TheProsaicProductions

Expressing My Inspirations

Tsutaju in Aburatori-cyo?

2013-12-02 | bookshelf
『蔦屋でござる』井川香四郎著
二見時代小説文庫 2012年刊行

 久しぶりに「蔦屋重三郎」で検索していたら、中央区のHPで、通油町(現大伝馬町の一画)に耕書堂跡の案内看板が出来たというのを知りました。今年春、近くを通ったのに知らなかったから気づかなかったのが残念です。ここ数年で蔦重の知名度もあがったようで、嬉しい限りです。
 そして、蔦重を主人公にした時代小説が昨年秋に出版されていたのも最近知りました。図書館にあったので借りて読んでみました。
 「時代小説」というジャンルは、あくまで「フィクション」なのは承知のすけですが、蔦重が新吉原から耕書堂を移転した通油町(とおりあぶらちょう)が、油通町となっていたところから、やや読む気が萎え気味になってしまいました。「小説」なんだから…と気を取り直して読み進みましたが、油通町の蔦重は、本屋は表の顔。蔦重に世話になっている絵師や戯作者たちと、お江戸の世直しをするという裏稼業をしています。
 その絵師や戯作者が、山東京伝や歌麿、馬琴や十返舎一九といった面々。ここでは写楽は遊郭から逃げてきた娘っ子。ということで、1793年頃の設定のようです。物語は、よくあるテレビの時代劇ドラマ、必殺仕事人みたいな感じでした。
 通油町に住んでいた真物の蔦重なら、絶対やらないだろうな~と思うような事をやる、油通町の蔦重は任侠の人。確かに、時の為政者・松平定信の規制に反したような出版物を作っていたから、義侠心があったとも考えられますが、商売人の蔦重に自己犠牲的精神は似合わないように思います。特に馬琴なんかは、蔦重に頼まれてもやらんだろ、と。油通町の馬琴や一九は、恥ずかしくなるくらい格好よく描かれていました。それが逆に、小説の設定が彼らである必然性をなくしているような気がするのは、私だけでしょうか・・・。
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2013-09-15 | bookshelf
春峯庵什襲浮世絵展観入札目録
東京美術倶楽部 1934年昭和9年刊
神保町の古書店にあり

 春峯庵事件の肉筆浮世絵贋作は、警察に押収されて保管庫に入れられたそうです。が、その後テント商(?)の近藤吉助に下げ渡された(なぜ?)、とか海外に売られたとか、現在は所在不明になっているようです。
 小説『春峰庵事件』では、入札会をするに至った作品は、上野の画商グループが贋作だと思わずに購入したもので、その画商グループの発起人が近常六郎という名で登場します。これが、近藤吉助だとすると、警察は購入者に返却したのだと思います。今ならコピー商品を返却するなんて考えられませんが、どうなんでしょうか。もっとも、入札会用に作成された笹川臨風推薦文付き目録があるので、うかつに真物としては売れないでしょう。
 矢田一家の作品は、「春峯庵もの」として古美術界で、現在も出回っているみたいです。(ネットで屏風を発見しました)
 しかし、海外へ売られたものはどうなんでしょうか。しがない浮世絵商の近藤吉助が、真物だとも贋作だとも言わないで、事情を知らない外国人に売ってしまった可能性は、大いに考えられそうです。春峯庵事件に絡んだ人は、みんな欲に目がくらんだ人たちばかりですから。
 贋作を描いた金満少年は、当時16歳で、その制作方法は実に子供っぽいやり方でした。当時雑誌の付録についていた、虫眼鏡みたいな物を大きく引き伸ばして見える道具で、浮世絵画集の一部を引き伸ばして模写していた、というのです。「恥かきっ子」で病身だった金満は、父親や兄弟が好きな浮世絵を描くことによって注目を浴びたかったのかもしれません。彼の模写絵に、他の大人が懐いていた欲がなかったのが、ホンモノと思われた要因かもしれません。
 さて、この春峯庵肉筆浮世絵入札会の内覧会に、渡邊庄三郎も出かけていた、と小説『最後の版元』に書いてありました。彼のその日の日記には、「全部にせもの」と書いてあったそうです。来場者に偽物だと言っても、耳を貸すものは誰もいなかったそうです。笹川臨風博士に賛同していた藤懸静也教授は、庄三郎と同郷で懇意にしていました。一目で贋作だと見破った庄三郎と、見破れなかった浮世絵の最高権威と美術史の泰斗と言われた帝大教授。後者2人は、大金に目がくらんで心眼が曇ってしまったのでしょうか、それとも初手から目利きではなかったのでしょうか。
 怖いのは、こういう権威のある専門家が誤りを犯した場合です。贋作でも「真物の太鼓判」を押してしまえば、真物として後世に伝えられてしまいます。春峯庵事件で実刑を受けた画商・金子浮水は、世間から事件の記憶が消えた頃、小布施に現れて北斎館開館に力を尽くしたといいます。
 また、「春峯庵もの」でない矢田家制作の浮世絵模写画は、今もどこかに埋もれているのでしょうか。
 金満少年は、根津嘉一郎という東武鉄道社長など務めた実業家で浮世絵収集家にその才能を買われて、箱根の別邸で浮世絵の模写を描かされました。根津氏は、日本橋の白木屋で「矢田模作展覧会」を企画していたそうです。更に、海外の名品模写をさせるために渡欧も計画していたとか。しかし、製作中の過労が原因で18歳で死んでしまいました。死後、「遺作発表会」が催され、作品は売約済みになったそうです。30作品ほどあったといいます。それらは、矢田金満の画として今も存在しているのでしょうか。
 根津家は、2代目が初代のコレクションを展示するため、根津美術館を開館しました。現在南青山にある根津美術館に、私は訪れたことありませんが、矢田金満の作品がもしあるのなら、実物を見てみたいものです。
 それにしても、それほどの天才少年に、どうして彼自身の絵を描かせなかったのかが疑問です。有名画家の模写をさせるためだけに利用したのであれば、結局お金目当てだったのか、と眉をひそめたくなります。しかし、有名画家の作品だから欲しがる愛好家が多い、というのが現実です。どんなに素晴らしい作品でも、名もない作家は売れませんが、ビッグネームであれば駄作でも高値がつきます。
 そんな風潮が、贋作詐欺事件を生んだのだ、と思います。
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2013-09-13 | bookshelf
 久保三千雄著『小説 春峰庵事件 浮世絵贋作事件』からわかる、1934年昭和9年に起こった、肉筆浮世絵の贋作詐欺事件の真相は、こうでした。
 天才的な模写絵が描ける矢田金満少年と、絵の勉強をしていた三男・修(小説では治)に、長男の三千男が指示を与えて、写楽、北斎、歌麿、岩佐又兵衛など浮世絵の巨匠の贋作を描かせ、父親・千九郎が真物に見えるように細工を施し、画商の金子浮水が「真物」として顧客に売って、金子と三千男が甘い汁を吸っていました。
 数少ない浮世絵が入手できるので、顧客は入手経路を他人にバラさないし、個人コレクターは自分だけが楽しむ為、多くは蔵へ仕舞い込んでしまい、人目にさらされる機会が少ない、という安心感があり、贋作制作は続けられました。
 ところが、しばらくすると商品がだぶついてくるようになりました。そこで考えたのが、肉筆浮世絵の入札会でした。それには、真物だと信じさせるお膳立てが必要でした。
 浮世絵の巨匠たちの肉筆画が大量に発見されるには、相当な人物がコレクションしていたと思わせなくてはなりません。そこで、金子らは、松平春嶽を連想させる春峯庵という号の、旧大名の華族から発見された、という話をでっち上げました。さらに、当時浮世絵の最高権威だった文学博士・笹川臨風(小説では竹内薫風)に、鑑定と図録の序文を依頼しました。笹川臨風は、多額の報酬と引き換えに、作品を絶賛した序文を書きます。笹川が絶賛すると、彼に師事していた藤懸静也(小説では藤田誠一)帝大教授も賛同しました。
  『小説春峰庵事件』に登場する人物
 藤懸静也は、同年文学博士になり、東京帝大教授となって、美術史界の泰斗と呼ばれた人物でした。これらの権威に裏づけされた作品なら、誰もが本物だと思うことでしょう。世紀の発見と報じた新聞もありました。入札会では、当時のお金で総額20万円の内およそ9万円が売約済みになったそうです。
 しかし、入札会の内覧会の時から、贋作疑惑が浮上しました。新聞各社が疑惑事件として書き立てたため、売約はほとんどキャンセルとなり、春峯庵なる人物が架空の存在だとばれて、金子浮水、矢田三千男、修が実刑を受けました。鑑定をした笹川博士については、真贋鑑定が正確にできるのかが争点となり、警察は、本物と金満少年が描いた絵で実験しました。正しく判定すれば逮捕されますし、わざと間違えれば地位と名誉を失います。博士は、金満少年のを本物だと答え、地位と名誉を失いました。
 笹川博士に賛同していた藤懸教授は、自分の身が危ういと気づいた時に手を引いたので、無事でした。本物そっくりの模写絵を描いた金満少年は、未成年だったためお咎めなし。むしろ天才少年画家として有名になり、ある有名実業家で浮世絵収集家に乞われて、本格的に名画の模写を描くことになりました。しかし、病弱だった彼は、19歳で病死してしまいました。
 結局、贋作詐欺は失敗に終り、被害も大きくなかったようです。この事件の教訓は、お金は人をだめにする、ということです。あと、人は権威に弱い。
 利用された薄幸の少年、金満くんだけが不憫に思えます。しかし、少年の描いた模写が、目利きの画商を欺くくらい素晴らしい出来だったのでしょうか。本の表紙↑の浮世絵が、彼の描いた絵です。東洲斎写楽と書いてなくても、写楽っぽい絵です。紙や顔料に江戸時代のものが使われていれば、鑑定しても真贋の判断は難しいかもしれません。
 事件はその後、風化していきましたが、これらの贋作がその後どうなったのかが、気がかりです。
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2013-09-11 | bookshelf
『小説 春峰庵 浮世絵贋作事件』久保三千雄著
新潮社 1997年刊

