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歩き旅や鉄道旅行のこと
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盛泉寺と難宗寺 (東海道五十七次歩き旅・摂津国)

2025-07-14 | Weblog
 

 交差点を横断し浜町一丁目に入ると左手に、浄土真宗大谷派・盛泉寺
(じょうせんじ)がある。

 説明によると「東本願寺派の元守口別院(東御坊)で、幻の大阪遷都
ゆかりの寺とあり、慶長11(1606)年に教如上人が開基した。本堂は大
坂夏の陣の兵火で焼失した後天保6(1835)に再建された」ものという。



 明治元年天皇は、三種の神器の内の八咫の鏡を持参し、大阪行幸を行
ない、本堂前に「内侍所奉安所(賢所)」を奉安された。
遷都の意志を持っての50日もの長い行幸であったが、江戸城が無血開城
と成り江戸遷都が決まり、このことは幻の大阪遷都ともいわれた。
跡地は史蹟となり山門前に「史跡 内侍所奉安所址」の碑が立っている。



 交差点を越えた左側には、浄土真宗本願寺派・難宗寺(なんしゅうじ)
がある。江戸時代には盛泉寺の「東の御坊」に対し、ここは「西の御坊」
と呼ばれていた。文明7(1475)年、枚方光善寺を建立した蓮如上人が、
その次に開創したと伝わる寺だ。



 その後の元和元(1615)年、兵火により焼失、岩清水八幡宮護国寺
仮堂の古材を再利用し、文化7(1810)年に再建されたのが今日の本
堂である。明治天皇阪行幸の折、盛泉寺には賢所が奉安され、ここが
天皇の御座所として供された。



 山門左の三階建ての建物は「太鼓楼」といい、時間を知らせるもので、
寺の格式の高さを示している。境内の「いちょう」は府の天然記念物で、
推定樹齢500年の巨樹、樹高は25m、目通りの直径1.5mの雄株である。



 難宗寺の角の築地塀の前に四本の古い道標や石柱が残されている。
「左京 すぐ京」、「すぐ守口街道」「御行在所」などと刻まれていて、
嘗てはここが交通の要地であったことをうかがわせている。(続)

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