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following Kuniyoshi to Osaka-Minami 2

2011-05-19 | trip
***国芳と行く大阪2***
 国芳の絵画会をやっている大阪市立美術館を出て、国芳親分は通天閣見物へ。そこで奇妙な物体に出会い、親分肝を潰したようなご様子。

 それは、今流行の串かつのゆるキャラです。中に人間が入っているんですよ。からくり人形より安上がりだしお手軽ですからね。串かつおいしかったです。次はどこ連れてってくれんですかい?地下鉄乗って日本橋へ?大阪にも日本橋ってあるんですねぇ、こっちが先?“にっぽんばし”て読みます。この近くに黒門市場がありますから寄ってきましょう。

 江戸の本町通日本橋界隈が懐かしくなっちゃいました?それよりあそこに国立文楽劇場がありますよ。

 え?文楽って何か?人形浄瑠璃のことです。私も知らなかったのですが、1789年~1801年(寛政~享和元年)植村文楽軒という人が座元になって高津新地に設けた人形浄瑠璃小屋が文楽座で、他には太夫が座元の、1684年に竹本義太夫が道頓堀に創設した竹本座、その門人・豊竹若太夫が1703年に創設した豊竹座などがあったのですが幕末に衰退して、明治末期には文楽座が唯一の人形浄瑠璃劇場になったことから「文楽」が「人形浄瑠璃」の代名詞として使われるようになったそうです。
 高津新地は画像の文楽劇場より奥一帯です。劇場裏手はホテル街で、昼間でもちょっと気の抜けない地域。ここを北上して堀川を渡ると、一九先輩が『木下蔭狭間合戦』を書いたりした時期に住んでいたであろう島之内に入ります。寛政元年から翌年あたりの時期ですから国芳親分が生まれる8,9年前のことです。世話をした近松東南の家が島之内の塗屋町にあって、一九先輩は大西芝居で操り芝居(人形浄瑠璃のことでしょう)を見たと自著の序文に書いているので多分その辺りに借り住まいしていたと思います。この大西芝居小屋で、一九先輩と並木柳と若竹笛躬(ふえみ)合作の『木下蔭狭間合戦』が寛政元年興行されました。


 現在は普通の住宅街ですが、筆紙屋という筆と紙を売っているお店を見つけたので、こんな風情の家並みだったのかなぁと妄想しながら更に北上、南船場まで来て今度は心斎橋方面(現在位置は東心斎橋)へふらふらと。。。
コメント
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