気の向くままに

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『冬のソナタ』の思い出

2020年09月30日 | 人生

今から17,8年ぐらい前になるだろうか、かつて『冬のソナタ』という韓国ドラマが大流行した。

 

15年ほど前の乗船中のある日、1日の仕事を終えて風呂に入り、くつろいだ気分で自分の部屋のテレビのスイッチを入れた。
それはクリスマスの日だった。衛星放送で何かドラマがやっていたが、お茶を飲みながら見るともなく見ていると、面白そうだったのでいつのまにか引きつけられて見ていた。

 

やがて番組が終わると字幕が流れ、それがかの有名な『冬のソナタ』だと知った。それは第9回目の放送で、続けて第10回も放送された。それが終わると、毎日2回分づつ連続で放送されるとのことだったので、それ以後年末まで楽しみにして見せてもらった。

 

このドラマは簡単に言えば、男女の三角関係を通して、「愛とは何か」を主題にしていたと思う。

 

私が信仰している「生長の家」では、愛とは自他一体の感情だと教えられている。もう少し詳しく言えば、自分の中にいる神が、相手の中にいる神を見出し、互いに一体であることを自覚する感情だと教えられている。また相手を縛るのではなく、自分の執着を放ち自由にすることだとも教えられている。

 

それは本当の悟りの境地で、私の場合、到底そこまで及ばないが、ともかくわたしは「冬のソナタ」を見て、はじめて「愛とは何か」を教えられた。それは恋愛とは少し違うもので、恋愛は簡単に言えば「惚れる」ということで、胸が痛いといわれるように苦しさも伴うが、この愛するということを知ると、「愛することが幸せ」ということがよく分かるのである。

 

私はまだ十分ではなく、時には腹が立ったりもするが、愛するほど幸せ感が増すことは十分予想できる。
恋愛なら、愛するほど切なく苦しさも増すであろうが、そこが愛と恋愛と違うところだと思う。
また、恋愛熱が冷めてからの愛と言ってもいいかもしれない。

 

とかく結婚も長くなると、最初はお互いが相手のために尽くしたいと思っていても、いつの間にか自分好みに相手を要求してしまっている。すると当然ながらそれだけ不満も出てきたりする。(これは相手を愛しているのではなく、自分を愛しているのであると、本には書かれていたがその通りだと思う)

 

「それは間違っている!」とインスピレーションを与えてくれたのが、偶然見始めた『冬のソナタ』だった。
このドラマの中で失恋する男と同じようなことを、自分がしていたとハッと気付かされたのだった。
私はそれまでの自分を「申し訳ないことだった」と恥じ入り、二度と家内を縛るようなことは言うまい、何でも家内の好きなようにさせてやろうと誓った。するとその瞬間に、家内への不満が一片に消え去り、広々とした気分に満たされた。この時、相手を縛っていた心で自分をも縛っていたことがよく分かった。「こうであるべき」と相手を縛る心が、知らないうちに自分をも縛っていたのだが、それが消えとき、広々とした神の愛につつまれている気持になったのだった。

 

その後、また再放送があったとき、娘に頼んですべての回を録画して貰い、休暇で家に帰るとよく見ていたので、家内から「また見ている」とよく笑われたことだった。そんなわけでこんな話をすると笑われてしまいそうだが、私にとっては大きな転換点を与えてくれたドラマだったのである。