昨日、ミニ盆栽展を見たあと、纒向遺跡の現地説明(11/14~11/15)に行ってきた。
「卑弥呼」と同じ時代に建てられたと思われる『大型建物跡』が出てきて脚光を浴びる説明会には多くの考古学ファンが来ていた。
遺跡場所は知っていたものの駐車場を探すのに手間取り、結局、少し離れた巻向小学校に停めることが出来た。
道案内に立たれていた市の関係者は、『今日は、午前中だけでも3000人ほど来られているようですヨ!』と、言われていた。
現地近くの元学校跡地の広場に設けられた受付で説明会資料を受け取り、300人ほどの集団となって発掘担当者の説明を聞いた。
今回の「大型建物跡」は、1978年に柵と建物跡が確認された調査地点を、今年の2月から区域を広げて調査した結果、東西に計画的に並ぶ3つの建物群や柵を確認されている。今回の調査は9/1から始められた調査で、柱穴の位置から、「大型建物」があったことが確認されたのです。
説明会で配られた資料の「まとめ」に記されていることを転記すると・・・
1.第162次(平成20年度)調査で検出されている柱列(柵)の内側に、より規模の大きな建物が複数棟存在することが判明しました。これまでの調査によって柱列(柵)で囲まれた範囲は纒向遺跡の居館域の内郭にあたるものではないかと考えられていましたが、今回の調査ではその範囲を確認することはできませんでした。今回の調査状況から推定するとその範囲はさらに東方へと広がっていくものと予想されます。
2.今回確認された建物C.Dもこれまでに確認されている建物A.Bや柱列(柵)などと方位およびその軸線を揃えて構築されていることが判明しました(図2)。推定される建物群の軸線は東西方向に通じるもので、方位は建物・柱列(柵)などすべての構造物が真北に対して約5度西に振れた方位に揃えて建てられています。これらの建物・柱列(柵)は構築された時期やその廃絶も期を同じくするものとみられることから、一連の遺構は明確な設計図に基づいて、強い規格性を持って構築されたものと判断されます。
3.これまでの周辺の調査成果から推定すると、これまで一連の調査対象となった微高地上が3世紀前半代に纒向遺跡の中心的な人物がいた居館域における中心的な役割を果たす建物の一つと考えています。
以上これらの事柄を総合すると、これまでに検出された建物A~Dや柱列(柵)の存在からは方位や軸線を揃えた建物が東西に4棟連続して構築されていたことが判明しました。
また、個々の建物を比較すると柱列(柵)を境に建物の重要度に違いがあると考えています。地形からの推定では太田北微高地上に東西150m×南北100m前後の居館区画が存在するものと考えられており、その内部は柱列(柵)を境にして内郭と外郭に整然と区画されていたものと思われます。
このように複雑かつ整然とした規格に基づいて構築された建物群の確認は国内でも最古の事例となるもので、これまでに判明している弥生時代の大型建物などとは完全に一線を画する構造を持つものです。
また、今回明らかとなってきた纒向遺跡の古墳時代前期初頭の居館構造には未だ明らかにされていない飛鳥時代以前の大王や天皇の宮などの原形があると考えられることから、周辺地区における一連の調査は我が国の国家の形成過程を探る上で極めて重要な意義を持つものと言えるでしょう。
今後も更に周辺地区の調査を推進し、居館内の構造や個々の遺構の性格を明らかにしていきたいと考えています。
遺構の周囲は、前日の雨でぬかるみ、靴はドロドロです。
広い遺跡ですが多くの人が周りを取り囲み、説明される方の姿を捉えることが出来ないほど・・・。
遺構があった場所は少し小高くなった場所で、JR桜井線の線路脇にあり、時々、電車が通ります。
ホームの端からも遺跡が見られます。
線路を隔てた向こうには、優しい形の三輪山が臨めます。
近くの高層マンションを建てる時、発掘調査したときもいろいろ遺構が出てきたとか・・・。また、隣の民家の地下にも遺跡があるかも・・・とも思われます。
車を停めた巻向小学校を取り囲むように「石塚古墳」「勝山古墳」「矢塚古墳」があり、少し離れたところに卑弥呼の墓と言われている「箸墓古墳」があって、推定される西側150mに及ぶ居館域の発掘調査が待たれます。
俳優でアマチュア考古学者の苅谷俊介さんも、今回の大型建物跡(後方)の発掘に参加されていたとか。腕には「桜井市」の腕章を巻かれ、現場におられました。挨拶を交わし、写真を撮らせて貰いました。出来れば、発掘の状況を直接聞きたかったのですが・・・。
▲14日に催された説明会の様子。あまりにも広いため、上空からの全景が必要です。向こう側に、三輪山が見えます。
▲黄色のポールが柱穴の跡です。東西にそれぞれの建物が綺麗に整列していることが分かります。
想像される大型建物の屋根の高さが、周りの2階建ての高さに匹敵するほどだったと説明されていました。
中央の水溜りの部分は、「古墳時代後期埋没の石貼り溝」だとか・・・。
▲建物Dが今回の発掘で判明した「大型建物跡」。建物跡C、B、Aが東西に整列して並んでいます。
▲俳優でアマチュア考古学者の苅谷俊介さんも、この遺跡発掘に参加されていました。説明会の現地におられましたので、話しかけると気さくに写真を撮らせてくださいました。