 明治政府が推し進めた西洋化によって、日本伝統美術工芸品が大量に海外へ流出する中、それらを商う商売人の中からもこの現象を懸念する人が出てきました。当時、浮世絵を商う画商は、趣味が高じたコレクターから成った者が多かったので、浮世絵を愛し、見る目も肥えていました。たとえ大店でなくても、優れた目利きだという信頼性から、浮世絵を購入する富豪らから、鑑定や相談を受けたりしました。
 現代では、絵画の鑑定で、紙や顔料など識別できるので、製作年代が判別でき、少なくとも後の時代に作られた物かどうかはわかります。しかし、そういった科学技術がなかった時代は、目利きの浮世絵愛好家や浮世絵の権威と認められた学者が、「真物」と言えば真物と認められました。では、目利きや権威が誤った鑑定をしてしまったら、どうなるのでしょう。それによって、大金が動いてしまったら・・・
 春峯庵(しゅんぽうあん)事件(↑小説では春峰庵と表記)は、混乱した時代に、浮世絵に纏わる様々な人々の間で起こった、大規模な贋作詐欺事件でした。新聞にも載り、美術専門書籍にも取り上げられ、事件に関係した人物が、後年事件について発表していたりします。しかし、「浮世絵」という専門的な世界での事件だったためか、庶民の関心は薄かったようです。吉川英治が『色は匂へど』という小説で書き始めましたが、途中で筆を折ってしまいました。理由は、悪人しかでてこないから嫌気がさした、そうです。図書館で目を通してみましたが、物語の序の口で終っていて、どんな話になるのかさえ想像できないものでした。どんなに酷かったのでしょうか。
 『小説 春峰庵事件』に登場する名前は、全て偽名にしてあるものの、ほぼ実名と判るようにしてあり、ノンフィクションに近い小説仕立てになっています。物語は、贋作を製作した一家を中心に描かれています。
 矢田(小説では矢野)家は、元は裕福な家でしたが、嫡男たちの不肖から落ちぶれて、江戸へ移り住みます。千九郎(小説では平九郎)は、裕福だった頃の贅沢が忘れられず、好きな浮世絵を収集したり遊廓で遊んだりの放蕩者でした。長男の三千男(小説では専太郎)は、父親が嫡男として特別扱いしたので、父親譲りの道楽者になりました。彼らの親しんだ浮世絵は、道楽の範囲を超えて通の域に達していました。しかし江戸でも立ち行かなくなった矢田一家は、岡山へ移り、千九郎は手持ちの浮世絵などを元に、古美術商を始めました。といっても新参者の上、田舎なので浮世絵などそうそう売れません。そのうち、千九郎は屏風や掛け軸の表装や直し技術に才能を発揮し、古美術屋は三千男に任せて、表具屋で細々生計を立てるようになりました。
 三千男が浮世絵の買い付けに、芸妓連れで東京へ行った時関東大震災に遭いました。混乱する町中で、荷車に戸板のようなものを集めて回る男と出会い、助けてやるからと言われてついて行きました。男は、贋作を手掛ける売れない画家で、贋作を作るために必要な古い屏風や掛け軸、浮世絵などを集めていたのでした。明治大正時代には、まだ江戸時代の巻紙や顔料が残っていて、それらを使って巧妙に細工していたのです。
 三千男の末弟の金満(小説では満)は、両親が40を過ぎてからできた子で、昔は「恥じかきっ子」と言われ、親が「いい年をしてまだそういう事をしてたのか」と世間から思われるのがいやで、生まれてすぐ親戚に養子に出された、病弱で絵ばかり描いている少年でした。
 世の中が不況になり、養子先の親戚も金満の面倒が見切れなくなり、矢田家が育てることになりました。金満があまりに巧く浮世絵を描くので、浮世絵の歴史などに詳しい三千男が指導して描かせてみました。その絵を表装して、知り合いの骨董屋へ置いてもらったところ、骨董品屋の主人がとんで来て、もっと絵が欲しいといいます。金満の絵がすぐ売れたからです。三千男は骨董屋の主人に問いただします。
 「ちゃんと模写絵だと言ったのか?」。
 骨董品を買う客は、それがいかにも有名浮世絵師が描きそうな絵だと思います。骨董品屋にしてみたら、模写絵だといえば買ってもらえないだろうし、贋作を売っているという信用問題にもなりかねます。主人は、模写だと明言しませんでした。
 気の小さい三千男はショックを受けましたが、古美術商の間では、例え他の店が贋物を置いていたとしても、それを教えないし、間違って自分が贋物を買ってしまっても、古美術商のプライドにかけても贋物だとは言わないで、さっさと手放してしまうのです。古美術の売買は、自分の目だけが頼りだ、ということを、三千男は商いをしている間に学んでいました。
 騙される方が悪い。元来、道楽者の三千男は、大金を手にして居直ります。三千男は、金満に写楽や北斎、岩佐又兵衛、鈴木春信など江戸の有名浮世絵師の模写絵を描かせ、父・千九郎に古く見えるような細工をしてもらい、真物として東京の美術商へ売り込るようになりました。また、震災で出会った贋作をしていた画家の助けも必要だったので、協力させました。
 この時代には、小林文七や渡邊庄三郎の努力の甲斐もあってか、日本国内における日本美術、浮世絵に対する関心も高まり、富豪や成金が浮世絵を高値で買うようになっていました。
 海外だけでなく、国内でも売れるようになった浮世絵は、ますます品薄に。画商たちが作品の入手に四苦八苦している時に、ある画商だけ、新しく見つかったとされる浮世絵の大家の肉筆画を売っている、という噂が業界に流れます。
 その画商と知り合いの、金子浮水(1897年-1978年。本名:金子清次。小説では浮田金次郎)という画商が内情を知って、もっと大々的な贋作制作を企てます。
 小説を読む限り、春峰庵事件の首謀者はこの金子浮水で、懲役刑も一番重くなっています。金子浮水は、浮世絵が海外に流出するのに反対し、肉筆浮世絵の台頭を提唱していた人物だそうです。それは多分真実でしょう。彼も浮世絵を愛するコレクターだったのですから。
 この贋作詐欺事件に関係した人たちは、春峯庵という架空の人物として名前を貸した渋谷吉福(元国学院大学庶務課長。小説では北小路清澄)を除いて、みんな浮世絵を愛する人々だった、という事実に驚かされます。
 何が彼らを失墜させたのでしょうか。
 
