昭和38年に谷口雅春先生が南北アメリカ、ヨーロッパをご巡錫された時のこと。
ハワイのホテルの廊下を歩いている時、谷口雅春先生ご夫妻とすれ違ったボーイ二人が、「キリストのような人だ!」と言いながら、後に続く徳久先生のそばを通り抜けて行った。
生長の家のことも、谷口雅春先生のことも何も知らないハワイのボーイが、すれ違いざまに見た先生のことを、「キリストのような人だ!」と言いつつ通り過ぎて行ったことに感動した徳久先生は、そのことを谷口雅春先生に報告せずにいられなかった。
その話を聞いた先生は、ニコニコしながら、
「その人たち、キリストを見たことあるのかね?」とおっしゃられたとのこと。
しかし、私たちが「キリストのような人」と言うのは当たり前でも、何も知らない異国の人が、通りすがりにちょっと見ただけでそのようなことを口走るというのは、尋常なことではないと思う。
また、ニューヨークの国際連合本部においでになった時のこと。
広い建物の中を歩いて疲れてきた時、ちょうど図書閲覧室のようなところに適当なソファがあったので、そこへ腰をおろして少し休まれた。すると先生ご夫妻の側へ、とても品の良いアメリカ人女性が近づいてきて、
「ぜひ、お名前を聞かしてください。そして、できることなら、握手をしていただけないでしょうか?」
と言った。そこで先生に随行していた徳久先生が、
「どうしてですか?」と尋ねると、その婦人は、
「私はここで長い間働いておりますが、あなた方ご夫妻のような、神の叡智にみちた、平和な雰囲気の方にお目にかかるのは初めてです」と答え、先生はニコニコと手をさしのべて握手されたとのこと。
以上は、「生長の家」誌、昭和58年11月号の徳久先生の記事の中で紹介されている話で、以前にも読んだ記憶はあるのですが、あらためて感動させられました。
同時に、「自分はこの素晴らしいみ教えに触れながら、本当に真剣に道を求めているのか?いい加減のところで、何となく、無理だ、とあきらめの気持ちがあるのではないか。少しぐらい知ったところで満足してしまっているのではないか?」と、反省させられました。
いくら先生が素晴らしくても、いくらそのみ教えが素晴らしくても、周囲をうろちょろしたぐらいでは、み教えに触れた甲斐がない。
別の号には、昭和23年ごろの話として、
「その頃、先生は1日に7回ほど神想観をされていた」と、徳久先生が書いておられました。
私は今、仕事もないのに2~3回で、その内容も少し惰性的で、それでいい気になっていたので、ぜんぜん真剣さの足りないことを思い知らされました。
そして、
「まだまだ時間はある。たっぷりある。あきらめるな!あせるな!」
と、気持ちを新たにしました。
☆ ☆ ☆
以下は、「生長の家」誌、昭和59年新年号からの抜粋です。
「編集部構成」となっています。解りやすい説明だなと思って、抜粋させてもらいました。
(はじめの方の問答省略)
問:「戦争は心に於いて先ず始まる」としても、その起こっている戦争は実際に存在するのではありせんか?
答:それは、私たちの心の反映としてアラワレているものとしては存在しています。ところが戦争は、人間が人間を憎むことをやめ、物質に執着する心をやめ、戦争をやめようと思えばいつでも消えてしまうものなのです。人間の心で左右されるようなものは、人間の心の影であって、“実在”ではありません。それは“現象”というものです。
(この間の問答省略)
問:感覚で捉え得なければ、何によって私たちは「実在」を捉えることができるのですか?
