微妙段階
スピリチュアルな発達の第二段階は、〈微妙(subtle)段階〉と呼ばれています。
それに先立つ心霊段階では、物質の領域、生命の領域、心の領域を含む広い意味での〈自然〉と自己が一体であることを体験したのですが、微妙段階ではそうしたかたちに顕れた自然を超えてその根底あるいは背後にある超越者――光り輝く超能力を持った白い髭の老人といった神話的なイメージと取り違えさえしなければ〈神〉と呼んでもいい――との一体性を体験します。
かたちに顕れた自然は、どんなにすばらしいとしても有限・無常であって、決して無限でも永遠でもありません。その根底・背後に、かたちに顕れていない、無限で永遠であり、しかしかたちに顕れた自然すべての源泉であり、根底であり、目的である〈スピリット〉〈神〉が存在しており、それとの一体性の体験は、決して自我と理性の確立以前の段階への忘我的な退行ではなく、意識の深化であり、そういう意味で成長・発達・進化なのだ、とウィルバーはいっています。
そういえるのは、この段階がそれ以前の発達段階すべて、直前の心霊段階、さらにその前のヴィジョン論理段階、理性段階などなどの内容を「含んで超える」ものだからです。
東西の神秘主義的宗教では、物理・生理的な感覚とそれによって捉えられたものや言葉を使った思考や記憶という心理的な働きとそれによって捉えられたものは、「粗大(gross)」(仏教用語では「麁重(そじゅう)」)と呼ばれ、瞑想や祈りによってそうした粗いものの働きが鎮められ魂が浄化されるにつれて、感覚や言葉を超えた「微妙(subtle)」(仏教用語では「微細(みさい)」)な体験世界が開かれてくるといわれています。
神との合一に至る七つの段階
カトリック・キリスト教の聖女・神秘思想家アビラの聖テレサの著作『内面の城』はそうした体験を叙述した代表的な文献の一つです。その中でテレサは、「小さなチョウ」に譬えた魂が神との合一に至るまでの七つの段階を「七つの館」に譬えて述べています。
最初の三つの段階は、感覚や思考に囚われた粗い(グロス)自我(エゴ)がまだそれを超えた世界への回心を遂げていない準備の段階です。
第一の「謙譲の館」では、自我は自分を超えた大いなるものを認めてはいるのですが、まだ外面的な物質や安楽への愛着が残っているため、内面に向かって長い修練の旅に出なければなりません。
第二の「祈りの館」では、知的な学習や啓発、善い仲間による導きなどによって、外面的なものに心が散乱せず、内面に集中していくよう努力を続けます。
第三の「模範生活の館」では、修練と倫理によって、次の段階への基礎を作っていきます。ウィルバーは、この段階を仏教の六波羅蜜のうち「持戒」が「禅定」と「智慧」の基礎になることと対比しています。
第四の館では、「観照の祈り」と「静寂の祈り」が深められていきます。この二つのタイプの祈りは、仏教の禅定における「観」と「止」と対応していると思われます。
二つの祈りによって粗い(グロス)ものに向かっている感覚や思考や記憶という心の働きが鎮められていくと、超自然的な恩寵が顕れるといいます。この恩寵は自我に対する深い慰めではありますが、しかしまだ自我を超えるものではありません。とはいえ、微かながら「神は我らの内部におられる」という真実の光が射しはじめています。
第五の館では、「合一の祈り」によって「霊的な婚礼」が始まるとされます。つまり個人的・自我的な心の働きが完全に止滅して、その純粋無垢ともいうべき没入状態において自我は〈神〉――「かつて創造されたことのないスピリット」とテレサは呼んでいます――との原初的な合一を味わうのです。
比譬的にいえば、この段階でサナギがチョウになります。ウィルバーは「自我が死んで魂が生まれた」と表現しています。しかし、この段階の体験はごく短時間のことにすぎません。
ところが第六の館では、長時間にわたって愛するものと愛されるもの、チョウと神、魂と創造されたことのないスピリットとの合一・没入状態が続きます。
この段階では、内的な光明、微かな音やヴィジョンを伴った至福感、法悦、恍惚、トランス、ふつうの時間と位置の感覚の超越といった、微妙段階特有の現象が心に浮上するといわれています。けれどもかなりの長時間続くとはいえ、この段階の体験はやがて終わります。
第七の館においてようやく、最終的・決定的に魂と神の霊的な結婚が執り行われ、永遠の合一が完成するのです。
この段階は、例えばいわゆる鎌倉仏教の祖師の一人、一遍上人の覚りを表現したといわれる「唱うれば我も仏もなかりけり南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏」という歌の境地と対応していると見ていいのではないか、と私は考えています。
自然と神・スピリットの関係
微妙段階におけるかたちに顕れた自然と神・スピリットとの関係については、聖テレサの言葉によれば、「神は万物の中に現前され、その力であり、その本質なのである」ことが直観されています(いうまでもなく「万物」は「自然」です)。
ウィルバーは、「この新しい深度、新しい内面、それは新しい超越であるが、それは自然を完全に超越すると共に、自然を完全に包括し、自然の中に体現されている」(『進化の構造1』四七二頁)と述べています。
こうした段階を経て合一が完成すると、実はその合一はいつも・もともと存在していたことへの気づきが起こります。
テレサの霊的な友であり、よく知られたキリスト教神秘主義の聖人である十字架のヨハネは、「神と被造物との結合はいつも存在している。そのために神は万物を保たれているので、もしその結合が失われれば、すべては存在しなくなるだろう」と言っています。
連載の第十八回で、結論を先取りして「究極の話をすれば、すべての人が覚れば環境問題など雲散霧消するはずです」と述べました。
ふつうの私たちの心の段階――せいぜい理性段階――からするともうすでに究極であるような気がしてきますが、ウィルバーの発達論によれば、微妙段階は究極ではなく、さらに「元因(コーザル)(causal)段階」、「非二元段階」と続きます。
この段階では、人間と環境を含むすべての自然と神とは一体ですから、そこにはいわゆる「環境問題」はありえません。なぜならば、そもそも「問題」というのは、主体と客体・対象が分離・対立・矛盾しているから起こるものであり(英語のproblem は語源的にいうと「前に横たわっている」という意味です)、「環境問題」も人間と人間以外の自然が分離・対立・矛盾していると見る心のあり方が生み出している、という面があるからです。
といってもここでは、連載第十四回で述べた四象限の区別でいうと、「環境問題」が個人の内面で消滅しているだけで、もちろん社会の外面・現象としての環境問題が解決済みになっているということではありません。そこを混同してしまうと、社会の外面の現象としての「環境問題」を問題としている方々からは、「救いがたい観念論だ」と批判されることでしょう。
しかしすでに述べきたことから読者にはおわかりいただけていると思いますが、内面すなわち心の発達なしには、実は「環境問題」の本質的で本格的な解決はありえないのです。
そして、ヴィジョン・ロジックの段階まで発達した個人が増えればある程度環境問題の解決の目途がつくとはいっても、心霊段階や微細段階などより上位の発達段階が必要ないとか、ましてないということにはなりません。より高い発達段階に達した人々がより多ければ多いほど、環境問題の根源的な解決に接近することができるのですから。
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