気の向くままに

山、花、人生を讃える

熊と遭遇した或る信仰者の話

2019年07月08日 | 信仰

生長の家の本部講師○○先生は、クマと出合った時の体験を、次のように書いておられる。

  

私は群馬県教区に赴任中、八ッ場ダムの建設計画を知り、出講の帰途、一部がダムに沈む吾妻渓谷を見ておきたいと立ち寄りました。遊歩道に入ると「熊出没注意」の看板が・・・。鈴もない、闘うすべもない、逃げる自信もない。熊が出たらどうしよう。秋の日の午後、不安がよぎりましたが、まだ明るく、山中に進みました。山中を抜け、渓谷も見えてきて安堵しました。

 

その時、
「人のこの世の寿命はその人のこの世における役目のつづくまでは続くのである。いつまでもこの世に役目をもっている人、いつまでもこの世の仕事をもっている人、かくのごとき人々がこの世から去るということは、道理上ありうべからざることである」  (『生命の実相』24巻)

の文章を思い出し、かつて詠んだ私の辞世の句――

        使命あらば吾を生かせよ天津神 死ぬも生きるもすべて天国

を思い出し、「神に全宅すればよいのだ」と気付きました。クマへの敵視と恐怖は間違っていた。クマと私は神において一体。クマに出会ったら微笑めばよいのだ。

 

気持ちも落ち着き、歩いて行くと、10メートルぐらい先の茂みで、ガサッと音がして真っ黒いものが動いています。しばらくすると、小グマがかわいい顔を出しました。「なーんだ、小グマちゃん!」と微笑んでいると、別の子グマが顔を出し、私はまた微笑みました。が、少し経つと、2頭の背後からニョッと大きな親グマが現れ、私と目が合いました。えっ、まさか?クマが目前にいるのです。どうしよう、目を逸らしてはいけない!私は静かに正座し、じっと見ている親グマにも微笑んで合掌し、「クマさん、驚かせてごめんなさい。お食事中を失礼しました。ここでクマさん一家の幸せを祈らせていただきます」と挨拶して姿勢を正し、路傍のお地蔵さんのように固まって神想観(瞑想・祈り)を始めました。招神歌を唱え、宇宙の大生命が自分の生命となって生きている永遠不滅の自分を自覚し、善なる神の創造された宇宙の運行に身を任せ、御心のままに為さしめ給え…と観じて、そっと薄目を開けると、まだクマ親子は姿勢を崩さずにこちらを見ています。

 

あっ駄目だ、自分はクマが早くどこかに去ることを願う心があった。再度神想観をやり直し、神と偕に、クマ親子の幸せを時間の経つのを忘れて祈りました。20分ぐらいたち、われに返ると、前方にクマ親子は仲良くゆっくりと去っていくところでした。私は、その後ろ姿が見えなくなるまで祈り見送って、静かにそこを離れ、胸はドキドキ、足はガタガタでしたが、何か嬉しい気分で駐車場に向かい、渓谷を後にしました。

 

 これは一例で、状況によりいろいろな対処法があるでしょう。しかし皆さんには、ぜひ日ごろから幸せを招く神想観をお勧めし、皆さんの前途を祝して終わります。

 

 

わたしは幸い熊に出会ったことはありませんが、しかし、特に家内と連れ立って岐阜県の山に入るときは、「クマと出合っても目をそらせず、絶対逃げない。必ず家内は守る」と強く自分に言い聞かせていました。いつもそういう覚悟でいると、回を重ねるにつれ、何となく逃げずにいられる自信がついてきました。それはクマへの恐怖心がなくなるからではなく、「逃げたら、もっと怖いことになる」ということが、だんだんと深く潜在意識にまで入ってくるからだろうと自分では思っています。もちろん、実際にはクマと出合ってみなければわからないことですが。ただ、逃げずにいることは想像するほど難しいことではない気がするし、実際多くの人がそのような体験を語っています。

 

しかし、この先生のように熊を数メートル先の至近距離に居るのを目にしながら、目を瞑るなどという事は、そして「座る」などという、こんな話は聞いたことがありません。よほどの「信」がなくては、出来ることではないと思います。それで、衝撃ともに「素晴らしい!」と感動したのでした。

 

そして、こんな人もいるという事を、ぜひ知ってもらいたいと思い、紹介させてもらいました。

最後まで読んでいただき ありがとうございます。

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