ども、砂川です。
車検で、お客様からお預かりしていたクルマを納車に、箕面のご自宅まであがりました。
中央環状線を千里中央で北上、新御堂筋から「萱野」という交差点で左折し、国道171号線
を走ります。
このあたりは新興住宅地、という風に思ってましたケド、お客様のご自宅が近づくにつれ、
旧家のようなお屋敷が立ち並ぶ街並みが見えます。
そんな中、「萱野三平旧邸」という道標がありました。
えぇ~? こんなトコロに?
ほど近いお客様宅へあがって、クルマを納めさせていただいたアト、さっそく、その道標に
したがって、お屋敷が並ぶ旧街道を入って行きました。
本当にありました。萱野三平の屋敷址です。
私は赤穂浪士の大ファンですが、全然知りませんでした。
延宝3年(1675)、萱野の地に誕生した三平は、父重利の主人である大嶋出羽守の推挙により、貞享4年(1687)13歳の時、播州赤穂の浅野家に中小姓として仕官しました。
元禄14年(1701)3月14日、浅野内匠頭が江戸城松の廊下で、吉良義央に切りつけた
刃傷事件の時、鉄砲州の赤穂藩上屋敷いた三平は、早駕籠で昼夜の区別なく早駆けしました。途中、駕籠が故郷萱野の生家の前を通り過ぎる時、偶然にも母の葬式に出会いましたが、主君の御用があるため、そのまま駕籠を急がせ、赤穂に向かいました。
赤穂城の開城後、萱野へ帰った三平は、大石内蔵助を中心とする仇討ちの一党に名を連ねていましたが、江戸へ下る事を願った三平に対し父重利は、三平を浅野家に推挙した大嶋家へ迷惑が及ぶことを思慮して、これを許しませんでした。
内匠頭への忠義と、父への孝行の板ばさみになり苦悩した三平は、元禄15年(1702)
1月14日、自宅長屋門の一室で自刃し、27歳の生涯を閉じました。
「萱野」という地名はココからきてたんですね。
17:00までなら無料で、内部も見学できたようですが、時計をみると17:11。
ザンネ~ン! また次回に。