 

 
 
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2013-09-09 | bookshelf
『最後の版元 浮世絵再興を夢見た男 渡邊庄三郎』高木凛著
講談社 2013年6月19日刊

 さて、北斎の作品について調べていると、浮世絵贋作事件に行き当たりました。昭和初期に起こったかなり大規模な詐欺事件だったようで、それを元に書かれた小説が出版されていたので読みました。その作品はあくまで小説(フィクション)として書かれていたので、正確な実名も知りたくなり、事件について書かれた書籍がないかと探していたら、今年発売されたばかりの本に、ページが割かれてあるのを発見しました。それが、『最後の版元 浮世絵再興を夢見た男 渡邊庄三郎』↑という本でした。
 浮世絵版元、渡邊・・・現在も東京銀座に店を構える、浮世絵木版画の老舗渡邊木版美術画舗の創業者、庄三郎の木版浮世絵に捧げた生涯を綴った作品です。
 著者は、表紙になっている伊東深水の木版画の襦袢の鮮やかな紅色が、ずっと記憶に残っていて、ある時、スティーヴ・ジョブズの背後に並べられた、アップル社のパソコン画面のひとつに映し出されているのを目にしました。ジョブズは生前、大正~昭和初期に製作された、日本の新版画と呼ばれる浮世絵木版画のコレクターだったそうです。そんな事が契機となって、新版画を生み出した、渡邊庄三郎の日記やメモから書き起こしたノンフィクションを執筆したそうです。庄三郎の生き方が、蔦屋重三郎とリンクするものがあり、興味深く読みました。
 彼は、小学校を出るとすぐに働いたのですが、将来英語が必要になるだろうと考え、英語を勉強します。そして貿易商小林文七商店の横浜支店に就職。小林文七は、飯島虚心に『葛飾北斎伝』を書かせたあの人物です。当時、日本美術、浮世絵などを購入するのは西洋人ばかりで、文七商店も海外輸出で販路を拡大していました。庄三郎は、芸術と何の関係もありませんでしたが、この仕事で浮世絵に関する知識と、いいものを見極める目を養いました。文七は1898年明治31年にフェノロサと「浮世絵展覧会」を開催、明治34年には「北斎展」も主催して、浮世絵の芸術性をアピール。浮世絵の国際的地位をさらにアップしました。著名な日本美術品の輸出窓口は、ほぼ文七商店が取り仕切っていたようで、文七商店は一流美術商社になりました。
 一方、日本の伝統美術品、特に木版浮世絵の海外への大量流出に危機感を持った庄三郎は、なんとか江戸時代から続く浮世絵木版画の技術を伝承できないものか、と悩みます。そして、明治39年、独立して「渡邊木版画店」をオープンさせます。商人としてだけでなく、画家や職人たちと一体になって作品をプロデュースし販売した、江戸時代の板元(版元)を復活させようと、紆余曲折しながら「新版画」を完成させ、販売ベースにのせることに成功しました。しかし、大正の関東大震災、昭和の2度の大戦の影響で、渡邊版画店も開店休業状態になってしまったそうです。

 文明開化後の日本から、浮世絵が流出していくのを危惧していたのは、渡邊庄三郎ばかりではありませんでした。
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2013-09-07 | bookshelf
『葛飾北斎伝』 飯島虚心著 鈴木重三校注 岩波文庫 初版は昭和40年
飯島虚心原著の蓬枢閣版は1893年明治26年刊

 北斎について書かれた書籍は数多くあれど、本人を知る人から聞き取り調査をしたり、北斎自身の手紙などを基にして書いた伝記と聞けば、信憑性がありそうです。
 その名も『葛飾北斎伝』。明治に書かれた本なので、言い回しなど難しかったですが、名古屋での大達磨図イベントの記述もありました。しかし、内容は、猿猴庵の『北斎大画即書細図』を元にして、改めて描き直して紹介した、小田切春江の『小治田之真清水(おわりだのましみず)』に収録されていたものを元にしたようです。紹介されていた北斎が達磨絵を描いている絵が、猿猴庵のものではなかったからです。先に猿猴庵の方を知っていた者として、著者の調査が甘いんじゃないかと思いましたが、この時代では致し方なかったのだ、と後になって気付きました。
 江戸時代から明治に移行して、政府が欧米化を勧めるにつれ、庶民の生活や嗜好も少しずつ変化していった時代です。江戸風俗を写し取った浮世絵に、芸術的価値を認める人は少なく、量産された木版画は特に価値がないので、ふすまの裏紙や割れ物を包んだりするのに使われたといいます。北斎や歌麿、広重、春信などの錦絵(多色摺り木版画、肉筆画)は、外国人が高値で購入して持ち帰っていました。浮世絵を扱っていた骨董品店や古美術商は、手持ちの浮世絵版画がなくなると、クズ屋へもらいにいったそうです。黄表紙や浮世絵が、乱雑に扱われていた時代でした。
 世間で浮世絵が流行らなくなったとはいえ、まだ江戸気質が残る人々の間で浮世絵は愛され、そういう人々の中から、浮世絵通が高じて浮世絵研究者になったり、大学の先生や学者からは、浮世絵の大家と呼ばれる人物も現れてきました。優れた目利きの商人・小林文七(小林文七商店社長)は、フェノロサやビゲローらに多くの浮世絵を売り、一流の美術商になりました。彼は、蓬枢閣という書籍出版部門を立ち上げ、美術書を出版します。
 『葛飾北斎伝』も、小林文七に依頼された飯島半十郎(虚心)が書き上げた作品で、今日伝わっている北斎の逸話は、ほとんどここが基になっているそうです。北斎に会ったことがある人から聞いたという爺さんの話とか、身内に伝わる北斎の話だとか、一応調べたものは全て載せている風ですが、いかにも怪しい内容に対しては、虚心も肯定していません。私の読んだ岩波文庫版は、鈴木重三(1919年-2010年。近世文学、美術研究者)の解説が付いていたので、この伝記が書かれたいきさつも知ることになりました。
 それが、なんとも謎めいていて、浮世絵(近世肉筆画、木版画)の世界、それに纏わる人々の利害・因果関係、慾と権力の渦巻く淵は、深く暗いのだと感じました。
『葛飾北斎伝』に載っていた肖像画  
 飯島虚心は、幕臣の長男に生まれ、榎本武明の江戸湾脱出に同行し函館戦争に参加した、という経歴を持つ浮世絵研究家で、1872年明治5年文部省に入省、教科書編集に従事した人物だということです。彼に北斎の伝記執筆を依頼したのが小林文七で、北斎の肖像画だと言って↑の肖像画を載せるように指示したのも、小林文七でした。
 北斎だという確たる証拠のない肖像画を載せることに、虚心は納得しなかったそうですが、出版者の文七が強行したのか、表紙の次のページに何の説明もなく画像だけが載せられています。
 坊主頭の北斎の姿絵は沢山あるはずなのに、なぜ作者不明のこの画にしなければならなかったのでしょうか。関係者が死んでしまった今、永遠の謎です。                             
 
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people who have Ukiyo-e relations 2

2013-09-05 | bookshelf
北斎席画の大達磨 画:小田切春江
猿猴庵著『北斎大画即書細図』を後に小田切春江が描き改めた

 文化14年に尾張に滞在した北斎は、尾張の有力新興出版書店・永楽屋のバックアップで、どデカい達磨絵を即興で描くというイベントを開催することになりました。どうしてやることになったのか、詳しい経緯はわかりません。北斎の大画即書会は1804年が最初で、地方にもその評判は届いていました。120畳の和紙と大量の墨汁を使うイベントは、藩から墨の販売権を持っていて、美濃和紙の里・美濃出身の永楽屋にとって、宣伝にはもってこいだったのは確かでしょう。
書店に即書会の引札(広告)が貼られている。永楽屋の店先か?

