「意柴沙加宮」
隅田八幡宮の鏡の臨刻。
ネットで購入の胡桃の板 (90×24(19)×2cm)
胡桃の木は硬くて・・・彫るのに苦労した。
でも彫り甲斐のある木だ・・・。

▲意柴沙加宮
隅田八幡宮 国宝 『人物画象鏡 (じんぶつがぞうきょう)』 ※人物画象(像)鏡として登録され、東京国立博物館に寄託されています。
和歌山県橋本市の隅田八幡神社に伝わる青銅鏡。
直径十九・八センチメートル、重さ1,434グラム。
背面内区には人物や騎馬像をあらわした画像文が描かれ、外区にはこの鏡の特徴である四十八文字からなる銘文が鋳出されている。
この銘文の解釈については諸説があるが、おおむね次のように読むことができる。
癸未年八月日十大王年男弟王在意柴沙加宮時斯麻念長寿遣開中費直穢人今州利二
人等取白上同二百旱作此竟
銘文解釈の一例をあげると「癸未の年八月十日、男弟王が意柴沙加の宮にいましし時、斯麻が長寿を念じて開中費直穢人今州利二人らを遣わして白上銅二百旱を取ってこの鏡を作る。」と解釈することができる。ただし、文字の解読や銘文中の人物をだれに比定するか異論が多く、今のところ定説といえるものは出ていない。
(隅田八幡神社の説明文より)
「意柴沙加宮」とは、大和国(やまとのくに)城上郡(しきのかみごおり)の忍坂郷(現在の奈良県桜井市忍阪) に営まれていた宮殿とされています。
癸未年を443年とする説をとれば第十九代允恭天皇の時代となり皇后の忍坂大中姫のオシサカと同じことになり、意柴沙加・・・オシサカ・・忍坂・・とつながっていくのです。
また、503年とする説では、すでに大和の忍坂宮にあった即位前の第二十六代継体天皇に対し、百済の武寧王が、長く奉仕せんことを誓って贈ったのがこの鏡であるとされる説もあります。
どちらにしても、1520年以上も前の確たる歴史を示す人物画象鏡なのです。