気の向くままに

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「村八分」の本当の意味

2020年09月13日 | 社会

昨日はフルタイムの仕事で疲れたが、夜、生長の家関係のオン・ライン講話があり、それを視聴しました。
その中で「村八分」という言葉についての説名があり、それがとても良かったので紹介させてもらいます。

 

メモはしてなかったので、「村八分」について書かれていた本の題名や著者は覚えていないが、ともかくその方面の研究者であることは間違いありません。

 

その研究者によれば、「村八分」は「村八分」であって「村十分」ではないということらしい。
それはどういうことかと言うと、八分についてはお付き合いしないが、あとの2分については別である。あとの2分とは、一つは火事に見舞われたとき、一つは家族の誰かが他界したときで、この場合はお付き合いさせていただくというわけで、そこから「村八分」という言葉が生まれて来ているそうです。

 

だから、「村八分」と言うと、今までは「村からのけ者にされている」という「冷たい仕打ち」のイメージでしたが、この話を聞くとそうではなく、本来なら村からのけ者にされても仕方がない処だが、火事に見舞われたときとか、家族の誰かが他界したそんな重大事の場合は別である、と言うのだから、これは「仕打ち」というより、むしろ「やさしさ」のように感じられたのでした。それで、日本人はやっぱり優しいところがあるんだなと、嬉しい気持ちにならせてもらった次第です。

 

結論を言えば、「村八分」は「村10分」ではなく、どんな場合でも2分については別であると、そんなやさしさが含まれている言葉なんだと思いました。

 

話は少し変わりますが、思い出したので書かせてもらいます。
私が初めて船に乗ったころに比べて、今では税金対策でパナマ船籍とかリベリア船籍が多くなって、日本国籍の船はうんと少なくなっているし、また船員も、経費節減で外国航路に乗る日本人船員も本当に少なくなっていて、多くが東南アジアの船員によって運行されています。

 

それで20年ほど前のことになりますが、あるフィリピン人船員に「日本の船に乗っていてどうか」と聞いたことがあります。すると彼は凡そ次ように答えてくれました。

「日本人は吾々を差別せず対等に付き合ってくれるから、同じ乗るなら日本の船に乗りたい。だけど、お金が欲しい人はイギリスの船に乗る。でもイギリス人は吾々を差別するから、私は日本の船がいい」と言っていたのを思い出しました。

 

        

コメント (2)
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