  猿猴庵が描いた画

 大成功だったイベントを余すことなく記した猿猴庵のリポートは、北斎の尾張の門人・墨僊(ぼくせん。月光亭)に書いてもらった序文をつけて、製本されました。それが版本になったのかはわかりません。そして、墨僊がその本を北斎に見せました。北斎は大いに喜び、お礼として即興で描いた「芋の画」を墨僊に託しました。
 本の中には、奇抜な新芸を褒める例えに、屁ひり芸のことを書いた平賀源内の『放屁論』を書名を伏せて記述していました。北斎は、すぐにその意図するところを察し、“屁”につながる“芋”で洒落た、という後日談が、翌年「追加」されて、巻末に北斎直筆の「芋の画」が綴じられました。
 私はこれを見て、北斎にしちゃお粗末な絵だな、と思いました。肉筆画だとこんな稚拙だったのかな?あまりに変に感じたので、よくよく最後まで見てみると、最後に文政8年(1825年)と書かれてありました。実は、猿猴庵オリジナル本をトレーシング・ペーパーみたいに薄い紙に写し取って、裏打ちして製作した転写本でした。作ったのは、『尾張名所図会』の図画を担当した小田切春江(1810年~1888年)という画家です。彼は、猿猴庵の書物を他にも所有していた形跡があり、もし版本で存在していたら、購入していたでしょう。わざわざ精緻に転写したのは、『北斎大画即書細図』は自筆本しか存在しなかったからではないでしょうか。
 コピー機がなかった時代、図画は手書きで写すしかなかったのですから、たとえ版本があったにせよ、北斎の肉筆画は猿猴庵オリジナル私家版にしか綴じられていなかったわけで、小田切春江はオリジナルを借りて写したのでしょう。
 北斎直筆画の付いたオリジナル版は、未発見だそうです。畳120畳大の達磨図も、寺に保管されているのでしょうか?も少し北斎について調べてみました。
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people who have Ukiyo-e relations 1

2013-09-03 | bookshelf
57歳の葛飾北斎
1817年文化14年猿猴庵(えんこうあん)作『北斎大画即書細図』
1825年文政8年小田切春江転写版より

 きっかけは、他愛のないものでした。
 江戸時代の著名人の肖像画のほとんどが、なぜ坊主の老人の姿しか残されていないのか…山東京伝のような、優しいおじ様的肖像画をどうして残さなかったのだろうか…というどーでもいい疑問でした。十返舎一九先輩のは、盃を手にした、いかにも飲んべえ面した60代の男、という情けない肖像画が一番出回っています。広重のは、豊国が描いた数珠を手にした剃髪姿の肖像画ですが、これは死絵なので仕方ないですが、表情はきりりとして生前を偲ばせるものです。
 メディアで紹介される肖像画は、誰が描いたのか表記してないものも多いので、描いた人が生前の本人を見たことない画家である場合もあるでしょう。年老いて死んだ北斎なんて、しわくちゃ爺の肖像ばかりで可哀想になってきます。
  左:作者不明 右:渓斎英泉画
 英泉の絵も坊主の画ですが、表情は北斎を如実に写し取っているように思えます。それなら、自画像だったら確かじゃないか?というと、これが一番当てにならないものでした。以前このblogにも載せた一九先輩の自画像は、ふざけてるとしか思えないものでしたし、北斎にしても同様でした。
「時太郎可候」とあるので、40歳代前半であるはず。
ぜんたいこの時代の画家はシャイだったのでしょう。京伝にしても、戯作に登場させる自画は、艶次郎そっくり(団子鼻)です。しかし、戯作に登場させる実在の人物を、うまく特徴を掴んで描いている場合も多々あります。
 若い北斎 ― 描いたのは、北斎より5つ年上の尾張の文筆家&画家、猿猴庵(本名:高力種信こうりきたねのぶ。1756年宝暦6年~1831年天保2年。尾張藩中級武士)。
 元禄に朝日文左衛門あれば、化政に猿猴庵あり。猿猴庵も文左衛門と同じく、1772年(16歳)から著作活動をしていて、世間の出来事を綴った『猿猴庵日記』や、名古屋城下の出来事を取材した絵入りの記録本を遺しています。文左衛門はプライベートなものでしたが、猿猴庵のほうは、世に伝えるジャーナリストとして活動していたようです。
 そんな彼が、1817年文化14年名古屋へやって来た江戸の有名画家・北斎先生が、西本願寺掛所で120畳の達磨の大画即書会をやる、と聞いてすっとんで行っただろうことは、安易に想像できます。既に江戸などで催され話題になっていたイベントの模様を、猿猴庵は画入りで実況中継風に書き記しました。出来上がったものが『北斎大画即書細図』。猿猴庵の名前が現代でも有名なのは、この作品の存在あってだと思います。
 かくして、ジャーナリストの目で見て描かれた57歳の北斎が、私の目の前に颯爽と登場することになりました。
太い線を描く時は、俵5つ分の藁を束ねた筆を使用。左が北斎。先の画の北斎より皺がない。

彩色は、棕櫚ほうきを使用。右が北斎の後姿。ほうきが達磨の黒目となっているトリック画。
 即書会では弟子が2人補助しています。それぞれ袴の色で識別できるのですが、冒頭の北斎の姿以外、顔に注意を払って描かれていないようです。作品に最初に登場する北斎の姿(冒頭の絵)が、北斎を写し取った画ではないかと思います。
 こうして見ると、どうみても普通の中年侍にしか見えません。ちゃんと髷結ってるし、服装もきちんとしています。想像していた、エキセントリックな北斎のイメージとかけはなれた姿に、最初は信じられませんでしたが、冷静に考えれば、そうだろうな~と納得しました。
 
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diary of a genroku samurai 3

