簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

藤尾村横木辺り(東海道歩き旅・近江の国)

2024-08-07 | Weblog
 閑栖寺の辺でも、弁柄格子を嵌めた趣のある二階建て平入りの町屋を
見ることが出来た。この先東海道は、やや下りながら追分町から横木の
集落に入っていく。嘗てこの辺りは、藤尾村横木と言った。

 地名は、豊臣秀吉が京都・方広寺の大仏殿造営の折、巨石運搬で大層
苦労をしたので、道路に丈夫で堅い木を横に敷き詰め、荷車の通行に役
立てた謂れによる。


 
 その後横木は老朽したので撤去され、そこには、1万両の工費をかけ
て新たに車石が敷かれた。
 車石の轍は、年間15,894輛も通行する牛車の性かと思っていたが、轍
は最初から付けられていた、と当地の説明板には書かれている。



 街道の北は南北に流れる国道1号線と、北に向かう国道161号線の結節
点となっている。南には名神高速道路が通り、京都東ICがある。
 地図を見ると、これらの国道と高速道を結ぶ取り付け道路が、大きく
曲り円を描きながら複雑に絡み合って結ばれている。



 道は国道1号線に突き当たると右に折れ、それを横断歩道橋で越える。
橋上からも複雑に分岐・合流する道路の様子を望み見ることが出来る。
歩道橋を下り左に折れて少し国道の側道を歩き、すぐに右の旧道に入る。



 この旧東海道の通りを「旧三条通」というが、すぐ南にIC直結の新
三条通が出来る前までのメインストリートである。
 三条通は、四宮辺りから始まり、先で京都市内に入り三条大橋で鴨川
を渡り、西は右京区嵐山の渡月橋に至る道である。



 この東海道を行き来する旅人にとっては、京の出入口に向かう道で、
この口は「京の七口」の一つ「粟田口」或は「三条口」とも呼ばれた。
今でも「粟田口」と言う地名は残されている。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

物流を支えた車石 (東海道歩き旅・近江の国)

2024-08-05 | Weblog
 特徴的な山門を構える閑栖寺(かんせいじ)の前に、「東海道」の道
標と共に「車石」が展示され、説明文が置かれて居る。
「車石」とは、牛車の通行のために道路に敷かれた石のことだ。



 当時の舗装道路で、この辺りの街道筋では車石で鋪装されていた。
中央が轍ですり減った石の断片が、街道筋の民家の庭先、石塀の一部、
或は庭石として彼方此方に残されていて、思わぬところで目にするこ
とが出来る。



 東海道ではこれまでも色々な材料で舗装された道路を見てきた。 
箱根の坂は当初は自生する箱根竹(笹)を切り取り束ねて敷き詰めてい
たが、やがて平らに切り取った切石が敷き詰められた。
 神奈川の生麦村では、貴人が通る度に麦を刈り取って敷き詰めたとい
い、金谷の坂道は近くで豊富に調達出来た丸い川石を敷き詰めていた。



 当地は京に近い東海道であっても、江戸時代中期頃までは、まだ舗装
されてはいなかった。この辺りは逢坂から続く坂の途中で、雨でも降ろ
うものなら、ぬかるんで、滑ってとても荷物を運べる状況では無かった。


 
 幕府が重い腰を上げるのは、文化2(1805)年になっての事である。
大津と京の間凡三里(約12㎞)に、花崗岩の厚板石が敷き詰められた。
 当時としては画期的な舗装工事で、京に向かって右側が車石の敷かれ
た牛車道、左側は安全を考慮して一段高くした人馬道と成っていた。



 車石の道は明治に入り、官道の整備により撤去されたが、この閑栖寺
の境内の一角には、敷設当時の資料をもとに牛車道を再現し、保存され
ている。

 この史料は、寺の山門が開かれていれば、誰でも自由に境内に入り、
見学することが出来る。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

髭親父の茶屋(東海道歩き旅・近江の国)

2024-08-02 | Weblog


 江戸時代、山科の追分けは、柳緑花紅の札の辻とも、髭茶屋追分けと
も言われたそうだ。
追分けには、髭茶屋町、南追分町、北追分町の三町が並んでいたという。
 元々は「道林町」と称したらしく、天正年間に豊臣秀吉が西国出兵す
る際、この地では道案内のため、町の門々に桃燈(ちょうちん)を出し
て送迎した。



 秀吉は大層喜び、この地に「桃燈町」という名前を与えたと伝えられ
ている。その後、秀吉が方広寺の大仏を造営したさいには、当地の街道
が付け替えられた。
この時、桃燈町から「髭茶屋町」と「八軒屋敷町」に分離したという。



 地図を見ると今日でも、「八間屋敷町」「髭茶屋屋敷町」「髭茶屋桃
燈町」の地名は残されている。

 「髭茶屋町」と言うのは、髭づらの老人がここで茶店を出していこと
から、旅人が何時しか「髭茶屋」とか、「髭追分け」と呼ぶようになっ
たとか。
又「八軒屋敷町」は、分離独立した当初の軒数が八軒であったからだ。



 「放光山・閑栖寺」の前に道標が建っている。
寺は天文23(1554)年の創建の、浄土真宗・真宗大谷派の寺院という。
何時頃の物かは分からないが、東面には「東 逢坂関」、南面(正面)
には「東海道」、西面には「西 京三条」と刻まれている。



 寺は一時焼失したらしいが、東海道の昔からこの位置にあったという。
街道に面して、長屋門が建ち、屋根上には太鼓楼を構える独特の山門で、
元文3(1738)年に完成した。

 太鼓は東海道を往来する旅人に、時刻を知られていたと言う。
門前に、「つきせぬいのちのほとけに帰命す」と「今月のことば」が掲
示されていた。(続)





にほんブログ村 旅行ブログへにほんブログ村


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする