昭和9(1934)年の室戸台風は、岡山にも大きな被害をもたらした。
「岡山後楽園」の園内は水没し、建物類にも大きな被害が出たが、順次
江戸時代の絵図面を基に復旧が進められた。
復旧に当り園の西側を流れる旭川も、大規模な浚渫工事が行われた。
同時に防災の為、東側に新たな支流(東派川)が掘られ、園地は完全な
中州にある公園となった。
昭和14(1939)年の事で、対岸に向け「逢来橋」も架けられている。
路面電車・番町線が開通した当時は、支流(東派川)はまだ無く地続
きである。従って、旭川に架かる「鶴見橋」を渡り、右に取ると「岡山
後楽園」の入口に到るが、その川を渡った左岸には、番町線の開通より
6年前の大正4(1915)年に延伸開業した「西大寺鉄道」の「後楽園駅」
が建っていた。
江戸時代には、吉井川から瀬戸内海にかけた水運で、大いに栄えた東
部の西大寺は、何時しかし衰退の道を歩んでいた。
「西大寺鉄道」はその挽回策として開通し、度重なる延伸で、岡山市内
まで乗り入れていた。
有名な西大寺観音院の、「はだか祭」への参詣客輸送と言う大きな目的
も有り営業を始めていた。
番町線の開通により岡山市内と、西大寺鉄道との接続が出来上がった。
新たな支流(東派川)の影響で、西大寺鉄道の駅は100m程後退する事に
なったが、それでも路面電車の「楽園口」電停からは、僅かな距離で繋が
り、新たな鉄道で移動の出来るルートが成立した事になる。
そんな鉄道も、昭和37(1962)年に廃線と成り、駅も撤去された。
現在の逢来橋の前に、メルヘンチックな姿で佇む、「夢二郷土美術館」
のある辺りにその駅が有ったと言う。
(「岡山市内電車・番町線」完 「西大寺鉄道廃線跡を歩く」に続く)
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「岡山後楽園」の園内は水没し、建物類にも大きな被害が出たが、順次
江戸時代の絵図面を基に復旧が進められた。
復旧に当り園の西側を流れる旭川も、大規模な浚渫工事が行われた。
同時に防災の為、東側に新たな支流(東派川)が掘られ、園地は完全な
中州にある公園となった。
昭和14(1939)年の事で、対岸に向け「逢来橋」も架けられている。
路面電車・番町線が開通した当時は、支流(東派川)はまだ無く地続
きである。従って、旭川に架かる「鶴見橋」を渡り、右に取ると「岡山
後楽園」の入口に到るが、その川を渡った左岸には、番町線の開通より
6年前の大正4(1915)年に延伸開業した「西大寺鉄道」の「後楽園駅」
が建っていた。
江戸時代には、吉井川から瀬戸内海にかけた水運で、大いに栄えた東
部の西大寺は、何時しかし衰退の道を歩んでいた。
「西大寺鉄道」はその挽回策として開通し、度重なる延伸で、岡山市内
まで乗り入れていた。
有名な西大寺観音院の、「はだか祭」への参詣客輸送と言う大きな目的
も有り営業を始めていた。
番町線の開通により岡山市内と、西大寺鉄道との接続が出来上がった。
新たな支流(東派川)の影響で、西大寺鉄道の駅は100m程後退する事に
なったが、それでも路面電車の「楽園口」電停からは、僅かな距離で繋が
り、新たな鉄道で移動の出来るルートが成立した事になる。
そんな鉄道も、昭和37(1962)年に廃線と成り、駅も撤去された。
現在の逢来橋の前に、メルヘンチックな姿で佇む、「夢二郷土美術館」
のある辺りにその駅が有ったと言う。
(「岡山市内電車・番町線」完 「西大寺鉄道廃線跡を歩く」に続く)
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