2013-07-19 | bookshelf
尾張藩士 朝日文左衛門重章の屋敷を示した地図
現在の名古屋市東区主税町付近。敷地面積約430坪。

 名古屋市博物館から発行されている「城下町名古屋復元マップ」は、幕末(明治元年頃)の地図なので、文左衛門の名前は載っていませんでしたが、名古屋市東区白壁~主税町~撞木町周辺は町並み保存地区になっていて、マンションの敷地に昔の武家屋敷の門を残していたりして、江戸時代の中級武士の住居だった風情を今も忍ばせています。
 文左衛門は、年俸に換算すれば下級武士と同程度額ですが、郊外に知行地を所有しており、住んでいる地区から判断しても、中級武士の位だったと考えられます。1674年延宝2年、文左衛門(通称)は朝日定右衛門の長男として生まれました。その6年後、徳川綱吉が将軍になります。文左衛門が日記を書き始めたのは、1691年元禄4年、数え18歳の夏でした。
六月十三日、予佐分氏へ鑓稽古に行く。夕飯すでに半ば過ぎて重雲乾方に峙ち卒雨忽ちに至る。人々騒ぎ立て、柄を入れ席を捲き、手々に草履を取りて濡れさざらんと欲す。
 というのが書き出しです。17歳の少年文左衛門くんは、初めての槍稽古をきっかけに、日記を始めたようです。日記の常套句、その日の天候も述べています。しかし、文左衛門くんの記述は、この後悲惨な事故の報告書と化します。
 この夕立は雷と豪雨になり、文左衛門くんは迎えに来た下僕と一緒に帰宅しましたが、雷雨は翌日の明け方まで続きました。そして、日記の日付は変わりませんが、翌日以降に知ったであろう雷雨による事故を、まるで見てきたような筆致で書いています。
この雷、服部甚蔵宅へ落ちけるとかや。甚蔵奥に八畳敷きの間あり。妻子その内に居す。また壁に添いて長刀を掛け置きたり。その下に一りの娘の幼が居たり。時に雷大いに揮う中に、将して長刀の上へ零(お)ち掛かり長刀に当てそびれて落ちて、火玉暫し廻り遶って、柱に騰りて失せぬ。柱弐本のごとく成りたり。ああ長刀なかりせば、幼女何ぞ災を逃れん。長刀は落ちて少し伸びたりという。(後略)
また大曽根へも落ちたりと。(中略)雷庭に零ちて、婆が偏身焦れふすぼりて絶え入り(後略)
大熊庄兵衛足軽、さてさて振雷かなとて戸をあけたれば、雷頂に落ち、脳微塵に砕けて死す。
 という雷事故だけでなく、同じ夜に起きた脱獄事件も記述しています。
同雷の夜、松平権左衛門子源之右衛門、その伯父善左衛門所の籠に居りしが茶碗にて土を掘り逃げ失せたり。(後略)
 第1日めから、話題てんこ盛りの日記。このような調子で、彼の日記は災害・事故・事件などのルポに溢れ、21歳で家督を継いで本丸番同心の職を得て、芝居見物や賭博、酒、釣りなど大人の趣味が盛り込まれ、27歳で畳奉行になってからも、おそらく事務方の役得だったのでしょう、藩や中央からの書面や、城内の人事のリストなども丸写ししていました。
 時は、犬公方綱吉の時代。尾張藩にも柿渋で染めた羽織を着た監視人がいましたが、民衆は職権乱用の悪行に悩まされていたり、ある日尾張藩江戸屋敷周辺の犬40匹が舟で運ばれてきて藩内に放たれたりしたこともありましたが、江戸の役人のように戦々恐々としていませんでした。文左衛門と仲間たちは、しょっちゅう釣りをしていましたし、鳥なども食べていました。こんな記述も、藩が日記を隠した理由だったかもしれません。
 文左衛門の個人的な記述としては、まず食事のメニューや物の価格の細かい記述、好きな芸能については、当代随一の義太夫をそれほどでもないと批評したり、子役を観て帰る客も多いだの皮肉ったり。頼母子(たのもし)会という講の件、一番多いのが仲間たちとの飲み会です。
 現代でも飲み会というのはありますが、江戸時代は飲み方が半端じゃなかったみたいです。各人持ち回りのように、招待したりされたりの酒宴で、気分が悪くなると庭に吐いて再び飲んだり、二日酔いで数日臥せってもまた飲みに出かけていったり。明治初期でも、イザベラ・バードが「日本人はいつも酒を飲んでいる」と書いているので、文左衛門の時代が特別だったわけではないのでしょうが、酒酔いによる事件も多かったことが日記を読むとわかります。
 悲惨だった話― 親友同士の侍が酔っ払って帰宅途中、1人が何を思ってか脇差を抜いて親友に斬りつけ、斬り付けられた方は酔っているのでよくわからずその場に倒れ、斬った方も自分のしたことがわからずそのまま家に帰って寝てしまいました。近くで見ていた農民が斬られた方を介抱しましたが、翌日死んでしまいました。酔いがさめて、親友を斬り殺してしまった事を知ったその侍は、愕然として自害してしまいました。
 泰平といっても帯刀していた時代ですから、刀による殺人や事故は日常的にあったことがわかりました。また、武家は知行地の農民を使用人として雇わなければなりませんが、その使用人と揉めて成敗したとか、主人である侍が使用人を斬り殺したのを別の理由をつけて隠蔽するのは当たり前、といった血生臭い事件も多かったようです。吉良上野介が松の廊下で斬りつけられた事件も、書き留められています。
 また、江戸時代の中期には、刀の試し斬りも行われていて、文左衛門が通っていた道場でも、罪人の死体(なので首なし)を持ってきて、「ためし物」と称して斬っていました。文左衛門は、初めてためし物を斬った時、脚か脇のあたりの肉を少し削っただけだったのに、夕食時手が震えて気分が悪くなって医者にかかった、と書いています。

 このように、文左衛門は約26年間、種々雑多な情報を随筆のように書き留めていました。この「筆まめ」の性質は父親譲りで、父・定右衛門は尾張藩関係の古書や奇書を筆写した『塵点録』という本を執筆していて、文左衛門38歳の時引き継がされています。こちらは全72冊もあります。コピー機がなかった時代、自分で写すのはさぞ労力のいる作業だったでしょう。閑があるとせっせと筆を走らせていた父の姿を見て育った文左衛門は、「書く」ことは当たり前の感覚だったのかもしれません。そして、父が写していた書物の内容をみて、文左衛門は個人的な観念より、面白い出来事や怪異を中心に記録するようになったと考えられないでしょうか。臆病な文学青年とイメージされる文左衛門ですが、鉄砲を習ったり、怪異に関しては合理的な考えで分析しているので、この時代の人としては、迷信などに捉われない現実的な人物だったと想像します。そして、事件があれば飛んでゆく、旺盛な好奇心の持ち主。病床に臥した母親を看病する優しい息子像。誘われると断われないところもある、人付き合いのよさ。ただ、この意志の弱さが禍して、30代半ばから酒で体をこわし、1717年享保2年12月、水野(愛知県瀬戸市水野?)で孫たちと楽しく過ごした後、29日を最後に日記は途絶え、翌年9月に文左衛門(35歳の時父の名を継ぎ、定右衛門となっている)は亡くなりました。享年44歳(数え45歳)でした。
 『摘録鸚鵡籠中記』の下巻の最後に、編注者の解説が載っています。そこに、文左衛門がもう少し長生きしてくれてたらよかったのに、と書いてありました。なぜなら、1716年から将軍吉宗の時代になり、1730年に尾張藩主・徳川宗春が登場するからです。吉宗の逆鱗に触れて歴史から抹殺された宗春。数少ない(藩民が隠し持っていた)史料からでもわかる、江戸時代で一番楽しそうな時代を、文左衛門だったらどう記したでしょうか。
 

 
 
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diary of a genroku samurai 2

2013-07-16 | bookshelf
『摘録鸚鵡籠中記 元禄武士の日記』 朝日重章著 塚本学編注

 元禄期1691年~享保2年1717年という長期に亘る日記で、しかも高名でもない一地方藩士の個人的な日記が、筆者が没した後も藩によって保存されていたのが奇跡です。それは、『鸚鵡籠中記』の特異な性質によるものだと思います。尾張藩によって写本された37冊の和書は、藩蔵の奥に秘蔵され、昭和40年代になってやっと公開されました。
 公開が憚られたのは、幕府や藩への批判や、尾張藩の中央集権に対する反体制的な行動などが書かれていたことが指摘されています。なるほど、文左衛門が物心ついた時、徳川綱吉が将軍になり、13歳の時には「生類憐みの令」が発令され、彼の青年期は綱吉統治の時代だったので、不平不満がでていたのも無理ありません。誰に見せるわけもない日記ですから、思ったことが正直に書いてあります。彼は将軍を「大樹」と書いていますが、(徳川家康生誕の地・岡崎にある大樹寺に由来するのか、後漢書の大樹将軍からとったものか?)敬って書いているようには感じませんでしたし。
 徳川家がこの日記を公けにしずらかったのは、こういう理由だったと思いますが、尾張藩がわざわざ祐筆に清書させてまで保存していたのは、別の理由があったと思います。
 原著『鸚鵡籠中記』から満遍なく記事を摘出して編集された『摘録鸚鵡籠中記』を読んで驚いたのは、災害に関する記述でした。日記というものは、大抵その日の天候を記入するものです。『名古屋叢書続編』の原文を見ても、天気しか記していない日も多くあります。江戸時代は火事が多く、日記には尾張藩の火事だけでなく江戸の大火事などの記述(伝聞記事)も詳細に記述してあり(城の堀にかかる橋の被害状況や死負傷者の数など)、地震などの天災にしても、事細かに記してあります。
 こういう事象を日記に書く時、日にちを間違えることはめったにないと思います。それが関東から帰着した人からの伝聞であっても、1年も2年も違うことは有り得ません。私が不思議に思うことは、この日記の元禄16年(1703年)11月に名古屋で大きな地震があって、壁など剥がれたりしましたが、余震が続いたので外で寝る者が多かったと書いてあり、江戸や神奈川でも大地震と津波が起こり、もっと被害が大きかったことが数ページにわたって書いてあるにもかかわらず、私の手元にある日本史年表には、1703年前後に大地震の記載がないことです。その4年後に起きた富士山の宝永の噴火については、どちらも合致しています。
 元禄16年の大地震(現代では元禄大地震と呼ばれ、震源地房総半島南端、M7.9-8.2推定)は、幕府の公式記録がどうなっているのかわからないので、全くの推測ですが、この頃は綱吉の死亡説だとかよくない噂がたっていた時期なので、不吉な災害は記録に残したくなかったのかもしれません。
 不吉というのも、この大地震は神奈川や江戸から帰着した人々からの話を書いたものも含まれているのですが、そこに「光物3つ」「光物現る」「光物品川方面へ」という目撃談がでてくるのです。さらに、地震の数日前の日記に、流れ星がよく見えたという記述もあります。地震なのに光物?もしかしたら、光物は隕石で、地震は隕石の衝突によるものだったのか?と色めきたちましたが、その後も大きめの余震が続いたとあるので、隕石による可能性は低そうです。では、オーロラ?1703年に巨大な太陽フレアが発生したのかどうかは解らないですが、もしそうなら、世界規模で何かあったと思われますが…。巨大地震に伴う発光現象というものがあるそうですが、鸚鵡籠中記には光物が何色でどんな形かなど詳細が書いてないので、判断できません。(太陽フレアと地震は関係あるそうです。)
 このように、一概に日記とはいっても、文左衛門の日記はルポルタージュの要素も多く(富士山の宝永の噴火は、図入りで書いてあります。)、尾張藩の官僚たちも、貴重な資料として記録する必要性を感じたのではないでしょうか。現に、このおかげで元禄大地震の事実が伝わっているのですから、文左衛門の予期しなかった功績でしょう。
 災害について触れている書物では、鴨長明『方丈記』があります。この場合は、「人生のはかなさ」を強調させる効果を狙って書いたような記述ですが。

