奈良県桜井市には、古代からの貴重な歴史的文化遺産が無数に点在し、手付かずの自然環境が日常生活の佇まいの中で息づいています。
そんな隠れた史跡の一つ一つを訪ねています。
< 磐余(いわれ)の宮跡を訪ねて・・・(1 ) >
『 磐余 』 (いわれ)・・・。
この言葉、歴史の中に時々出てきます。
この「磐余」と名のつく天皇の宮として、
神功皇后・履中天皇(第17代)の 磐余稚桜宮(いわれのわかざくらのみや)、
清寧天皇(第22代)の 磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや)、
継体天皇(第26代)の 磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)、
用明天皇(第31代)の 磐余池辺双槻宮(いわれのいけべのなみつきのみや) があります。
そしてこれらの宮跡とされるところは、すべて奈良県桜井市池之内とされているのです。
神武天皇(神日本磐余彦天皇)建国発祥としての磐余は、飛鳥より古い文化を育んでいたのだろうか。
もしそうだとすれば磯城から飛鳥の間に、『磐余時代』というものがあったのでは・・・と思われるのですが・・・。
まぁ、神功皇后の存在は怪しいですが・・・その他の天皇とその宮跡を信じることにして、この史跡めぐりを進めます。
そんな思いを持ちながら、『磐余(いわれ)』と名のつく処を訪ねました。
まず最初に訪ねたのは、桜井市内の「磐余橋」。
東西に走るR165号線と南北に通るR169号線が交わる近く、寺川に掛かる橋。
また、もう一箇所。この寺川の上流(R165号線)、来迎寺の前に掛かる橋も「磐余橋」。
二つともいつも通るのだが、橋の名前までは・・・・。今回、地図を見て始めて知った次第です。
▲橋の名は「磐余橋(いわればし)」。右側には歩道橋です。
奥にみえるのは「小西橋」。
▲多武峯山から流れてくる寺川をまたぐ「磐余橋」。
桜井市高田、桜井市上之宮を流れる寺川を昔は、「磐余川」と呼ばれていたとも・・・。
▲高田・上之宮辺りを流れる寺川は、昔、「磐余川」と呼ばれていたとか・・・。
次に向かったのは、上述の橋の北側にある「磐余山 東光寺」。桜井駅から真南にあたります。
小高い丘の上に、それらしい佇まいなのが遠くから分かっていたのですが、どこから登ればいいのかウロウロ。
近所の人に尋ねて、東側の石段からしか行けないとの事。
やっとの思いで、大師堂に辿り着く。
▲扁額には「磐余山 東光寺」と書かれています。大師堂と庫裡が並んで建っています。
この東光寺について調べると、
「大和名所図会」によれば、『東光寺は昔、磐余堂叉は桜井寺と號す。天正の頃(1573~1591)桜井掃部介延久といふもの、薬師佛の霊夢を蒙り東方より光明赫々たるによって此寺の名とす。』
とあり、寺名の由来を伝えている。
そして、磯城郡誌では、『寺は石根山薬師寺と称し、叉磐余堂と字す。古は仁王堂の東河合の南 にありたしも、中世郡境改まり其の地城上郡に属するに及び、今の処に移転せり。』
ということは、元々この場所ではなく、もう少し北側の桜井駅近くにあったのかも知れない。
この寺の旧址について書かれ、薬師寺と称し、山号を「石根山」とされていたことがわかる。
この「石根」と「磐」・・・どうも関係がありそうだ。
ネットで調べると・・・出てきた。
「大和志料」と「磯城郡誌」には、『石寸山 石根叉は東光寺山の名あり。今専ら桜井の南、谷・河西の間にある小丘を石寸山と称すと雖(いえど)、元石寸山は多武峯の西に並び桜井・安倍二町村の間に連互せる一帯の名称なるへし。』
ということは、石根山・東光寺山というのは、現在の東光寺のこの丘を指すのではなく、もっと広範囲な場所だということ。
ということは、どの辺りまで言うのだろう。
この東光寺は、中世期末、興福寺衆によって襲われ滅亡したとも、また織田信長に攻められ焼き滅ぼされたとも伝えられている。
徳川時代に再建され、瓦葺き本堂、鐘楼、庫裡の立派な諸堂であったが、今日では、山上に大師堂と庫裡が棟を並べているだけです。
大師堂の掲額には、「室生山新四国第七番御詠歌」として、
『 いわれ山 ふるきゆかりの あととめて ほとけのすくひ ねがふもろ人 』
弘法大師空海の忌日に、供養されているといわれている。
▲大師堂の掲額には、「室生山新四国第七番御詠歌」が掲げられていた。
大師堂前の境内から、真北を見下ろしたかったのだが、木立にさえぎられて見られない。途中の石段から、南東方向には谷地区の町並みの向こうには三輪山が拝めた。あいにくの雨で、三輪山の麓しか見えない。
▲雨が降っていたため、正面に見えるはずの「三輪山」が霞んで見えない。
次は、磐余(いわれ)とされている池之内地区の宮跡を訪ねることにしょう。
< 続く >
飛鳥より前の時代のお話ですか
もともと日本史を勉強していない私には初めての話ばかりです。
今度奈良のほうを訪ねた時には気にして、物見遊山に変化が出るでしょう
されている)、謀反の罪を着せられて捕まった時、
磐余の池を見て詠んだ辞世の歌が万葉集にあります。
ももづたふ磐余の池に鳴く鴨を
今日のみ見てや雲隠(がく)りなむ
大津皇子と大伯皇女(おおくのひめみこ)のこの世に
たった二人の実の姉弟、二人の運命を思うと胸が
痛くなるようです。
磐余の池は大津皇子ファンの私には想い溢れる所です。
僕にとってあまりに身近すぎて…