環境問題と心の成長26

2009年11月28日 | 持続可能な社会



心の成長の最高・最終段階

 心の成長、スピリチュアルな発達の最終・最高の二段階は「元因(causal)」段階と「非二元(nondual)」段階です。これは大乗仏教の用語では「真空」あるいは「無分別智」と表現される段階と「妙有」あるいは「無分別後得智(むふんべつごとくち)」と表現される段階に当たると考えていいでしょう。

 ウィルバーは『進化の構造』で、そうした意識の発達段階が仏教または大乗仏教のみに見られるものではなく、時代や文化の違いを超えた人間の普遍的な発達可能性であることを示すために、実例として中世キリスト教神秘主義のマイスター・エックハルトと近代インドの聖者シュリ・ラマナ・マハリシをあげて論じていますが、ここでは仏教の用語とも関連づけながら解説していきたいと思います。

 ウィルバーは、最終の一つ前の段階を、「すべての顕れたものの原因のさらに究極の元」という意味で「元因」段階と呼び、それに先立つ微妙段階との違いについて以下のように述べています。

 「微妙段階では、魂と神が合一する。元因段階では、魂と神はその本来のアイデンティティである至高の実在のなかへ超越していく。至高の実在とは、無形の知覚、純粋意識、あるいは純粋は『自己』としての純粋なスピリットである(アートマン=ブラフマン)。」(『進化の構造1』四七四頁、ただし訳語を一部変更。)

 つまり「合一」とは元は分離した二つのものであると考えられていた魂と神が一つになったという体験であるのに対して、そもそも分離など存在せず元々一つであること・「本来の同一性(アイデンティティ)」の目覚め(覚り、道元禅師の言葉でいえば「本証」)の体験からすると、まだ未発達・不徹底なのです。

 エックハルトは、「この突破において私は、神と私は一つであって同じものであることを見出す」(同書四七四頁)といっています。これは元因段階を表現した言葉で、「突破」とは仏教的にいえば「覚り」の体験であり、「神」とはエックハルト自身が他のところでいっているように「絶対無」つまり「空」のことです。

 しかし、元因段階でさえ最終ではなく、さらにもう一段階、「非二元」段階があるといいます。シュリ・ラマナ・マハリシは、元因と非二元の段階を次のようなシンプルな三つの言葉で表現しています。

 この世界は幻である。
 ブラフマンのみが実在(リアル)である。
 ブラフマンが世界である。

 最初の一行は、実体だと思われているすべてのもの(諸法)が実は幻のような実体のないもの・空であること、次の一行は実体でないこと・空こそがほんとうの実在(真如・実際)であることの目覚めを表現しています。『般若心経』の言葉に置き換えれば「色即是空」です。この二行では元因段階の意識が表現されています。

 (なお、ここで詳論することはできませんが、「古代インドから近現代のヒンドゥー教神秘主義に一貫する『アートマン=ブラフマン(梵我一如)』という思想では『アートマン』も『ブラフマン』も実体的に捉えられており、そこが仏教の『無我=アナートマン』の立場と違うのだ」という批評・批判がしばしば見られますが、少なくとも例えばラマナ・マハリシなどのテキストそのものを読むと、その批評は必ずしも当たらないように筆者には思えます。)

 そして最後の一行は、その実体でないこと・空からすべてのものが現われていることを示しています。おなじく『般若心経』の言葉でいえば「空即是色」です。この段階は、さまざまなものは元々分離しておらず一体ではあるが、かといってそれぞれのもの同士の区別がないわけではないという意味で「非二元」と呼ばれています。仏教用語の「不一・不二」の「不一」が省略されたものと考えていいでしょう。

 大乗仏教の立場からすると、理性はたとえヴィジョン論理のような統合的理性であっても所詮「分別知」であり、無明性を完全に脱してはいない、ということになりますし、心霊段階、微妙段階でさえ、元は分離していると捉えられたものが一体化・合一するという点でまだ分別性・無明性を脱し切れていない、ということになるでしょう。