 日記は自己満足の世界ですから、本来ならば仕事や愚痴などで溢れそうなものです。しかし、文左衛門の日記は、殺人事件、事故やエンターテイメント、イベント、行楽、仕事関係、仲間付き合い、藩政、家族など豊富な話題を、まず感情的にならずありのままに記し、冷静な考えや批判を付け加えただけに留めています。観念的・哲学的なことをくどくど書いていない(そういう箇所もあるのかもしれませんが)ところから、この人は、現代だったら新聞記者になっていたんではないかと思います。
 小説『元禄御畳奉行の日記』には、仕事(畳奉行)に関することがほんの少ししか記述がない、と云う理由から、文左衛門が仕事に興味がなかったように思われていますが、実際、泰平の江戸時代は武士の仕事がなくて、1人でする仕事を数人で分担していたくらい暇だったそうです。しかも月に数日しか出勤日がなければ、何か特別なことがない限り日記に残さないのは普通だと思います。といっても、仕事の時は何が楽しみかといえば弁当の時間で、それについてはちゃんと記しています。また、京都に出張した折は、取引先からの接待で、遊んでばかりいるように思われますが、当時はそれは当たり前で、何も文左衛門だけではなかった筈です。文左衛門はたまたま酒や遊行が好きだったから、接待もそういう方面が多かったのでしょう。
 むしろ、出張中も日記を怠らなかったばかりか、不在中の名古屋で起こった出来事も記述していたのが、真面目というか使命感が強いといいましょうか。使命感?酒で体をこわし、筆が持てなくなる時まで日記を書き続けた文左衛門の思いとは、何だったのでしょうか。


 
 
 
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diary of a genroku samurai 1

2013-07-14 | bookshelf
『元禄御畳奉行の日記 尾張藩士の見た浮世』神坂次郎著

 他人の日記というものは、何故か覗き見したくなりませんか。大概、個人的すぎて期待したほど面白くないのですが、稀に『アンネの日記』みたいに面白い内容のものも存在します。以前読んだ『幕末下級武士の絵日記』は、ヴィジュアルとして当時のお侍さんの日常が遺されていて、史料としても貴重だと思いました。
 私が江戸時代の庶民生活に興味を抱いたのも、幕末の豪商奥様グループが九州から伊勢神宮~東北~江戸を周遊した、旅行日記を現代の女性作家が編集まとめた本を読んでからでした。これは、日記の原文は大した内容ではないのですが、作家の想像力や想い入れで膨らませてあり、当時の女性の旅事情などが面白おかしく書いてありました。得てして、昔の日記は箇条書きみたいなものが多いらしく、それを現代の書籍にする場合、翻刻しただけでは一般読者には意味が伝わらず、編者が手を加えなければ読めません。同じように、現代の作家が紹介してその名を世間に知られ、ベストセラーになった日記があります。
 
 『元禄御畳奉行の日記 尾張藩士の見た浮世』は、江戸時代元禄期の尾張藩中級武士の1人、朝日文左衛門重章が17歳(数え18歳)から44歳で没する前年まで約26年間つけていた日記『鸚鵡籠中記』を、作家神坂次郎氏が独自の視点で編集解説した本です。原文を引用しつつ、赤裸々に書かれた朝日文左衛門の趣味・嗜好に焦点を当てて、小説風に仕上げてあるので面白く、ラジオドラマやお芝居、漫画になったりしています。おかげで、うだつの上がらなかった地方藩士が、現代でスポットライトを浴びるに至ったといっても過言ではないでしょう。ちょっとネットで検索しても、彼と彼の日記に関する事を書いている記事がたくさんでてきます。
 神坂氏の小説がヒットしすぎてしまったせいでしょうか、文左衛門=出世欲もなく、酒・博打・女遊び・釣りが趣味で、恐妻に悩まされた不良文学武士、というトホホなキャラクターという印象が多いようです。神坂氏の本では、文左衛門のそういうところだけを面白く強調してあるので、そんな風に読み取れます。特に、誰に警戒したのか、女遊びの箇所を暗号めいた漢字で記してあった所などは。
 引用してある原文はそれほどトホホな印象を受けなかったので、原著『鸚鵡籠中記』を読んでみようと、『名古屋叢書続編』第9~12巻を図書館で見てみました。翻刻はしてありますが、途中漢文で書かれていたり、とにかく膨大な量なので、一見して読破は無理だと諦めました。代わりに手頃な本がありました。『摘録鸚鵡籠中記 元禄武士の日記』という、原著から年代順に記事を選び翻刻編集したもので、こちらは編者の私情は入っていません。「摘録」といっても要点をまとめたものではないので、これで全てがわかることもないのですが、摘出の偏りが少ないようなので、日記の全体像と、朝日文左衛門重章の人間像も、その記述から捉える事ができました。
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De Humani Corporis Fabrica & Epitome

2013-05-27 | bookshelf
『謎の解剖学者ヴェサリウス』Vesalius,the founder of modern medicine
坂井建雄著 筑摩書房 1999年刊行

 先日読んだ、養老孟司氏の『解剖学教室へようこそ』でも触れていた、ヴェサリウスの『人体の構造について』という本が見たくて、図書館にでもないかと気楽に調べてみました。人体解剖云々ではなく、挿絵が見たかったからです。タッシェンのEncyclopaedia Anatomicaくらいの手頃な判にして書店で販売してるのかと思っていました。いや、とんでもない。復刻版でも10万-15万の値段だそうです。
 『人体の構造について』― 通称『ファブリカ』は巨大で重くて、世界でも所蔵している図書館は数館しかない、という貴重な書物だと知りました。『ファブリカ』そのものは入手困難なので、著者ヴェサリウスについて書かれた本を読みました。↑
 「謎の」と書いてありますが、特に謎が多い人物だった訳ではありません。ヴェサリウスが『ファブリカ』と『エピトメー』を出版したのが、28歳の時の1543年。そんな昔の事なので、消息がわからない時期もあるものです。しかし、本書の末尾掲載の年表を見ると、彼が生まれた1514年から49歳で亡くなる1564年まで、大体の消息は明らかになっているみたいです。因みに1564年は、ミケランジェロが没し、ガリレオ・ガリレイとウィリアム・シェークスピアが生まれています。
 アンドレアス・ヴェサリウス(現在のベルギー生まれ)は、本書のサブタイトルの英語にあるように「近代医学の立役者」、近代解剖学の基礎を築いた解剖学者・外科医でした。彼の生まれた16世紀ヨーロッパは、ローマ帝国(2~3世紀)時代のギリシャの解剖学の権威ガレノスの説に支配されていました。ヒトの解剖はローマ帝国で禁止されていたため、サルを解剖して著したガレノスの解剖学書が、ヒトの解剖と同じだと信じられ、中世の医師たちは人体解剖をほとんど行わないで、ガレノスの説に盲目的に従っていたそうです。
 宮廷医師の家系に生まれたヴェサリウスも、ガレノス説に出会い解剖学の道に進みますが、彼は実際にヒトを解剖して古い説の間違いを正しました。そして保守派から激しいバッシングに遭ったりもしますが、時代はヴェサリウスの味方でした。
 当時、医学の先進地だった北イタリアのパドヴァ大学へ入学し、22歳で大学の外科と解剖学の教授に任命され、翌年『解剖学図譜』を出版。28歳で『ファブリカ』を出版、同年皇帝カール5世の宮廷侍医になっています。その後も数回『ファブリカ』を手直しして、改訂版を出版しました。
左:『Fabricaファブリカ』  右:『epitomeエピトメー』
『ファブリカ』の大きさは42×30cm、重さは5㎏強 1冊の中で7巻に分かれている
『エピトメー』はファブリカより少し大判で、25ページの厚さ

