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砂川自動車商会のドモドモ日記

スナブログ:「崇神天皇」

2016-07-27 18:43:08 | 日記・雑感

ども、砂川です。

最近、私のココロをとらえて離さない人物、第10代・崇神天皇です。

記紀神話の史実性に疑問はあるものの、初代・神武天皇から欠史八代を経て、3世紀~4世紀に実在した大王との見方が少なくなく、ヤマト王権の初の天皇とも考えられています。

欠史八代が「後から付け加えられた天皇」とするのであれば、あるいは神武天皇と崇神天皇がイコールではないか、とも。

古事記では崇神天皇の没年を干支により戊寅としているので、318年(または258年)と推測でき、258年没とすれば、崇神天皇の治世は中国の文献に記載されている邪馬台国の時代と重なります。

邪馬台国畿内説を中心に考えると、邪馬台国とヤマト王権が同一ではないか、その礎を気づいたのが崇神天皇か、あるいは「魏志倭人伝」にある卑弥呼の弟が崇神天皇か、など、あらゆる説が展開します。

さて、「天皇」とは大日本帝国憲法に「万世一系ノ」とありますケド、学問上は、特に古代においては皇位継承が「一系」であったかは疑問視されていて、「三王朝交代説」などもあります。

これは、崇神天皇から始まる王朝、第15代・応神天皇から始まる王朝、そして第26代・継体天皇から始まる王朝、と少なくとも3回の王朝交代があったであろうという説です。

崇神王朝は奈良の三輪地方に本拠をおいたと推測され、古墳がすべてこの地方に集中します。

ちなみに近年、卑弥呼の墓ではないかと注目される箸墓古墳もあります。

そして「~イリヒコ」、「~イリヒメ」と、名称に「イリ」がつく者が多いのも特徴です。

応神天皇以降は羽曳野市、藤井寺市から堺市にかけて、いわゆる大阪平野に古墳があり、都もすべて大阪平野におかれていました。

名称に「ワケ」を持つ者が多く、王朝の交代があったコトが推測されます。

九州の勢力が「征服者」として畿内に侵攻し、王権を奪ったのが応神王朝、という説、いやいや、そもそも「日本書紀」は壬申の乱で勝者となった天武天皇の都合を反映した資料であり、神武天皇より応神天皇までが完全に架空の人物であるという説まで、ホントにさまざまです。

文献の収集については苦労をしそうですケド、もう一度、論文を書くとしたら崇神天皇について、だなと考える今日コノゴロ。

(いや、書く予定はありませんヨ 笑)

 

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