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気の向くままに

山、花、人生を讃える

宇宙と人生と

2020年10月09日 | 人生

以下の記事は2014年に書いたものを復活させたものですが、読んでいただければ幸いです。

 

上のイラストは、宇宙誕生の瞬間から現在の宇宙までを単純に図式化したもので、このようなイラストは宇宙について書かれている本には必ずと言ってよいほど掲載されているものです。

 

一番下が宇宙の始まりの瞬間であり、一番上が現在の宇宙です。
何にもないところから、ある時ひょっこりと小さな小さな一点が現われたかと思うと、たちまち爆発し、膨張し、今も膨張し続け、現在の宇宙になった。そして宇宙の年齢は137億年と言われています。
これを逆にたどれば「宇宙の初め」に行きあたり、宇宙には「はじまり」があったことになります。

 

一番上の現在の宇宙に相当するところにはいくつかの銀河が描かれています。そしてわたしたちはこの銀河の内の一つである天の川銀河の中の太陽系の地球に住んでいるのですが、そんなことを思いながら、このイラストを見ていると、わたしたちがなぜここにいるのか?という、その全体像が見えてくるようで、「人生はお芝居」と言われることに、成程と頷ける気がしますが、どうでしょうか。

 

日本では昔から人間の本質を神の分霊(わけみたま)と言われているが、その「神の分霊」である人間が、肉体という舞台衣装を着て、この地球という舞台に下りて来て、お芝居を演じている。そして一人一人が自分の人生の脚本家であり、一人一人がその主人公である。このような人間観を、わたしは「なるほどなあ」と、このイラストを見ながら思います。
このイラストが、ちようど、昔のテレビのブラウン管のようで、現象世界は「映し世」「浮世」と言われることも、成る程と思えます。

 

さて・・・・・、
宇宙を過去へ過去へと遡っていくと、最後は始まりの小さな点さえもなくなって、エネルギー無限大になるのだそうで、なんにもないのにエネルギーは無限大という物理法則最大の矛盾にぶつかり、これを「始まりの特異点」といっているそうです。 

 

何にもないのに、無限大のエネルギーが現われる。いったいそれはなぜか?と研究者たちはさらにその先へと踏み込もうとしているのですが、しかし、それはもはや物理法則を超えた世界であり、哲学、あるいは宗教的な領域とも言え、多くの科学者たちがそんな世界へと目を向け始めているとのことです。
そして、その一人であるイギリスのブライアン・ジョセフソン博士はこう言っています。

 

○私は、精神が物質を生んだと考えています。私たちが、宇宙だと考えているものより以前から、精神が存在していて、時間と空間は、この精神の中から作り出されたと思います。この精神は、人間の精神とは何もかも違ったスケールを持っています。この最高精神と結びつくことによって、人間の精神は、可能性を広げていくことができます。宇宙を創造した最高精神は、一種の『サイコキネシス(距離をおいて精神力で物を動かしたり変形したりすること。念動。)』のようなものだったと思います。精神と物質の相互作用です。そこでは、最高精神の働きかけで、エネルギーが一カ所に集められて、ビッグバンが起こりました。 (NHK「アインシュタイン・ロマン」より)

 

ジョセフソン博士は、たくさんのノーベル賞受賞者を輩出しているイギリス、ケンブリッジ大学のキャベンディッシュ研究所の物理学者で、「ジョセフソン効果」の論文でノーベル賞を受賞。今、彼は直感力を持つコンピュータの開発など、意識や精神の法則を探究し始めている。とのこと。 (NHK「アインシュタイン・ロマン」より)

 

ここで注目してほしいのは、世界の第1級の科学者が「精神によってこの物質宇宙が作り出された』と言っていることであり、また「この最高精神と結びつくことによって、人間の精神は、可能性を広げていくことができます。」と言っていることです。ちなみに「アインシュタイン・ロマン」では、このブライアン博士が座禅の姿勢で瞑想しているところも紹介されていました。また、瞑想する科学者たちも増えているとのことでした。

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

 


似たもの夫婦

2020年10月08日 | 人生

昨日、家内が食事の最中、○○さんに宇宙がどうの、地球がどうのと宇宙論というと大げさだが、何かそのような話を「知ったかぶりして話しちゃった」と可笑しそうに話した。

 

続いて、
「図書館が休館していたもんでね、何か本を読みたくて、おとうさんの物理とか宇宙の本をこっそり読んでいたの。そしたら、よくわからないけど面白かったので、ついしゃべってしまった」というのであった。

 

それを聞いて嬉しくなったのは私だった。
「おお、その面白さがわかってくれたか」という感じである。

 

宇宙がどのようにしてできたかということは、アインシュタインの相対性理論と、量子力学というミクロの物質の研究が進んだことによって、この2つが車の両輪となって、ずいぶん分かる様になって来た。

 

相対性理論の発表される前は、時間空間は変化しないものと考えられていて、物理の対象外であった。
しかし、アインシュタインは時間も空間も相対的なもので観察者の状況によって変化するもの。そして時間と空間は別の現れ方をしているが、本来同じものであることを発見し、それを時空と呼んだ。更にアインシュタインは、その時空は、宇宙を構成するもう一つの要素である物質(エネルギー)と密接な相関関係があることを発見し、その変化の関係をたった一つの方程式で現わすことに成功した。当時の科学者たちは、そのシンプルな美しさに感動したという。


