簾 満月「バスの助手席」

歩き旅や鉄道旅行のこと
そして遊び、生活のこと
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食べたまま、書いてます。

福岡の市(赤穂線・乗潰しの旅)

2020-06-12 | Weblog
 長船の福岡地区は嘗て福岡庄と呼ばれ、中世、中国地方最大の市が有り、
江戸時代までその繁栄は続いた所として伝えられている。
今でもこの周辺には、一日市や八日市などの地名が残されていて、定期的
に市が開かれていた名残と言われている。



 この備前福岡は東西に山陽道が通り、宿場町としても栄えていた。
舟運の発達した大河・吉井川の河畔に位置し、瀬戸内海運の湊・西大寺
にも近く昔から交通の要衝であった。また目の前に聳える霊峰・熊山の
八幡宮まで45町(約4.9㎞)という追分の地でも有った。



 背後には豊かな備前平野が控えその生産物や、周囲には甕や壷、茶碗
やすり鉢など日用雑器の生産地として知られる伊部(備前焼)があり、
加えて当地は刀の生産地でも有ったことから、古くから市が開かれ発展
したらしい。



 弘安元(1278)年、諸国遊行の旅に出た時宗の開祖・一遍が当地を訪れ
ている。その様子は国宝「一遍上人絵伝」に、「備前福岡の市図」として
描かれている。地元には足跡を示す石碑が立てられていて、周辺では、現
代版の市も定期的に開かれている。



 上人が三人の武士に囲まれている図と共に、鎌倉時代この備前福岡辺
りで開かれていた市の様子、近くを流れる吉井川らしい川などが描かれ、
当時の人々の暮らしぶりを窺わせる貴重な資料として知られている。



 しかしそんな繁栄も、天正年間の吉井川の大洪水で町は川底に沈み、
忽然と消滅してしまった。当時の町並は吉井川の右岸に開けていたと言
うが、度々氾濫を起こす川は再々流路も変わり、今日の備前福岡は左岸
に開けている。(続)





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コメント
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