簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
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食べたまま、書いてます。

古戦場の亡霊 (東海道歩き旅・尾張の国)

2022-06-13 | Weblog


 田楽狭間で勝利の宴を開いた今川義元は、豪雨の中信長の急襲を受け、
敢えなく敗退し首を掻かれてしまう。
義元の首級は信長に届けられ、首実検されるも、後に駿河に返された。

 一方首のない胴体は、今川の家来により駿河に連れて帰える事にる。
しかし時期的にも想像以上に腐敗が早く、仕方なく途中、今の豊川市辺
りで葬られたという。



 その後、この古戦場の周辺には、夜な夜な白い衣を着た兵士の亡霊が、
辺りを走り回るとの噂が立つ様になる。
そこで嘉永6(1853)年に尾張藩士が塚を築き、地蔵尊を建立し手厚い法
要を催すと、霊は収まり現れなくなったと言う。



 「桶狭間古戦場伝説地」には、「義元の墓」と言われる石塔が有る。
明治に入って直ぐの頃、地元の篤志家が墓として建てたものらしい。
しかし、ここに義元の遺体は埋葬されてはいない。
「義元の墓」には遺体の代わりに、古戦場を走り回っていた、行き場の
ない霊が祭られているのである。



 史跡公園とは道路を隔てた反対側に、桶狭間合戦の戦没者供養と当地
での布教のため、高野山から移転した高徳院というお寺がある。

 この桶狭間の一帯では、近年になっても道路や建築の工事などで地面
を掘り起こすと、地下から鎧や刀などが出土する。
土地の人々は、こうしたものを高徳院に持ち込んでくると言い、寺では
手厚く供養しているのだそうだ。



 この戦では、今川軍には2500人、織田軍には830人程の戦死者が出た
とされている。
当地では古くから戦死者の霊の弔いが行われていて、文化6(1806)年
には、「桶狭間弔古碑」が建立されている。(続)





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