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Ikku's cartoon

2011-04-03 | bookshelf
***一九の戯画***

 「方言修行 金草鞋」の二編東海道之記は、一九自筆草稿も見ることができました。現代は作家は文章のみを原稿に書くだけで、挿絵やレイアウトは出版社もしくはデザイン会社に任せますが、江戸時代は戯作者自らがだいたいの絵や文字のレイアウトまで書いて、挿絵担当の浮世絵師や筆耕に渡すのが通例だったそうです。
 その中でも一九先輩は大坂から江戸へ戻ってきた当初は浮世絵師を目指していたというだけあって絵は玄人並み、駆け出しの頃は筆耕まで自分でこなしていたそうです。その割りに挿絵を他の浮世絵師に依頼して、出来上がりが草稿と変わっていてもこだわりはなかったようです。
 例えば、袋井宿で鼻毛の延高と千久羅坊が留女にひっぱられている場面では、一九の草稿は人物の表情は何も指示されていません。

          

 また、見附宿でのすっぽん屋は、一九の描いた画と全く違う絵になっています
     
 戯作者によっては、絵やレイアウトにまで細かく指示が書き込まれている稿本もあるそうです(式亭三馬など)。一九先輩の稿本はどれも指示らしい書入れは全然見られません。ということは、挿絵師に全面信頼を置いていたんじゃないかと思います。留女の絵はどうみても文句のつけようがない絵となっていますし、すっぽん屋の絵に至っては、一九先輩も「これいいよ!すごいじゃん月麿」って喜んだんじゃないでしょうか。草稿の絵は平凡ですが、月麿の絵は親仁のインパクトがあるし、女の首の入墨は当時最新の流行なのでウケたでしょう。見物する2人の格好もいかにも初めて見る人って雰囲気が伝わってきます。すっぽん屋の「かどや」は一九か月麿、もしくは2人共が実際立ち寄ったお店の名前かもしれません。
 一九先輩は、駆け出しの頃こそ自画でしたが、東海道中膝栗毛で売れっ子作家になってからは浮世絵師らに挿絵を任せるようになりました。しかし、東海道中膝栗毛だけは最後まで自画で通しました(一部他の浮世絵師の挿絵もありますが)。もっとも膝栗毛は一九自画もウリの一つだったそうです。
 「金草鞋」は完結する前に一九が亡くなり、亡くなる前に書いた稿本が歿後2年に渡って出版されました。
 初めて江戸へ出てきて山東京伝の『江戸生艶気樺焼』を読んで衝撃を受け、それを真似たような戯作本を書いた(らしい)のが20歳の時、大坂で浄瑠璃を書いたり、再び江戸に来たときは最初は浮世絵師になるつもりだったらしい、といいます。その絵は誰に師事していたのかわかりませんが、狂歌は三陀羅法師という狂歌師に習っていました。この狂歌師が出した狂歌絵本「五十鈴川狂歌車」(1802年享和2年刊)は絵が北斎担当で、十編舎一九名義で狂歌と肖像画が載っています。

 おちゃらけたものが多い一九の狂歌ですが、「金草鞋」東海道之記で珍しくきれいな歌がありました。

  風なぎて長閑(のどか)なるみ(鳴海)へ近ければ
             花は散りふ(地鯉鮒)の春の静けさ


コメント
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