 現在、『ファブリカ』の英語訳(原書はラテン語。当時ヨーロッパの医学はラテン語が公用語。)が完成したかしてないか…。『ファブリカ』の要約版(入門編)『エピトメー』は、英訳版と日本語訳版が出版されているそうです。とは言っても、内容が専門的かつ情報も古いので、日本語版があっても読む人は解剖学者くらいだと思います。どんな内容なのかは、『謎の解剖学者ヴェサリウス』にも書いてありますが、一般人は魅力的に感じないでしょう。
 むしろ『ファブリカ』の魅力は文書ではなく、その精密な挿絵 ― なんと木版画! ― にあると思います。『ファブリカ』の扉絵は有名ですが、私はずっと銅版画だと思っていました(数多く出回った海賊版は銅版画)。木版でこれほど精緻に描けるとは、江戸時代の浮世絵版画(日本で木版画が誕生したのは17世紀にはいってから。)なぞ、及びもしません。
 とても精緻なので、人体解剖図はヴェサリウスが描いたものだと思っていました。しかし、さすがにダ・ヴィンチみたいな人は2人もいません。誰が描いたのかはわからないそうです。複数の画家によって描かれた、とも思われているそうです。とはいえ、画家も大変です。防腐剤もない時代、臭気に耐えながらスケッチしたのですから。
 『エピトメー』の方は単なる要約本ではなく、ヴィジュアルを重視した実践解剖学本で、内臓などパーツを切り抜いて、人体図に貼り付けられるようになっているということです。そのため、本は切り刻まれて現存する冊数が極端に少ないそうです。
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evaluation of the samurai and picture diary

2013-05-18 | bookshelf
「武士の評判記 『よしの冊子』にみる江戸役人の通信簿」
山本博文著 新人物往来社 2011年刊

 江戸時代後期の江戸城へ勤務するお役人さんが、実際どんな人物だったのか?という疑問に答えてくれる史料に、『よしの冊子』という書物があるそうです。これは、1787年天明7年、田沼意次の後任として老中首座に納まった松平定信が、江戸城内や市中での幕府役人、旗本、町人たちの噂話や発言などを集め、書き留めたものです。そんな情報を集めていた定信の政治は薄ら寒く感じますが、そのおかげで当時の役人の実態がわかるのですから有り難いです。
 しかし、『よしの冊子』を読もうとしても一般人には無理なことで、幸い解りやすくまとめた本が出ていました。調査の対象となっていたのは、定信当人から、老中、お奉行さま、譜代大名など。本の中で紹介されているのは、主だった人物たちだけですが、時代劇でお馴染みの「鬼平」こと長谷川平蔵や、一九先輩が仕えていた町奉行・小田切直年の名前もあって、興味を掻き立てられます。
 現代語に翻訳して紹介された『よしの冊子』の評判を読むと、曲りなりにも時の政権のトップが読む文書であるのに、ちょっとした笑いが交えてあり、ウィットに富んだ文になっているのに驚かされます。例えば、老中の人事について戸田氏教(37歳)が有力候補だと噂されている、として、現職の鳥居忠意(65歳)は役に立たないが、老中が若手ばかりでは「若者中」になってしまうので、鳥居は飾りにでも置いておかないと、「老中」の老の字の甲斐がないと言う者もいる、と記しているのです。確かに人の噂話ですからそういうおちゃらけは言ったでしょう。でも現代なら、報告書にする段階で削除してしまうと思います。そういう事まで「~という噂です。」と締めくくって書いてしまえる世の中だったのですね、江戸時代後期は。そして、お役人の実態は、現代においてもほぼ変わっていないことがよく解ります。
「幕末下級武士の絵日記 その暮らしと住まいの風景を読む」
大岡敏昭著 相模書房 2007年刊
 では、もっと下っ端のお侍さんはどんな暮らし振りだったのでしょうか。大田南畝(下級武士階級)などは、閑な時間に本を読んだり歌を詠んだり遊廓に行ったり酒宴を催したり…と裕福ではないけれどゆったりした生活を送っていたことがわかりましたが、↑現・埼玉県行田市に住んでいた忍藩下級武士・尾崎隼之助(石城)の「石城日記」という絵日記全7冊から、1861年文久元年からの幕末の中下級武士の赤裸々な生活が、ヴィジュアル付きで知ることができました。
 忍藩は江戸から60キロほど離れた小さな城下町で、筆者は安政4年(安政の大獄の前年)に上書して藩政を論じたことで蟄居を申し渡され、中級武士から下級に身分を下げられてしまい、養子先にも居たたまれなくなって、妹夫婦宅に居候している33歳からの1年間を絵入りで綴ってます。石城(隼之助のあざな)は、文才と画才に優れた人物で、知り合いや寺の僧侶から画などを頼まれ、そういうもので生計を立てていたようです。
 なので、日記の絵もシンプルだけれどもリアリティ溢れる絵になっています。一般に、「男子厨房に入るべからず」という言葉があるように、特に武士なんかは料理なんてしないと思っていました。ところが、石城は寺へ遊びに行った折、僧侶の寄り合いの料理を小僧が1人で作っていたのを見かねて手伝ったり、妹夫婦と正月の準備をしたり↑(右の絵)、寺にお泊りした時は、僧侶(友人)と一緒に食事を作ったりしています。食事をするときも↑(左の絵)、家族と和気藹々と食べています。
 また、時代劇など見ていると、冬でも障子開けっ放しで、小さな火鉢くらいでよく耐えられたなぁ、と不思議でしたが、実際はコタツもあって、そこで食べたり飲んだり本を読んだり、寝たりしている絵が描いてあって、やはり寒さを凌ぐにはコタツにもぐりこんでいたんだなぁ、と江戸時代の人々が身近に感じられました。コタツも現代の机式のものでなく、もっと背が高いものも描かれていました。
 では暑いときはどうしてたんでしょう・・・これも現代と同じです。襦袢一枚で、ごろごろ。暑くて脚を出していたり。↑左の「襄山」というのが筆者・石城の別号。仁右衛門は石城が信頼している壮年の先輩武士で、少々髪が薄く描かれています。手前の甫山という人が、石城の一番の親友ということです(著者談)。その甫山の目のあたりが黒くなっているのは、ちょうど彼の家で流行り目になってしまい、眼帯をしているからです。
 日記では、石城はよく外出をし、町内の2、3の寺や友人宅(中下級武士)へ遊びに行き、よく飲み酔っ払い、外出先で泊まったり、料理屋での宴会に参加したりと行動的です。ここで知る限り、中級武士と下級武士、町人や寺の僧侶たちは、とても親密に交流しています。また、武士の妻や料亭の女将などとも、一緒に酒宴で騒いだりしています。江戸時代も末期になると、中級以下の武士たちは、身分などに捉われてはいなかったように思われます。そんなのどかで平和な日常の中で、社交的で誰からも慕われている石城でも酒に酔った勢いで、寺の襖や家具をめちゃめちゃにするほど暴れてしまうこともありました。蟄居中の身で、彼にもいろいろと鬱積するものがあったのでしょう。後にこのことで、自宅謹慎処分を受けてしまいます。そんな時も、友人や僧侶たちがお見舞いに来てくれる様子が書かれています。
 日記は、日付順に紹介されているのではなく、自宅の風景、友人宅の風景、などと著者がカテゴリー別に抜粋しているので、時系列でわかるようにはなっていません。著者は住宅環境が専門の工学博士で、石城日記も江戸時代の住宅を調べる史料として読んだようです。なので、住宅の間取りのことなどに詳しくページを割いていて、本来の日記を読み解く、という文学的アプローチを期待する者にとっては、物足りなく感じました。
 持病があって病気がちな親友の甫山が、身持ちの良くない女と何故か結婚すると言い出し、石城は反対するも結婚してしまった(ようだ)けど、その後どうなったのか、自宅謹慎中の石城を甫山は見舞いに来ないで手紙だけよこしたのは、何か意味があったのだろうかとか、好奇心を刺激させられる日記ですが、内容を追っていないので、わからずじまいなのが残念です。
 『武士の評判記』の著者は、日本近世史の文学博士で、1982年から十数年東大の史料編纂所に勤めていたそうです。史料編纂室なんて、どんなお宝が埋もれてるんでしょうか。『よしの冊子』みたいな面白い史料がいっぱいあるんでしょうね・・・。
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welcome to an anatomy room