答:「何によって」ではないのです。何にもよらずして捉えるのです。このことが非常に大切なことなのです。感覚器官という媒介によって捉えたものは「ものそのもの」ではなく、「この感覚器官を通して見れば、こう見える」という相対認識に過ぎないのです。従って、別の感覚器官を通して見ればまた別のすがたに見えるかもしれないのです。
・・・中略・・・
私たちが「存在の実相」そのもの、即ち「実在」を見るには、感覚器官という眼鏡を外し、眼の水晶体を外し、眼球を外し、視神経を外して、はだかの生命そのものに成りきって、自分の生命と実在の生命そのものとがカチカチと触れることによって実在が把握されるのです。これを絶対実在の絶対認識と私たちは言っているのです。五官による証明を待たないのです。
(以下省略)
ハワイのホテルの廊下を歩いている時、谷口雅春先生ご夫妻とすれ違ったボーイ二人が、「キリストのような人だ!」と言いながら、後に続く徳久先生のそばを通り抜けて行った。
生長の家のことも、谷口雅春先生のことも何も知らないハワイのボーイが、すれ違いざまに見た先生のことを、「キリストのような人だ!」と言いつつ通り過ぎて行ったことに感動した徳久先生は、そのことを谷口雅春先生に報告せずにいられなかった。
その話を聞いた先生は、ニコニコしながら、
「その人たち、キリストを見たことあるのかね?」とおっしゃられたとのこと。
しかし、私たちが「キリストのような人」と言うのは当たり前でも、何も知らない異国の人が、通りすがりにちょっと見ただけでそのようなことを口走るというのは、尋常なことではないと思う。
また、ニューヨークの国際連合本部においでになった時のこと。
広い建物の中を歩いて疲れてきた時、ちょうど図書閲覧室のようなところに適当なソファがあったので、そこへ腰をおろして少し休まれた。すると先生ご夫妻の側へ、とても品の良いアメリカ人女性が近づいてきて、
「ぜひ、お名前を聞かしてください。そして、できることなら、握手をしていただけないでしょうか?」
と言った。そこで先生に随行していた徳久先生が、
「どうしてですか?」と尋ねると、その婦人は、
「私はここで長い間働いておりますが、あなた方ご夫妻のような、神の叡智にみちた、平和な雰囲気の方にお目にかかるのは初めてです」と答え、先生はニコニコと手をさしのべて握手されたとのこと。
以上は、「生長の家」誌、昭和58年11月号の徳久先生の記事の中で紹介されている話で、以前にも読んだ記憶はあるのですが、あらためて感動させられました。
同時に、「自分はこの素晴らしいみ教えに触れながら、本当に真剣に道を求めているのか?いい加減のところで、何となく、無理だ、とあきらめの気持ちがあるのではないか。少しぐらい知ったところで満足してしまっているのではないか?」と、反省させられました。
いくら先生が素晴らしくても、いくらそのみ教えが素晴らしくても、周囲をうろちょろしたぐらいでは、み教えに触れた甲斐がない。
別の号には、昭和23年ごろの話として、
「その頃、先生は1日に7回ほど神想観をされていた」と、徳久先生が書いておられました。
私は今、仕事もないのに2~3回で、その内容も少し惰性的で、それでいい気になっていたので、ぜんぜん真剣さの足りないことを思い知らされました。
そして、
「まだまだ時間はある。たっぷりある。あきらめるな!あせるな!」
と、気持ちを新たにしました。
☆ ☆ ☆
以下は、「生長の家」誌、昭和59年新年号からの抜粋です。
「編集部構成」となっています。解りやすい説明だなと思って、抜粋させてもらいました。
(はじめの方の問答省略)
問:「戦争は心に於いて先ず始まる」としても、その起こっている戦争は実際に存在するのではありせんか?
答:それは、私たちの心の反映としてアラワレているものとしては存在しています。ところが戦争は、人間が人間を憎むことをやめ、物質に執着する心をやめ、戦争をやめようと思えばいつでも消えてしまうものなのです。人間の心で左右されるようなものは、人間の心の影であって、“実在”ではありません。それは“現象”というものです。
(この間の問答省略)
問:感覚で捉え得なければ、何によって私たちは「実在」を捉えることができるのですか?
答:「何によって」ではないのです。何にもよらずして捉えるのです。このことが非常に大切なことなのです。感覚器官という媒介によって捉えたものは「ものそのもの」ではなく、「この感覚器官を通して見れば、こう見える」という相対認識に過ぎないのです。従って、別の感覚器官を通して見ればまた別のすがたに見えるかもしれないのです。
・・・中略・・・
私たちが「存在の実相」そのもの、即ち「実在」を見るには、感覚器官という眼鏡を外し、眼の水晶体を外し、眼球を外し、視神経を外して、はだかの生命そのものに成りきって、自分の生命と実在の生命そのものとがカチカチと触れることによって実在が把握されるのです。これを絶対実在の絶対認識と私たちは言っているのです。五官による証明を待たないのです。
(以下省略)
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