スピリチュアルな発達の四段階
前回、スピリチュアリティの科学の可能性について述べましたが、ウィルバー自身、禅やチベット密教の瞑想を長年本格的に実践しながら、実際にトランスパーソナルな体験を深めつつ、もう一方で、膨大な文献に当たって世界のさまざまなスピリチュアルな伝統を検討する作業を行なっています。
そうした修行と知的検討を通してウィルバーは、さまざまなスピリチュアリティの伝統で語られていることは、表面に現われたかたちとしては非常に多様に見えるが、深層構造を取り出すと本質的な一致が見られることを明らかにしています。
例えばキリスト教神秘主義のマイスター・エックハルトと大乗仏教のナーガールジュナ(龍樹)の教えは、表面上はまったく別の用語を使ってまるで別のことを言っているように見えます。しかし、深層の構造を探っていくと、実はまったく同じことを指し示そうとしていることがわかるというのです。異なった言葉を使ってはいるけれども、同じ体験領域のことを表現していると読むことができるのです。
さまざまなスピリチュアルな伝統の膨大な文献に当たる作業を通じてウィルバーは、スピリチュアルな体験にもある種の発達段階が四段階あることを見出しました。その四段階をそれぞれ、心霊的(psychic)、微妙(subtle)、元因的(causal)、非二元的(non-dual)と呼んでいます。
それぞれのスピリチュアルな伝統に所属する人々のなかには、そうした発達段階に位置づけられることを価値的に階層づけられること(ランキング)と誤解して否認する向きもあるようです。残念ながら人間には現在自分の到達している段階が最高で最終的な発達段階だと思いたいという傾向があるようです。
しかし、これまで繰り返し述べてきたとおり、環境問題を含むグローバルな諸問題を克服するには、克服のための行動を実践する主体そのものの心の発達も必須だと思われますから、そういう視点からすれば、人間がどこまで「自己中心性の克服」を遂げて高い発達水準に到ることができるかというのは、できるだけ公平な目で確認する必要があります。
そして、パーソナルな段階と同じように「自我中心性の克服」というものさしで見ると、スピリチュアルな体験世界にも発達的な階層は確かにあると思われるのです。
私は決してウィルバー理論を唯一・絶対と考えて信奉しているわけではありませんが、今のところ自分の知るかぎりでは世界のスピリチュアルな伝統に関してもっとも包括的で妥当性の高い理論であり、多くの心ある――特にスピリチュアリティに関わる――人々が協力して現代のグローバルで深刻な問題に取り組むための合意ラインの叩き台になりうるのではないかと評価しており、そういう意味で機会を捉えては紹介をしています。
心霊段階
まず〈心霊段階〉――余談ながら「サイキック・心霊」という用語は日本では印象で誤解を招きがちではないか、と筆者は危惧していますが、かといって他に適当な代案は思いついていません――であり、「魂(soul)」の領域ともいわれます。
この段階では、私たちの心の内部には個人としての私を観察する個人性を超えた内部の観察者・目撃者が現われます。心に心の中あるいは奥から一種の光と力が降り注いできて、すべての存在の中にはすべてを包む大霊(Over Soul エマソンの用語)がありすべては一つであること、自分とすべての現われているもの――他者や自然や物理的な宇宙――は一体だということを体験するといわれています。
こうした段階を典型的に語る言葉として、ウィルバーは次のようなエマソンの文章をあげています。
「我々は世界を一つずつばらばらに見ている。太陽、月、動物、木々、として。しかしこれらがその輝ける部分である全体は、魂なのである。そのなかに我々が存在し、その至福に我々すべてが到達できるこの深遠な力は、つねに自足していてい完全であるのみならず、見るという行為と見られているものとは、見者と光景とは、主体と客体とは、一つなのである。」(ウィルバー/松永太郎訳『進化の構造1』より)