2013-05-12 | bookshelf
『解剖学教室へようこそ』養老孟司 著
2005年筑摩書房(ちくま文庫)刊行 1993年出版
本書に最初に登場する、東京大学医学部解剖実習室の写真

 解剖だとか人体だとかいう文字を見ると、どうしても手に取ってしまう性分のため、パラパラとページをめくってみたら、ややや、のっけから解剖室の写真。16世紀ヴェサリウスの時代のヨーロッパの人体解剖図、レオナルド・ダ・ヴィンチの解剖図、東洋医学の解剖図、ターヘル・アナトミアと解体新書、江戸時代の解剖の風景、もちろん河鍋暁斎の骸骨画も載っています。半額だったので買いました。
 養老孟司氏の本は初めてで、本業の解剖学の事を書いているのだから難しいのでは、と思いましたが、学校の教室で初めて学生に教えるような、講義っぽい話し口調の文章なので、理系はサッパリの私でも面白く読めました。
 養老先生は、解剖が好きだから解剖学者になったんだ、ということがよくわかります。「解剖が面白い」などと言うと、人は眉をひそめたり、気持ち悪がったりする、というのもよくわかります。人は何故「解剖」するのでしょうか?単に体の中の臓器や仕組みを知るためではありません。過去に解剖に携わった人たちは、医者ばかりではありませんでした。例えば、レオナルド・ダ・ヴィンチ。東京藝術大学には、美術解剖学という部門があるそうです。
 古くはギリシャ時代から行なわれていた解剖ですが、ローマ時代に禁止され、中世にキリスト教が学問の中心になると、医学とか実際の事を扱う学問の発達がスローダウンしてしまったそうです。ルネッサンスに至る以前から、アラビアに伝わっていたヨーロッパ医学を逆輸入して、13世紀に解剖が再開され、その約百年後にレオナルドが現れて、人体を遠近法で正確に描写しました。そして、それはアンドレアス・ヴェサリウスというベルギー人医師に受け継がれ、『人体の構造について』という本が出版されました。ヴェサリウスが29歳の時に著したそうで、絵についても天才です。
 そんな感じで、解剖の歴史から自然科学への歩みが語られ、西洋人が人体をどんどん細かく切っていって細分化するのは、アルファベットを使う民族だからだ、という面白い観点から説明されます。これが実にナルホドなのです。西洋と東洋の根本的な考え方・観念の違いを巧みに説明しています。記号の組み合わせで、世界を表すことが可能だから、人体を細かく切って名前を付けていくことができます。でも、小腸と十二指腸はどこからどこまでと正確に切れることができるのか、というとそう簡単ではないらしいです。
 最終的に、「心とからだ」という哲学的な話もでてきます。これは宗教的な問題でもあるので、考え方は人それぞれだと思いました。途中に水木しげる氏の描いた図版(同氏著『あの世の事典』の中の1ページ)が挟まれているのですが、げげげの鬼太郎でお馴染みの、あの絵とは全く違った「天に昇る大名行列」の絵を見た時、涙が溢れて止まらなくなりました。人は死ぬとどこへ行くのか―それが解剖の始まりだったのではないでしょうか。
 解剖なんて・・・と思っている人には、「あとがき」で先生からガツンとやられます。
「解剖は残酷だ。いまでもそんなことを言う人がある。そういう人でも、舗装道路を残酷だとは言わない。でも地面にコンクリートをひいたら、どれだけの生き物がすみかを奪われ、死んでしまうか。
 つまりは、知らないだけなのである。」― ナルホドです。

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a poet and a politician in the Edo Period

2013-05-08 | bookshelf
『青雲の梯 老中と狂歌師』 高任和夫著
講談社 2009年刊

 私が日本史の授業を受けていた時代は、田沼意次政権よりも次の松平定信政権の方を詳しく教えられたような気がします。気がする、というのは、当時日本史の授業は寝てるか落書きしてるか、くらいいい加減にしか聞いていなかったので、記憶が曖昧だからです。
 『東海道中膝栗毛』を読み、写楽の謎に翻弄され、蔦重にハマったりした後、改めて江戸時代中期の歴史を振り返ってみたら、1700年代後半、田沼意次は悪老中で失脚、松平定信は悪政を立て直すべく老中になった偉い人、と思い込んでいたのは、歴史の授業の刷り込みだったのかと気づきました。歴史は常に勝者のものなんですね。そういうことは教科書には載ってないので、子供だった自分には仕方のないことなのですが。
 徳川家康が生きている時代や坂本龍馬が活躍する幕末は、人気がありますが、江戸時代も後半に入ると将軍も影が薄くなり、テレビでは大奥ばかりが取り沙汰されてしまう時代に突入します。私は時代小説はほとんど読んだことありませんが、江戸時代のお侍さんを主人公にしたフィクションは、この辺りの時代が多いのではないでしょうか。「ぬしも悪よのお」とか、仕官できない下級武士が内職してるとか。
 明和・天明・寛政(1760年代~1790年代)は、後の文化文政期の江戸庶民文化最盛期の礎になった時代で、そういう時代をもたらしたのが田沼意次政権でした。そして、その時代の波に乗ったのが、平賀源内であり大田南畝(四方赤良。後の蜀山人)といった下級武士の文化人でした。もちろん、杉田玄白、前野良沢、桂川甫周、恋川春町、朋誠堂喜三二、蔦屋重三郎、山東京伝、歌麿もいましたし、大黒屋幸太夫も漸くロシアから帰国できた時代でもありました。つまり、解体新書の出版で日本の医学が発展し、出版物の発達で庶民の娯楽が盛んになり、海外からの圧力で外交や貿易の大きな転機になった時代でした。また、伊豆大島三原山や浅間山の噴火、大洪水など天災による大飢饉、内政の悪化も酷いものでした。
 当時の江戸幕府は、それらにどう対処したのでしょうか。興味深いところは、授業では教わりませんでした。それに、政治と文化は分けて教えられます。でも実際、政治は文化に大きな影響を与えます。
 『青雲の梯 老中と狂歌師』の老中は田沼意次、狂歌師は大田南畝のことです。同じ下級武士の身分から、一方は総理大臣級の身分まで出世、もう一方は文人として名を馳せた人物。この2人、プライベートには何も接点がなかったと思うのですが・・・。
 そこは、時代小説。私は資料を調べたことはないので、どこまでが史実でどこからがフィクションなのかわかりませんが、田沼意次の部下が南畝と同門の平秩東作(へずつとうさく:煙草屋。狂歌師。戯作者)を北海道調査へ派遣したり、意次の配下・土山氏が南畝のパトロン的存在だった事実を踏まえて、平行して進んでゆく2人の人生を通して、この時代の全体像を理解することができました。
 日本史の年表に、「1784年佐野政言、田沼意知(36)を刺殺」と細い字で書いてありますが、なぜ意次ではなく息子が刺殺(暗殺)されたのか、佐野政言とは何者なのか、忠臣蔵はお芝居になるほど有名なのに、どうしてこちらは死人が出たのに有名じゃないのか?という疑問を解決してくれる説明は、書いてありません。
 本書にはそのいきさつが書いてあり、とても興味深く読みましたが、果たして事実かどうかは私には判断できませんでした。事実なら、まさしく「ぬしも悪よのお…」です。また、意次が南畝を屋敷に呼んで対面する場面がありましたが、本当なのでしょうか。南畝の手記にでも書いてあるのなら、興味深いことです。
 
コメント
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