例をあげれば、浦島太郎の話が単なる空想ではなく、現実に起り得ることを証明した。
物理学ではこれを「浦島効果」と名づけているらしく、こうして相対性理論は当時の常識を打ち破った。
この浦島効果は日常生活の中でもおきていることだが、その効果があまりに小さいので人間の感覚ではとらえきれないだけのこと。

 

一方の量子力学は原子を構成する電子など、ミクロの物質や、その振る舞いについて研究するものだが、こちらもそれらについて何かが発見されるたび、常識を覆すことばかりで、研究者たちにとっては驚きの連続だったようである。代表例をあげれば、パソコンや携帯電話、スマホなど、電気製品の進歩は、これらの研究がもたらしたものだ。

 

そして、この相対性理論と量子力学を得たことで、宇宙についての研究も進み、こちらも新発見があるたび、研究者たちを驚かせてきた。

 

人間は、或る意味、常識という檻の中に棲んでいるようなものだから、何か自由でない苦しさを感じるが、こういう本を読んでいると、自分の中の常識が打ち破られいく。そして、高揚感さえも感じる。
だから、よくわからないけど面白い、ということになるのかと思う。

 

それで、わたしは「それなら、もっと初心者用のわかり易い本があるよ」と言えば、
「それなら、その本見せて」と言うので、さっそくその本を差し出した次第。

 

ということで、以下は私の独り言。
かあさんよ。俺たち似たもの夫婦だな。
いつか一緒に宇宙へ羽ばたこうぜ!

 

追記
人間が不自由を感じるのは、人間は本質的に本来自由であって、その自由をどこかで経験して知っているから、自由でないとき、不自由を感じるのである。もし人間が本来不自由なら、不自由さえも感じることが出来ない・・・と、ある本に書かれていたが、私は感動しながら、成程と思うのです。


昨日の1日

2020年10月06日 | 人生

昨日は家内を連れて日赤病院に行った。
先日、家内は息苦しさを感じたらしく、心配して近所の医者に診てもらったのだが、紹介状を書くから詳しく日赤で診てもらった方が良いとのことだったので、昨日診てもらうことになったのだった。

 

結果は「異状なし」ということで安心したが、月曜日ということもあったせいか診察を待つ人が多く、ずいぶん待たされてしまった。予約の時間は10時半だったので10時に着いて、終わったのは14時30分だった。その間近くの店で食事をしたが、その時間を別にしても3時間半は病院内でじっと待ち続けて、剪定の仕事をしているよりも疲れた気がした。

 

待っている間は、イヤホンで自分で朗読して録音した『神との対話』(ニール・ドナルド・ウオルシュ著)をずーと聞いていたので、何だか耳も疲れてしまった。ずーと長い時間きいておられたのは、その対話が素晴らしいからだが、改めて私の心に響いたのは次の箇所だった。少し長くなるが、過去に抜き書きしていたものを掲載させてもらいます。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

神:家庭人にとっては、気を散らすことがいくらでもあり、現世的な心配がいくらでもある。
だが、精神的な美だけを追求する者はそうしたことに煩わされない。
パンと水を携え、粗末なワラ床で休み、祈りと瞑想と神性を思いめぐらすことにすべての時間を捧げる。
そういう環境なら、神性を見ることはどれほど簡単だろう!務めはどれほど単純だろう!
しかし、配偶者があり、子供があったら!
午前3時におむつを変えなければならない赤ん坊に神性を見る。毎月1日に支払わなければならない請求書に神性を見る。
配偶者を襲う病に、奪われた職に、子供の発熱に、親の苦痛に神の手を見る。
それができたら、聖者だろう。
あなたが疲れるのはよくわかる。苦闘にうんざりしているのもよくわかる。
教えてあげよう。わたしに従えば、苦闘は終わる。神の場で暮らせば、すべての出来事が祝福になる。

                                            

ニール:でも、失業して、家賃を払わなければならず、子供は歯医者にかからなければならないとき、どうすれば神の場に着けるのですか。高貴で哲学的な場が、こうした問題を解決してくれるとはとても思えないんですが?

 

神:つらいときには、真の自分を忘れがちになり、自分が選んだ人生を創造するために与えられた道具を忘れがちになる。
今こそ神の場に行くときだ。そこでまず大きな精神の平和が得られる。
平和な精神からは良いアイディアが溢れ出す。
そのアイディアで、あなたが抱えていると思っている問題が解決するかもしれない。
第2に、神の場でこそ、あなたの自己が実現する。それが、あなたの魂の目的、唯一の目的だ。
神の場に入れば、いま経験していることはすべて、かりそめに過ぎないとわかるだろう。
言っておくが、天国も地上も過ぎ去るが、あなたは過ぎ去らない。
この永遠という視点から見れば、ものがよく見えてくる。
現在の状況や環境は、一時的なかりそめのものだと正しく考えられるようになる。
そして、それを道具として使えるようになる。
状況や環境は、現在の経験を創造していくうえでの、一時的なかりそめの道具に過ぎないからである。
あなたは自分を何者だと考えているのか?失業との関連で、自分は何者だと考えているのか?
そして、もっと肝心なことだが、わたしを何者だと考えているのか?
問題が大きすぎて、わたしには解決できないと思うのか?
今の苦境からの脱出という大きな奇跡は、わたしの手には負えないと思っているのか? 

