現在の国号は『日本』ですが、その昔は「しきしま」と呼ばれていたのです。
磯城嶋 (式嶋・敷島・城島とも・・・) とは、ヤマト、すなわち日本の古い国号として用いられていた地名なのです。
「しきしまの大和」という表現もあり、大和にかかる枕詞として万葉集に残っています。
この「磯城嶋」とは、奈良県桜井市・三輪山の南西麓の初瀬川 (下流は大和川) 沿いに広がる金屋地区と外山 (とび) 地区にまたがる地域 (初瀬川は昔、もっと南側を流れていたとされている) で、欽明天皇の宮とする、磯城嶋金刺宮 (しきしまのかなさしのみや) が営まれたところなのです。
現在、バイパス道の高架下に設けられた城嶋公園に磯城邑の伝承地であったことを示す 『磯城邑傳稱地』 の碑が、また 『欽明天皇磯城嶋金刺宮跡』 の碑・ 『仏教公傳』 の碑・ 『柿本人麻呂の歌碑』 が並んで建てられています。
▲『磯城邑傳稱地』の碑、と『欽明天皇磯城嶋金刺宮跡』の碑。
▲『仏教公傳』の碑と、その横には『柿本人麻呂の歌碑』があります。
▲これらの碑は、以前、すぐ近くの桜井市水道局敷地内にあったが、この城嶋公園に移設されたのです。
金屋という地名は、渡来系の鍛冶屋さんが住み着いたところと考えられ、金刺宮というのも、当時貴重な金属で屋根を装飾した宮殿があったのでは・・・とされる説もあります。でも、6世紀の宮殿はどのようなものだったのか、まだ判明しないこともあるようです。
欽明天皇とは、継体天皇の皇子で6世紀代の大王とされる人です。また、この天皇の時代に仏教が伝来したことも知られているひとつです。
▲初瀬川のほとりにも、「仏教傳来之地」の碑が建っています。
欽明天皇13年(552年)に、百済(くだら)の聖明王から、釈迦仏の金剛像と経典が、日本にもたらされたと日本書紀に記されているのです。
千四百数十年の昔、朝鮮半島からの使者は、百済から船に乗り、瀬戸内海を通り大坂・難波津をさかのぼり、この初瀬川の海柘榴市に上陸し、現在で言えば天皇陛下に接見し、お釈迦さまの仏像とお経を正式に届けたのです。
おそらく、この碑が建っている辺りに船着場があったのでしょう。
▲この初瀬川の海柘榴市に上陸したのだろう。
はるか隋の使者は初瀬川を遡ってこの地まで
やってきたのかと思うと、どれほどの旅だったのか
ロマンとともに苦労を感じます。
仏教伝来の地、経典などももたらされたんですね!
奈良時代には盛んに写経が行われたと教わりました
このあと2百年弱後ほどのことですね
長い歴史を感じます
懐かしいような気分でウロウロしていましたが、
こんなに歴史の跡を知らせる碑があるなんて
知りませんでした。
磯城島は特定の地域だったのですね。
大和の枕詞になるくらいですから、磯城嶋金刺宮は
かなり権勢を誇っていたのでしょうね。
百済からの仏教伝来は仏具、仏像、経典、衣服など一括の大型システムとしての貿易でしたでしょうね。それ以前に仏教が断片的に入って来て、それも圧倒的に先進的文化を伴って来たでしょうから日本の明治時代に近いモダンな先進宗教として畏敬の念を持って迎えられたでしょう。
たぶん難波の港で大洋航海船から小型の河川船に乗り換えたのでしょう。そして仏教伝来の地として間違いないと思われます。