
そう言えば、岡潔さんの本には、「冬枯れの野に大根の葉が青々と生きている」と云うような叙述があったのもよく覚えています。
わたしはそれまで、なんとなく冬は万物が眠った寂しい季節のように思っていたのですが、冬ならではの良さがあることを発見させてもらいました。
≪人の心の奥の風景≫
昨日、『生命の実相』の第39巻を読んでいたら、聖書の中の「神は光にして少しの暗きところなし」という言葉が出てきて、「この言葉を瞑目して10遍、100遍、1000遍となえよ」とありました。
唱える数はともかく、「神は光にして少しの暗きところなし」と唱えれば、たとえわずかでも光ばかりの世界を観じさせてもらえるのがありがたい。
また、その前には「寂光をさらに超えて」と題する章があり、そこには『出家とその弟子』で有名な小説家の倉田百三さんと谷口雅春先生との宗教上の奥義に関する往復書簡が掲載されていて、それを読んだとき――ここを読むときにはいつもそうですが――読んでいるうちに上へ上へと精神が上昇し、悲喜こもごもの世界を越えて、光ばかりの世界へ出たような気持にさせられるから、谷口雅春先生の宗教的叙述の巧みさやその境地の深さに感心させられるばかりでなく、こちらまで嬉しくなってきます。
「我、常にここにありて滅せず」というのは、同じく『生命の実相』の中に書かれている釈迦の言葉だが、こういう言葉に接するたびに触発されて、一瞬ながら普段の自分を飛び越え、飛躍した気持ちにさせてくれるからこれも有難い。言葉というものはほんとに不思議なものだと思います。
我、常に此処に在りて滅せず。
天も地も過ぎゆくが、あなたは過ぎゆかない。(『神との対話』より)