 

ニール:あなたの手に負えないかどうかではなく、あなたが手を出して下さるかどうか確信が持てないんです。

 

神:あなたはわたしの能力を疑っているのではなく、わたしの意図を疑っているということなのだね。

 

まだまだ続くが、ここまで。

 

長い時間ジッとしていて疲れてしまったので、病院から帰ってすぐ、個人的に頼まれているお宅へ伺い、2時間ほど剪定させてもらった。このお宅は知り合いで、いつでも好きな時に来てやってくださいということなので、とてもありがたいのである。
その後は録画した映画「エアーホースワン」を見た。面白かった。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

 

追記:この記事に興味を持たれた方は、合わせて 神様に手紙を書く も読んでいただければうれしい。

 


朝のひとり言

2020年10月05日 | 人生

床屋さんには大きな鏡があって、自分の姿とともに背後の部屋の風景や調度品なども映し出される。
それは小さい子供の目には、あまりに本物らしく見え、鏡の向こう側にも部屋があるように見える。

 

わたしが小さかった頃、鏡に自分の姿が映っていることはわかっていたが、部屋は写し出されているようにも見えたし、向こうに部屋がある様にも思えた。それで、実際の部屋や調度品と鏡に映っているものを見比べようと思うのだったが、きょろきょろすると床屋さんに叱られそうで確かめる勇気もなかった。

 

そして散髪が終わったあと外へ出て、鏡の向こう側を確かめると、何もない空き地なので、おかしいなあと首をかしげる。そして次に行ったとき、また同じことを繰り返し首をかしげた。そんなことを何度か繰り返したが、気がついたときには、いつの間にか、鏡に映っているのだと当たり前の如くわかる様になっていた。

 

それよりもっと小さい頃は、新聞社のサービスで、学校のグランドで映画が上映されたりしたが、その会場に親につれられていく。そしてニュース映画で乗用車がこちらへ向かって走ってくるシーンがあるたびに、自分がその車に引かれるような恐怖を感じたのを思い出す。

 

これは、二次元と三次元の区別がつかず、本物と写し出されたものとの区別が出来なかったことによるのだが、これもいつとはなしに分かる様になっていて、いつの間にか怖さを感じないようになっていた。

 

そして思うに、人間は大人になってからも、これと同様な錯覚を起こして不安や恐怖を感じたりしているのではないだろうか。例えば怖い話をニュースで聞いたりすると、いつか自分にもそんなことが起るかもしれないと、現実には起きていないのに、取越し苦労をしたりするのである。

 

お釈迦さまは、生老病死という人間の4つの苦しみから逃れる道はないかと、王宮での何一つ不自由のない皇太子としての暮らしを捨て、その道を求め、修行し、瞑想し、ついに夢(迷い)から覚め、解脱したという。
そして、人間の本質は「本来仏である」と悟り、
「今、ここが仏国土であり、山川草木悉皆成仏」との悟りを得られたという。

 

ああ、拙者もお釈迦様にあやかりたいものだ。

お釈迦様、聞いてますか? 


「恋の未練」を断ち切る

2020年10月03日 | 人生

村田英雄が歌っていた『侍ニッポン』という歌があります。
古い歌だから私も知らなかったのですが、誰かがカラオケで歌ったのを一度聞いて、すっかり気に入り、すぐにこの歌を覚えてしまいました。


その一番の最初の歌詞はこんなふうです。

     人を斬るのが侍ならば
     恋の未練がなぜ切れぬ

と、なかなか粋な文句で始まっています。

これは歌の歌詞ですが、侍といえども恋の未練を断ち切るのは難しかったかもしれませんね。
しかし、侍でもないわたしが恋の未練を見事に断ち切ったという、その自慢話を書かせてもらいます。

世界的に有名な数学博士の岡潔(おかきよし・故人)さんのことはこのブログでもたびたび書かせてもらってますが、その岡潔さんの本の中に、およそこんなことが書かれていました。

○窓を開けると向こうにダッチアイリスの花が見える。離れたところにあるのに、窓を開ければ即座に見える。これが実に不思議である。自分の情緒が飛びだしていっているからだろう・・・と。


わたしはこの「情緒が飛び出す」というところがとても気に入り、さっそく情緒を飛び出させてみようと思ったのでした。
どうしたかというと、乗船中でしたので、船の上から海を見ながら、「今自分の情緒が飛びだして、ふわふわと海の上を散歩している」というイメージで、船から少し離れた海の上、海面から1mぐらい上をフワフワと散歩したのです。


すると、本を読んで感銘していたせいか、本当に情緒が飛び出して、海の上を散歩している気持になって楽しむことが出来たのでした。それで、すっかり味を占めて、その頃はよくそうして海の上を散歩して楽しんでいました。


その後、外航から国内の大型カーフェリーに転職しましたが、東北とか、北海道の雪景色は、その頃の私には新鮮で珍しいものでした。それで、本を読むのに飽きた時など、窓の外の雪景色に誘われ、情緒を飛び出させ、窓から見える雪景色の中を散歩して楽しんだりしていました。


私は20歳の時、初恋に失恋し、21歳の時にときたま本屋で見つけた生長の家の本を読み、神が本当にいることを知り、感動し、「これからは求道一筋に生きよう、二度と恋愛はすまい」と誓っていました。そして、もし結婚するなら恋愛ではなく、見合い結婚のつもりでいました。


ところが運命のいたずらか、転職後、生長の家で青年会の活動をするようになってから、わたしの意中を占める女性があらわれてしまった。その頃には私も少しは大人(25歳)になっていたから、初恋のように胸を焦がすようなことはなかったが、しかし、恋愛感情というものは決して油断ならないもので、「これは困ったぞ」というのが、その頃のわたしの心境でした。そして、「今のうちになんとかして消してしまわなければならない。神様よろしくお願いしいます」という心境でもあったのですが、一旦芽生えた恋愛感情をそうやすやすと消し去ることができるとも思えず、それであればこそ、「これは困ったぞ」というわけでもありました。


