▲春日神社の北に隣接した地に建つ「磐余邑」を表す石碑。
『磐余邑(いわれむら)』と名付けられた地があります。桜井市吉備地区の春日神社の北側に「神武天皇聖蹟磐余邑顕彰碑」があって、この地が磐余であったことを表しています。
▲桜井市吉備にある春日神社です。
春日神社のあるこの辺りは、神武天皇と長髓彦(ながすねひこ)が決戦した故地なのだと、石碑に記されています。この神社の南側には大きな「吉備池」があり、池のほとりには万葉歌碑も建っています。
▲『百伝(もも)伝ふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を 今日のみ見てや 雲隠りなむ 』(巻3-416)
大津皇子が大逆罪の罪を得て自頸(じけい)を強いられる直前に詠んだとされる辞世の歌です。
吉備池のほとりにありました。
▲『うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山を弟世(いろせ)と 我が見む』 (巻2-165)
池のほとりには、もう一つ伊勢神宮の斎宮であった実の姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)が、弟(大津皇子)の死を悼んで詠んだ歌が刻まれています。
神武天皇即位前紀己未年(662年)の条に、『夫れ磐余の地の舊の名は片居。亦は片立と曰ふ。我が皇師の虜を破るに逮りて、大軍集ひて其の地に満めり。因りて改めて號けて磐余とす。』
つまり、磐余(いわれ)という土地は、片居または片立と云うとあり、つまり一方は低地で一方は丘陵か山地のような地勢であることがわかる。見晴らしのよい丘陵に宮を建て、池をめぐらす・・・。
ということは、先ほどの春日神社と吉備池は平地にあるため、磐余の端にでもあったのだろうか。
では磐余の場所は何処までの範囲を云うのか。この地形に当て嵌めて、山裾や小高い丘の神社・仏閣を探すと・・・・。
まず、若桜神社(桜井市谷)と稚桜神社(桜井市池之内)があって、どちらも小字は「稚桜」となっている。
池之内にある「稚桜神社」を訪ねた。
鳥居の横には、神社の由緒が掲げられ、次のように書かれていた。
▲池之内にある「稚桜神社」です。
『日本書記によると「第十七代履中天皇3年(西暦402年)冬11月6日、天皇が両枝船(ふたまたふね)を磐余(いわれ)の市磯池(いちしのいけ)(神社の東側にあった池)に浮かべて、遊宴(あそ)ばれたとき膳臣余磯(かしわてにのおみ あれし)が酒を奉(たてまつ)った。その酒盃(さかずき)に櫻の花びらが散ってきた。天皇は、大変不思議に思われ、物部長真胆連(もののべのながまいのむらじ)をよんで
「この花は季節外れに 珍しく散ってきた。どこからだろうか探してこい。」といわれた。長真胆連は花を探したずねて、掖上室山(いけのへのむろやま)で花を手に入れて奉った。
天皇はその珍しいことを喜んで宮の名とされた。磐余稚櫻宮(いわれのわかざくらのみや)の由緒である。
長真胆連は本姓(もとのかばね)を改めて稚櫻部造(わかざくらべのみやつこ)とし膳臣余磯(かしわてにのおみあれし)を名づけて 稚櫻部臣(わかざくらべのおみ)という、」と記されている。』
▲式内稚桜神社です。
どうやらこの神社が履中天皇宮の跡地らしい。石段を登ると立派な伊勢神宮の社(やしろ)と同じような建物があった。
東側の水田が市磯池の跡地なのだろうか。
拝殿の裏側に周ると、北方面には吉備地区の家々が見え、北西には香具山が、北東には三輪山が見える。
▲南東側には水田が・・・。これが市磯池の跡地なのかも・・・。
もうひとつの若桜神社(桜井市谷)は、稚櫻部朝臣を祭神として祀っており、ここはあまり深く探らないことにしよう。
鳥居のすぐ横に「櫻の井」という伝承の井戸があって、この井戸が『桜井市』と名付けられた元なのです。少し離れた民家の横にあったものをこの境内に移したようです。
▲桜井市谷にある「若桜神社」。こちらを履中天皇の磐余稚桜神社という説もあるが少数であるとか・・。
▲「櫻の井」という伝承の井戸。最近、この神社境内に移設されたようです。
< 続く >