簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
見たまま、聞いたまま、
食べたまま、書いてます。

後楽園駅 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-09-06 | Weblog


 観音と長岡駅間で営業を始めた「西大寺軌道」が、「西大寺鉄道」と
社名を変えたその翌年、路線は森下駅から延伸され、後楽園の正門前に
10番目の駅が出来た。
開業からは4年後の大正4(1915)年の事だ。これにより11.4㎞の非
電化全線単線、軌道幅3フィートの軽便鉄道が全通した。



 後楽園駅が開業する少し前の明治45(1912)年に、岡山市内では岡
山電気軌道の内山下線が岡山駅前から内山下分岐(現・城下辺り)まで
の間で開通していた。

 西大寺鉄道の当時の駅は、旭川に架かる鶴見橋を渡った直ぐの河畔に
有った。当初はここから更に延伸し、岡山市内を走るこれらの路面電車
との接続も目指していたようだ。



 市内への乗り入れも目論んだが、それには旭川に架橋が必要である。
その頃の鶴見橋は粗末な仮橋のような木橋で、鉄道を通すだけの強度は
持ち合わせてはなく、結果どうやら独自に橋を架ける資金までは無かっ
たようで、残念ながらこれは頓挫している。
鶴見橋が近代的な永代橋に架け代わるのは、昭和に入ってからのことだ。



 それでも大正10(1921)年には、岡電による路面電車の番町線が開
通し、番町まで行くと、沿線の「後楽園口」の電停迄は300m程となり、
市中心部との新たなルートが出来上がった事になる。



 現在の「夢二郷土美術館本館」の建つ位置に駅が移るのは、室戸台風
の災害復旧工事により、旭川の支流として東派川が掘られた後の事だ。
東派川には逢来橋が架けられ、駅は以前の場所からは100m程後退した
橋を渡った正面となった。

 この災害復旧工事により、「岡山後楽園」も旭川と東派川に囲まれた
中州に位置する事になる。(続)



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夢二郷土美術館 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-09-03 | Weblog


 日本三名園の一つ「岡山後楽園」の北側、旭川の支流・東派川に架か
る蓬莱橋を渡ると正面に、玄関前に柳の木が植えられた、何やらメルヘ
ンチックな建物が見えてくる。

 三角屋根の上には風見鶏が立ち、赤い煉瓦造りと白のなまこ壁で装わ
れた和洋折衷の建物で、入り口には蒲鉾型のドームが被せられ、なんと
も言えない魅力的な風情を醸し出している。



 ここは岡山県出身の画家・竹久夢二の生誕百年を記念して開館した、
「夢二郷土美術館本館」である。
館内には、夢二の描いた絵や版画、スケッチ、掛け軸や屏風などを始め
デザインした本の表紙などが展示されている。
すぐ隣には、展示室やカフェ、ミュージアムショップを併設したおしゃ
れな外観の「art cafe夢二」も建っている。







 夢二は明治17(1884)年に、邑久郡本荘村(現瀬戸内市)で生まれ、
本名を茂次郎と言い当地では16歳までを過ごしている。
そこには約250年前に建てられたと言う茅葺屋根の生家も残されていて、
夢二の子供部屋などが当時のままに保存公開されている。

 近くには夢二が自らデザインを手がけた洋風建築、少年山荘も復元さ
れていて、一帯は公園となり歌碑なども建ち、これらの建物は「夢二郷
土美術館分館」となっている。



 「夢二郷土美術館本館」と「カフェ」が建ち並ぶ前の道は、奥に向か
うと来客者の駐車場がある。
その道をよくよく見ると、何か曰くが有りそうに、僅かに緩い曲線を描
いているのが解る。

 これが昭和37(1962)年に廃止となった、西大寺鉄道「後楽園駅」の
跡で、それを窺い知る唯一の手掛かりである。(続)

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西大寺鉄道の廃止 (西大寺鉄道廃線跡を歩く)

2021-09-01 | Weblog


 山陽鉄道(現山陽本線)と接続する、長岡と西大寺間を先行開通させ
たのは、言うまでも無く観音院を参拝する観光客の輸送目的である。
この間には競合するバス路線もなく、鉄道は旅客の輸送量も多く経営は
安定していた。

 特に毎年二月に開催される「はだか祭」は書き入れ時で、所有車両を
総動員し夜通しピストン輸送でお客を捌いたことで、年間収入の大半を
この運賃で稼ぎ出したと言う。



 古い写真(岡山今昔写真集 2012年10月 樹林社)を見ると、小さ
な蒸気機関車に何両もの客車を連結し走る姿が残されている。
デッキにまで人が溢れ、車室に入り切れなかった一部の乗客の姿が屋根
の上にまで見える。
当時の路線には、トンネルが無かったのでこのような事も出来たらしい。



 当初には、金岡~沖田~花畑に到る当時の上道郡一円を循環する路線
計画も有ったようだが、これは後に免許を取り下げ実現しなかった。
又後楽園駅まで延伸の後は、市内中心部への乗入れも考えていたようだ。
それは叶わなかったが、それでも岡電の路面電車・後楽園口電停と連絡、
市中心部ともルートが繋がり、暫くは安定した黒字経営が続く事になる。



 そんな鉄道が廃線に追い込まれたのは、昭和に入り勃興した路線バス
の存在である。
また、当時の国鉄が長岡(後の東岡山)から分岐して、西大寺を経由す
る赤穂線を昭和37(1962)年に開業させた影響も大きかった。



 軽便全盛の戦前には九州北部などに、同じ軌間の鉄道もいくらか存在
していたが、バス路線の拡充につれ次々と廃止された。
結果、戦後まで残ったのは、この鉄道のみであったが、同じ年の同じ月、
西大寺鉄道は52年に渡る歴史に幕を下ろしている。(続)





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