ところが、思いがけないところで、思いがけないことが起きてくれのでした。


ある日の仙台港停泊中、部屋の中から情緒を飛び出させ、数キロ先の小高い丘まで一気に飛んでいき、そこでふわふわ散歩している気分になって楽しんでいました。楽しみながらも、心の奥には「これは困ったぞ」という悩ましさ重苦しさがあったのですが、その時、突然に自分の中を流れ星が走ったように、恋愛感情がすーと消えてしまうのがわかりました。それは本当に流れ星が走って消えたような感覚で、同時に身も心もすーと軽くなったのでした。


丸い心とか、とんがった心とかいうように、心には形があると言われますが、形ばかりでなく、心がすーと軽くなって、心には重さもある、とその時思いました。


ということで、これは意識して出来たことではないですが、こんなこともあり得るんだなということで、書かせてもらいました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。


『冬のソナタ』の思い出

2020年09月30日 | 人生

今から17,8年ぐらい前になるだろうか、かつて『冬のソナタ』という韓国ドラマが大流行した。

 

15年ほど前の乗船中のある日、1日の仕事を終えて風呂に入り、くつろいだ気分で自分の部屋のテレビのスイッチを入れた。
それはクリスマスの日だった。衛星放送で何かドラマがやっていたが、お茶を飲みながら見るともなく見ていると、面白そうだったのでいつのまにか引きつけられて見ていた。

 

やがて番組が終わると字幕が流れ、それがかの有名な『冬のソナタ』だと知った。それは第9回目の放送で、続けて第10回も放送された。それが終わると、毎日2回分づつ連続で放送されるとのことだったので、それ以後年末まで楽しみにして見せてもらった。

 

このドラマは簡単に言えば、男女の三角関係を通して、「愛とは何か」を主題にしていたと思う。

 

私が信仰している「生長の家」では、愛とは自他一体の感情だと教えられている。もう少し詳しく言えば、自分の中にいる神が、相手の中にいる神を見出し、互いに一体であることを自覚する感情だと教えられている。また相手を縛るのではなく、自分の執着を放ち自由にすることだとも教えられている。

 

それは本当の悟りの境地で、私の場合、到底そこまで及ばないが、ともかくわたしは「冬のソナタ」を見て、はじめて「愛とは何か」を教えられた。それは恋愛とは少し違うもので、恋愛は簡単に言えば「惚れる」ということで、胸が痛いといわれるように苦しさも伴うが、この愛するということを知ると、「愛することが幸せ」ということがよく分かるのである。

 

私はまだ十分ではなく、時には腹が立ったりもするが、愛するほど幸せ感が増すことは十分予想できる。
恋愛なら、愛するほど切なく苦しさも増すであろうが、そこが愛と恋愛と違うところだと思う。
また、恋愛熱が冷めてからの愛と言ってもいいかもしれない。

 

とかく結婚も長くなると、最初はお互いが相手のために尽くしたいと思っていても、いつの間にか自分好みに相手を要求してしまっている。すると当然ながらそれだけ不満も出てきたりする。(これは相手を愛しているのではなく、自分を愛しているのであると、本には書かれていたがその通りだと思う)

 

「それは間違っている!」とインスピレーションを与えてくれたのが、偶然見始めた『冬のソナタ』だった。
このドラマの中で失恋する男と同じようなことを、自分がしていたとハッと気付かされたのだった。
私はそれまでの自分を「申し訳ないことだった」と恥じ入り、二度と家内を縛るようなことは言うまい、何でも家内の好きなようにさせてやろうと誓った。するとその瞬間に、家内への不満が一片に消え去り、広々とした気分に満たされた。この時、相手を縛っていた心で自分をも縛っていたことがよく分かった。「こうであるべき」と相手を縛る心が、知らないうちに自分をも縛っていたのだが、それが消えとき、広々とした神の愛につつまれている気持になったのだった。

 

その後、また再放送があったとき、娘に頼んですべての回を録画して貰い、休暇で家に帰るとよく見ていたので、家内から「また見ている」とよく笑われたことだった。そんなわけでこんな話をすると笑われてしまいそうだが、私にとっては大きな転換点を与えてくれたドラマだったのである。


懐かしさ、恥ずかしさ

2020年09月08日 | 人生

台風10号は予想されたほどには強くならず、それほど大きな爪痕も残さなかったようで、ほっと胸を撫でおろしておられる方も多いことと思う。

 

それにしても九州の西をかすめて北上する台風が、東海はおろか関東にまでゲリラ豪雨の影響を及ぼしたようで、わが愛知県でも台風が近づいているかのような強い風が吹き、雷を伴った雨でかなり荒れた天気だった。また比較的近くの地域には竜巻注意報まで出て、台風の勢力の大きさが思われた。

 

昨日は剪定仕事の予定が入っていたが延期になった。向こう1週間の予報も毎日雨マークがついていて、炎天下で作業する者にとっては、雨が降る毎に涼しくなるような気がして有難い。

 

その昔、赤道付近を航海中、スコールが来るたびに嬉しかったことを思い出すが、これを思い出すときは、決まって、「あの頃にデジカメがあったらなあ」と残念に思うのである。

 

書きながら思い出したが、先日、残された足跡を頼りにあるブログを訪れた。
すると、歌謡曲らしいYou Tuve再生画面があり、題名を見るとその頃の懐かしい曲があった。
クリックすると、女性の美しい歌声が聞こえてきて「いいなあ」と思いながら、クリックしては数曲聞かせてもらった。
そして、つい懐かしさに浸ってしまった、と言うか浸らせてもらった。

 

「瀬戸の花嫁」、「京都の恋」、題名は知らないが天地真理の歌、エメロンシャンプーCMソングの「振り向かないで」など。
森山良子の「今日の日よ、さようなら」だったかは、私が高3のとき、寮のベランダで涼んでいる時に、ラジオからよく流れていた曲だった。

 

これを書きながら、卒業アルバムにそのベランダでワイワイやっている時の写真があったとことを思い出し、そのアルバムを引っ張り出すと、ありました。これです。

 

                    

これは、5月の連休に帰省する者もいるが、寮に残る者もいて、残る者が帰省する連中を「お母ちゃんに、甘えて来いよ~」などと言って冷やかしている光景を撮ったものだが、このベランダであれこれ話しながら夕涼みをした光景がとても懐かしい。

 

思い出したが、前を女子高校生が通るものなら、ワイワイ、ピーピーうるさいこと限りなしで、残念なことに敬遠されていたようで、女子高生があまり通ることはなかった。

 

数年前、私は出席しなかったが、学校近くのホテルで同窓会がひらかれてその時の様子を録画したDVDが送られてきた。
そのDVDの最初に由紀さおりの「夜明けのスキャット」が流れて来て、それを聞いているだけでその頃の自分に引き戻されるようで本当に懐かしかった。

 

父親が、テレビで懐メロが流れると「自分が若い頃に流行っていた歌だ」と懐かしそうに言うのを度々聞いたが、自分もそんな年になったと思う。その一方で、年ばかりとって一つも生長していないという感じもして、どこか恥かしくもなるのである。

 


8月の終わりに思う

2020年08月29日 | 人生

8月も終わりに近づいている。
コロナと猛暑続きで、出かけるといえば、散歩か買い物位のもので、7月、8月はほとんど家の中に閉じこもりの2ヶ月だった。そんな季節も、いよいよ「終わり」と思うとちょっぴり寂しい。

 

新型コロナのお蔭でいろんな行事が中止になり、定年後がこんなに忙しいとは思わなかったと愚痴りたくなるぐらいだったが、コロナのお蔭で随分のんびりさせてもらい、良い休養になった。

 

そして4月頃から絵を中心にしたブログを訪問させてもらっているうちに、絵を描く楽しみみたいなものが伝わって来て、ちょうど気持ちに余裕もあったせいか、急に描きたいという気持ちが湧いてきた。

 

そして、まるで「才能なし」と思っていた自分が、「おっ、案外いけるじゃないか」ということで、何か書くたびに嬉しくなり、この夏は良いことを覚えたと喜んでいる次第です。

 

下は季節外れですが、先日動画を見ながら描いたトマトです。こんな絵でも描いている間は暑さも忘れてしまうほどです。

           

         

 

話は変わりますが、
毎日5時ごろに起きて瞑想の後、30分ほど散歩しますが、家内も同じく瞑想し後、近くの畑に出かけます。
今日はそのおばあちゃんを取材しようとカメラを持って出かけました。
下がその写真です。

       

     おお、ミレーの「落穂拾い」にも似たるこの神々しい姿! (笑)

    

    ≪収穫した茄子をもって≫

     

       

     おお、何よりも美しいモナ・リザの微笑み!

     そして、わが永遠のマドンナ (笑)   (今日はあなたが主役です)

     暑い中、毎日おいしい食事をありがとう。


おばあさんになったあなたを見られる幸せ

2020年08月22日 | 人生

この頃、ふと思い出す短歌があります。
それは3年ほど前に「ある夫婦の物語」と題して紹介させてもらった記事の中にある、

 

   おばあさんになったあなたを見たかった  庭にちひさくまどろむような

 

という歌です。

 

これはある男の奥さんが乳癌で他界し、一人になったその男が、その後、奥さんを偲んで作った歌なのだが、この頃ふとした拍子にこの歌が思い出される。

 

家内は私より2つ年上で、2年前に肺がんがみつかって手術し、その後の経過は順調だが、以前のような元気さはなくなり、早く歩くと多少息苦しさを感じたりするようだ。そして、もともと痩せていたのがさらにやせた感じで、長い時間、椅子に腰かけているとお尻が痛くるらしいのである。

 

そんなことを聞いたり、痩せ細った姿を見たりしていると、ときどき、ふと「老いたな」との感じを受ける。そしてこの歌が思い出され、何となく愛しいような気持ちが湧いてきて、これまでのことや、若かった頃の家内の姿が思い出され、それと同時に、歌にあるように「庭に小さくまどろむような」おばあさんになるまで、そばで見ていられるということは、本当に幸せなことなんだなということを感じたりするのである。

 

家内の方は、次に生まれ変わって結婚するなら、もっと優しくていい男と結婚しようなどと考えているかもしれない。
しかし、わたしはそれで全然かまわないと思っている。

とにかく、庭に小さくまどろむような、老いた家内を見られるのは、それはとても幸せなことなのだと思う。

 