 この区別が重要ですが、大乗仏教の覚り・無分別智は、「元は分かれていた多様なものが一つになる」という体験ではなく、「元々一つであるという事実(一如)」に目覚める体験なのです。

 さらに大乗仏教としてもう一つ重要なことは、「分別知」から「無分別智」へという転換が最終段階ではなく、さらに「無分別後得智・般若後得智」に到って初めて最終・最高段階であるという点です。

 かたちに現われたばらばらに見える多様性の世界は、覚ってみると本来は一つであり空であるけれども(多即一)、その一つ・空の世界の中でつながりあいながら様々なそれぞれのかたちが現われている(縁起、一即多)ことまで見るのが、究極の智慧なのです。


元因段階

 右に述べた二つの段階は、修行における実際の体験としてはかなり連続的な面もあり、かつ元因・無分別智から非二元・無分別後得智、非二元・無分別後得智から元因・元因という往復・循環もあるのですが、概念としては明瞭に区別することができますし、するべきだと思われますので、まず元因段階からもう少し述べていきたいと思います。
 ウィルバーは以下のようなエックハルトの言葉を引用しています。

「自分をまったく空にせよ。すなわちあなたを、その自我(あるいはいかなる分離した自己‐感覚、魂、あるいは大霊も)を空にし、また自分の内外にあるすべてのものを空にして、自分を神のなかにいると考えよ。神とは存在を超えた存在、存在を超えた無である。」(同書四七八頁)

「我々の完成と至福とは、個体がすべての被造物、すべての時間性、すべての存在を突き抜けて、その彼方へと出、基底なき基底に入るという事実にある。そこでは絶対の静寂と沈黙があるばかりである。」(同書四七九頁)

 こうしたエックハルトの言葉を読むと、用語や強調点やニュアンスの差はあるにしても、大乗仏教・空の立場とキリスト教神秘主義・絶対無としての神の立場は、普遍的な人間の体験可能性・成長可能性についてまったく同じことを語っている、と理解していいのではないでしょうか。

 そうした点については、すでに早くから京都学派宗教哲学の西谷啓治先生(『神と絶対無』創文社版著作集第7巻所収)や上田閑照先生(『エックハルト』講談社学術文庫)が指摘してこられたとおりですし、私事ながら、そういう理解に基づき、私は、四十年近く坐禅を続け仏教を自分のこととして語れると思うと同時に、そのことによってキリスト教を離れたとは思わないわけです(連載の第一回で「私のなかではキリスト教と仏教の壁はまったくなくなっています」と書いたとおりです)。

 ラマナ・マハリシはこう言っています。「『自己(セルフ)』は誰にも知られているが、はっきりとではない。『存在』が『自己』なのである。『私である』、これが神の名前なのだ。……『自己』を知ることは神を知ることである。事実、『自己』とは神にほかならない。」(同書四八一頁)

 そして、ウィルバーはこの段階が普遍的・宗教横断的に見られることを指摘してこう言っています。

 「純粋な『自己』/スピリットあるいは至高存在に関して言えば、ラマナがいつも繰り返している言葉は、ほとんどエックハルトと同じである。またこの段階にある世界中の聖者とも同一である。すなわち『自己』とは身体でも、心でも、思考でもない。感情、感覚、知覚でもない。それは徹底的にすべての対象、すべての主体、すべての二元性から自由である。それは見られるものでもなく、知られることもなく、思考の対象になることもない。」(同書四八二頁)

 この段階では、常識的な意味での「自己」はまったく超えられており、そういう意味で「自己中心性」は完全に克服されています。

 そして、この段階で自己中心性が克服され、次の非二元で世界=自己中心的な心の段階に到れば、環境問題つまり世界の問題の克服は他の誰から強制されたのでもない、自己自身の課題、あるいは禅的に表現すれば社会的な「作務(さむ)」、もっと言えば菩薩が願い楽しんで行なう「「願行(がんぎょう)」、「遊戯行(ゆげぎょう)」になるでしょう。




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