この段階は「自然神秘主義」と呼ばれることがありますが、ただ重要なことは呪術的な自然との未分化・混融状態とはまったく違っているということです。呪術的な段階では自然と霊(スピリット)が同一視されていますが、この段階では物理的・生物的な自然は霊の部分あるいは顕れと捉えられています。
この段階は、個人性・個体性が「含んで超えられている」という意味でまさにトランスパーソナルな段階です。アイデンティティ(自己同一性)は、自己中心性を超えすべての人々をも含む自然を包んでいわば「世界中心的」になっています。別の言葉では、「全世界的(グローバル)な自己/世界の直接経験」とか「コスモス意識」ということもできるでしょう。
こうした意識の段階では、すべての生き物を一つの「自己(大文字で始まるSelf)」の顕れと見るので、すべの生き物に自分の真の「自己」を見出すことにもなります。パーソナルな段階では他人と感じられていた人・自己もトランスパーソナルな段階では自分と一体である同じ「自己」と実感されるのです。従来の宗教用語でいう「慈悲」や「アガペーとしての愛」は、そこから生まれます。
こうした心のあり方・段階は、常識からすると確かに「神秘的」に見えるでしょうが、決して前理性的とか非理性的という意味で神秘的なのではなく、主客分離的な理性を超えている、超理性的という意味で「神秘的」なのです。
心の発達段階としての「心霊段階」は、これまではいうまでもなくほとんどの場合、宗教の領域で見られたものであるため、近代的理性からはプレ・パーソナルで非理性的な呪術や神話と混同されがちでした。
しかし、歴史的事実として、こうした体験があること、こうした心の発達段階に達したことを主張する人々は相当数存在してきたのであり、そうした体験や段階に妥当性があるかどうかは、前回述べたような手続きを経て確認することもでき、さらに今後は「スピリチュアリティの科学」が確立される可能性もあります。
自然・心霊神秘主義と環境倫理
特に連載のテーマである環境問題に関していえば、総合的理性―ヴィジョン・ロジックの段階に達した多数のリーダーがいれば、根本的な解決の目処がつくということはすでに述べたとおりですが、その段階を超えてさらに自然・心霊心神秘主義の段階にまで達した人にとって、本来自分と他者や自然との分離―対立はありえないのであり、そういう意味で他者や自然を一方的に利用し収奪すること・傷つけること・破壊することなど、したくない、しない、できないということです。
ウィルバーはこう言っています。
「大霊」の輝きのなかで、すべては完全に明らかなものとなる。すべての先行する倫理観が試み、そして望んでいたものが何であったのかが。すべての先行する倫理が命がけでその実現に苦闘した善と真は、あまりに部分的で、あまりにも狭く、そのために本当に満たされることはなかった。なぜならすべての先行する倫理が本当に味わいたいと願っていたのは、この一切衆生の共同体との普遍的な同一化による普遍的な慈悲だったのである。それは真の優しさにおける慈悲の発出であって、他者のなかに自分の自己を見つめ、愛をもって抱擁するのである。(前掲書)
道元禅師の言葉を借りるならば、「諸悪莫作とねがひ、諸悪莫作とおこなひもてゆく。諸悪すでにつくられずなりゆくところに、修行力たちまちに現成す。この現成は、尽地尽界尽時尽法を量として、現成するなり、その量は莫作を量とせり」(『正法眼蔵・諸悪莫作』)ということでしょう。
全宇宙と一体化した人にとって、環境破壊も含めた悪はなしたくない、なさない、もはやなしえないのです。
人類の現状の意識水準を見ると、こうした段階はごく少数の例外的な聖者・覚者だけのものに思えますが、しかし私たちにもそうした段階に到る発達可能性がある、というウィルバーの考えに筆者も全面的に共感しています。
ヴィジョン・ロジック段階さらには心霊段階に達した人々が増えるにつれて、環境問題の根本的解決の可能性はまちがいなくいっそう高まるはずです。
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