≪追記≫

ある夫婦の物語」は、NHK「平成万葉集」の3部作の内、「男と女」というサブタイトルの中で紹介された感動的な話です。興味を覚えられ方は是非読んでみて下さい。


「帰省しないほうがいい」と言った母親

2020年08月06日 | 人生

この時期、テレビでも報道されている様に盆の帰省をどうするかで、それぞれ悩ましいことと思いますが、我が家の東京にいる息子家族は帰省しないことになったそうで、私はほっとしているところです。

 

最初は家内が、東京にいる息子に帰省するかどうか電話するというので、私はそんな電話をすれば、暗に「おいで」と誘っているようなものだと思い、「まだ電話するのは早い」と反対したのですが、家内は黙って待っておれなかったようで、結局電話したのでした。すると息子もどうしようかと迷っていたとのこと。当然そうだろうと思いつつ、家内が余計な電話をするから、迷っていた息子が帰省する方向に気持ちが傾きはしないかと、私は心配していました。

 

すると、翌日の朝になって、家内が「やっぱり、来ないように電話する」とのこと。
家内が言うには「息子に判断させるのは気の毒」と思ったらしい。
わたしはそれを聞いて「なるほど、母親らしい考えだ」と思いました。

 

こうして、結局、息子家族は帰省しないことになってほっとしているのですが、家内が最初に電話してから次の朝まで、私は、もし帰省すると言い出したらどうしたものかと、あれこれ心配しながら考えていました。

 

しかし、心配しながらぐずぐずと考えていただけでしたが、家内のお蔭で、帰省しないことになり、「おお、さすがゴッド・マザー!偉大なる妻よ!」というわけで、めでたし、めでたしとなりました。

 

「老いては女房に従え」といいますが、もし、それが気に食わない方は、

「鰯の頭も何とか」と考えるのも、良いのではないでしょうか。(笑)

 


人間は原子の集まり?

2020年07月20日 | 人生

昨日の日曜日、『最後の講義』と題した物理学者 村山 斉(ひとし)教授の講義の再・再放送があった。そのせいと思うが、ブログのアクセス解析によれば、私が以前にその講演の内容を紹介した記事(『最後の講義』 村山 斉 教授)へのアクセスが、夜中に20回近くあった

 

それで改めてその記事を読み、なかなか良い話だと思ったのですが、その中に一つ気になることもあった。

 

それは村山教授の話の中に紹介されている、物理学者ファインマンが、
「もし、今あなたが死ぬとして、100年あとの後世の人に一言だけ何か残すとしたら、何を伝えますか?」と聞かれたときに、「万物は原子で出来ている」と答えたというところです。

 

ここにある「万物は原子でできている」という言葉は、有名な物理学者の言葉だけに、「人間も原子が集まって出来ている」という、特に若い人にはそんな錯覚を起こさせやすい、あるいはそんな人間観を持たせやすいように思えたので、その点を補足したくなったのでした。

 

人体なら、「原子で出来ている」と言ってもよいのでしょうが、「人間も、原子で出来ている」と解すれば、それはとんでもない間違になると思う。人間は、人体を造ったものであって、人体そのものが人間ではない、ということです。

 

原子というのは、以前は物質の最小単位と思われていたものですが、そういう物質は誰かが手を加えない限り勝手に動くものでないことは誰でも知っています。そんな物質である原子を誰が動かすのかと言えば、それは智慧ある生命が動かすのであって、手が造られ脚が造られ、目、鼻、耳が造られ、内臓各器官が造られ・・・という具合になるのであって、原子が勝手に動き集まって人体になるわけではない。補給された栄養分から、それぞれ別の各器官や臓器へと構築されていくには、生命が天下り、生命の智慧(理念)に従って配列されなければ、このような精密な人体が出来る筈がない。その人体の奥にある「智慧ある生命」こそが、人間なのだと思う。簡単な計算機さえも人間の智慧による設計がなければできないことを考えれば、よりわかり易いと思う。

 

イエス・キリストは「人新たに生まれずば、神の国を見ること能わず」と説かれた。するとユダヤの長老だったニコデモと言う人が、「我、早老いたれば、如何にして再び母の胎内に入りて生まれ変わることを得んや」と反論した。するとキリストは、「何回生まれ変わっても、塵(物質)より生まれた者は塵であると言われた。

つまりキリストは、人間を肉体と観るのではなく、肉体の奥にある生命であるというように、自覚の生まれ変わりが必要だということを説かれたのであって、自覚が変らなければ何回生まれ変わっても塵より生まれたと思う者は塵なのである。

お釈迦様も同じことを説いておられて、『般若心経』で顛倒夢想 (てんどうむそう:アルものをナイと思い、ナイものをアルと思う逆さまの思い) を遠離(おんり)すれば恐怖なし」と説かれいる。そして最近の物理学では、般若心経と同じく、物質が本来空であることを教えている。さらに法華経では、その空の奥に、如来のいのちが尽十法に満ちていることを説いておられる。

 

このように釈迦もキリストも同じことを説いておられて、つい難しそうな話になったが、とかく人間は目に見えるものに惑わされやすく、反対に目に見えないものについては忘れがちになります。だから、人間をどのように観るかということは、単に思想の問題というだけでなく、その人が歩む人生にも影響を及ぼすので、補足させてもらいました。

読んでいただきありがとうございます。


ある女性のごみ拾い

2020年06月16日 | 人生

2日前、曇り空だったので、家から車で10分のアジサイ寺に行きました。

ほとんど毎年のことだからあまり新鮮味はないのですが、それでもこの時期になると行きたくなります。

そして、同じようにカメラのシャッターを切ります。

「去年も、その前の写真もあるじゃないか」と思うのですが、心のどこかが納得しないようで、結局、毎年同じようにして写真を撮ります。

今年もたくさんの人が訪れていました。

 

 

 

     紫陽花の青あざやかに空家かな  (平成22年)

 

話は変わって、
次の話は新聞記事に書かれていたものだそうで、「新しいページ」(谷口純子著)という本に紹介されていたのですが、とても良い話なのでここにも書かせてもらいます。(2002年頃に書かれたもの)

 

○東京都板橋区の89歳の女性は、「亡夫の好きだった街をきれいにしたい」という願いから、毎朝駅前でゴミ拾いをしてきたという。ところがある日、持ち帰ったタバコの吸殻が原因で、自宅が全焼してしまった。ところがこの女性は、火事の後に知人宅に身を寄せた後も、落胆して掃除をやめることもなく、「1日でも休めば、ゴミが散乱する」と駅前での掃除を続けているそうだ。

 そんな彼女の所には、全国から数十件の励ましの手紙や電話が寄せられた。中には「母子家庭で生活に余裕はありませんが・・・」とお金を送ってきた人もいる。また、それまでタバコのポイ捨てをしてきた男性が「これからは責任をもってタバコの始末をします」と書いてきたりした。こうして一人の善い行いは、多くの人の善意や善行を引き出していく。

 

と、紹介されていた。

 

毎日暗いニュースばかりがあふれているようですが、気を付けてみれば、中にはこんな素晴らしい話もあるのだと感動させられたのでした。


感動した話

2020年06月05日 | 人生

2日、3日、4日と暑い中でのフルタイムの仕事が続いて、さすがにきつかったが、無事に終わってほっとしています。

仕事先は同じ町内だから帰宅するのにさして時間はかからず、昼食はいつも家で食べています。そして今頃の暑い時期になると、熱中症防止のため先ず水船に浸かるのですが、そのために冷たくなった風呂の残り水にお湯を足し、それほど冷たくない水温にして湯船ならぬ水船に浸かります。そしてさっぱりしたところで昼飯を食べ、また出陣。そして帰宅後また同じことを繰り返します。こうして水に浸かって身体を冷やすのですが、それがとても気持ちよく、身体がよみがえるようです。この時、水があることの有難さをつくづく思います。まさに、お水、さまさまです。

 

さて、話は変わりますが、あるエッセイ本の中に、新聞に出ていたという感動的な記事が紹介されていて、それがとても良い話なので書かせてもらいます。

 

新潟市の中心部に、信濃川にかかる万代橋というのがあるそうです。その橋を、毎朝7時過ぎに、魚の入った箱が山と積まれたリヤカーを引いていく女性がいたらしいのですが、その彼女の姿が、ある50歳になる男性の目に留まったというのです。

 

その彼の話によると、こういうことであるらしい。
彼は3、40代の頃も毎朝その橋を渡り、そのリヤカーを引く女性を見ていたが、当時は特に気にも留めなかった。
ところがその後、首都圏で単身赴任を経験し、その何年か後に、年老いた親の世話をする必要に迫られ、故郷の新潟に戻ることを希望した。すると会社からは、子会社への出向という片道切符を提示された。彼はそれを受け入れ、7年ぶりに新潟に戻った。そしてその春、以前と同じ時刻に同じ姿勢で、橋を渡る彼女の姿を見た。するとその瞬間、感動が突き上げてきたというのである。

 

彼が言うには、
「必要以上に金をもうけることや、他人と競争することとは無縁に働く姿を、美しいと思った。働くことの本当の意味を語っているような気がした」・・・・・のだそうです。

 

一方の78歳のその女性は、大酒飲みの夫との、平たんではない人生を歩んできたらしく、40年に及ぶ魚の行商に明け暮れたすえ、今ようやく何の心配もない、心静かな時を過ごしているとのこと。だが、以前は、煮えくり返るような夫への激しい感情があったそうで、夫が死に、それがもう過去のものとなり、その頃には、そのわだかまりも消え、平穏な気持ちになっていたらしい。

 

そのようにして、以前には何も感じなかった行商の姿に、ある年月と人生経験の後、再びその姿を見たとき、感動に突き上げられたという話ですが、それは何故かと言えば、双方にこのような切実な人生経験があったことがわかり、深く感動させられたのでした。

 

○わたしはこう見ている。あなたが不利だという立場に生まれついた人――グループ――はある。それは客観的な事実だ。さらに、きわめて高い形而上のレベルでは、誰も「不利」ではないことも事実だ。それぞれの魂は自分が達成したいと思うことを達成するのに必要な、自分にふさわしい人や出来事、環境を創り出すからだ。
 あなたはすべてを選んでいる。両親、生まれた祖国、あなたが再入場した環境のすべてを選んでいる。
同じく、あなたは人生の日と時を通じて選択を続け、ほんとうの自分を知るのにぴったりした、過不足ない完璧なチャンスを得られるよう、人や出来事や環境を創造しつづけている。言い換えれば、魂が達成したいことがらから考えてみれば、誰も「不利」な立場にはいない。
 
たとえば、魂は障害のある身体で、あるいは抑圧的な社会や厳しい政治的、経済的環境のなかで仕事をしたいと願うかもしれない。自分が設定した目標を達成するのに必要な環境を創り出すためだ。だから、物理的な意味では「不利な」立場に置かれているように見えても、形而上学的には的確で完璧な環境なのだ。  『神との対話』(ニール・ドナルド・ウオルシュ著)より


自分でできるうちが花

2020年05月27日 | 人生

世間で言われているアベノマスクなるものは未だに届かない。
私がマスクをするのは、ごくたまに買い物する時の短い時間と、今は月に1回の会議のときぐらいなので届くのを待ち詫びているわけではないが、それにしても遅い。もう賞味期限が切れて世間から忘れ去られているのではないかと思う。

 

今となっては、あの騒ぎもただの泡だったという気がするが、しかし、マスクは届かなくても、その泡のお蔭でマスクの品薄状態が少しは解消されてきているようだから、その点では効果があったと言えるかもしれません。

 

私はというと、家内が手縫いで立体マスクを2つ作ってくれたし、先日は妹が来て少し上等らしい1箱10枚入りのものを置いて行ってくれたから、もう十分間に合っているから有難いと思う。

 

剪定の仕事をしていると、目にはあまり感じないが、大ばさみでバサバサと伸びた枝葉を切っていると、埃を吸うらしく咽喉がいがらっぽくなることがある。そんな時にはマスクをすればいいと思うが、それも面倒で邪魔っけなので仕事中に使うこともない。事務所は、感染防止のためマスクをしてくださいと、親切に言ってくれるが、夫々が離れたところで仕事をしているのだから、感染の心配もないのです。

 

昨日剪定に行ったところは、おじいちゃんの一人住まいでした。おじいちゃんと言っても、私より数年上ぐらいだと思うが、足が丈夫じゃないらしい。それで、切りくずをゴミ袋に入れたら12袋になったが、身体が不自由でゴミの回収場所まで運べないので、回収日に来てゴミを出してもらいたいとのことだった。なるほど、そういうこともあるのかと初めて知ったのですが、それで二人で半分づつ車に積んで自宅に持ち帰り、ごみの回収日に出させてもらうことにしました。

 

年をとるということは、わかりきったことながら不便なことなのだと思う。
先日、家内に「この頃どうも腹が出てきた」とこぼしたら、「自分で管理してね」とほざき給うた。
ああ、この冷たい処がたまらなく好きなのよね。(笑)
でも、
正直を言えば、「お前に何かしてくれなどと思っておらんわい」と言いたかったが、「はい、わかりました」と言って、自分の部屋へと去って行きました。

 

それはともかく、

何をするにも、自分でできるうちが花、ですね。


花好きな元気ばあちゃん

2020年04月22日 | 人生

昨日剪定に行った家は、松の木が1本伸び放題になっていたばかりでなく、所狭しと色々な木が植わっており、更にその合間をぬってこれまた所狭しと花の鉢植えが並べられていた。

 

おばあちゃんが言うには、おじいちゃんが「やる、やる」と言いながらちょっともやってくれないので、業を煮やして、シルバーに剪定を頼んだ、とのこと。

 

松の木の選定を終えて、柿の木を剪定していると、おじいちゃんが出て来て、
「俺が切るつもりでいるのに、切ってしまうのか」と言うので、
「おばあちゃんが切って(剪定)くれと言うので切り始めたんだけど・・・」と言うと、
おじいちゃんは、よろよろとした足取りでこちらに近づいてきた。

 

その様子は、いくら「俺がやる」と言っても、とてもできそうにない。脚立に上がることもできないだろうことは一目でわかる。
それなのに、「俺がやる」などと大真面目。

 

大方の年配者は、自分の元気がなくなったことをこぼす人が多いのだが、このおじいちゃんは、まだ大真面目で自分がやるつもりでいるらしい。そのカラ元気が私には可笑しく微笑ましかった。

 

果たして自分は、元気がなくなったとこぼす人になるか、それともカラ元気を続ける人になるか、どっち? と、ふとそんなことを思った。自分としては、こぼすより、カラ元気でも威勢の良い方がいい気がするが・・・・。

 

そして一方のおばあちゃん、話す声も大きく元気のよい人だった。
木はおじいちゃんが「お守り」していたが、鉢植えは盆栽も含めてすべておばあちゃんの趣味らしい。

 

剪定を終わって、切った枝の片づけに入ると、おばあちゃんが手伝おうとする。狭くて足場の悪いところなので怪我をしてはつまらないので「いいよ」と言っても、動かずにはおれないらしく、せっせと片づけを手伝ってくれた。

 

そして、片付けをしながら、大きな声でおじいちゃんのことを「やる、やると言いながら、ちょっともやってくれん。頭にくる」などと乱暴なことを言う。しかし、それがまたどことなく可愛らしく可笑しかった。

 

とにかく元気で気の好いおばあちゃんで、これでは威勢のいいおじいちゃんも形無しで勝ち目がない。
結局、「やるやると言っても出来ないんだから、、いいから切っといて」のおばあちゃんの言うとおりに剪定させてもらった。
そして庭全体が随分さっぱりして明るくなった。

 

おばあちゃんは、とにかく花好きで、株を増やしては知り合いに分けてやるのが楽しみだと言う。
そして、これは何、あれは何と花の説明をしてくれ、良かったら持っていく?と、何度も言ってくれる。
それで、折角だからと遠慮なく頂戴して来たのが、下の写真の花。「オダマキ」の少し変わったものらしい。
もう一つ、写真には無いが(ピンボケだったので)八重のオダマキも頂いた。

        

 

ということで、所狭しのやりにくいところだったのに、また「行きたい」と思う、ひときわ印象的なお宅でした。
どうぞいつまでもお元気で。