足の痛み・しびれは心配ありません:禅定の話 2

2006年06月11日 | メンタル・ヘルス



                    八甲田山のブナ林



 私は、三十五年くらい前に、臨済宗系の秋月龍珉(あきづきりょうみん)先生の道場で坐禅を教わりました。

 他にいろいろな瞑想法があることは、いろいろな文献で知っていますが、自分にはこれが合っていると感じてきました。

 他の方法は、本を読んでできる範囲で独習したことはありますが、本格的に教わったことはありません。

 そこで、私がお話しできるのは、臨済禅の「坐禅」というかたちの「禅定」です。

 まず「調身」ですが、ご存知のように、坐禅では、「結跏趺坐(けっかふざ)」といって、左右の足を組みます。

 これは、足をしびれさせて我慢会をさせるためにするのではありません。

 両ひざとお尻の下にしいた座蒲(ざふ)で長さを足した尾てい骨の3点で、ちょうどカメラの三脚のような安定した状態を作るためにするのです。

 これは、足が長くて痩せている人の多いインド人には、静かに長く坐っているためにはいちばん楽な姿勢なのだそうです。

 確かに比較的足の短めな日本人が、足首、膝、股関節やその周辺の筋肉がこちこちに硬いままで、最初から無理にこんな姿勢をすると痛い目にあいます。

 社員研修などで、無理やりに坐禅をさせられて、足のしびれと痛みですっかり懲りて、坐禅なんか二度としたくないと思ってしまう人が多いようですが、残念なことです。

 しかし、ちゃんと準備の柔軟体操をしてやわらかくしてからすると、それほどひどいことにはなりませんし、慣れてくると体を安定した姿勢にして心を安定させるという目的のためにはやはり非常に適切な姿勢だと感じるようになります。

 最近は、柔軟体操から指導する禅道場もあるようですし、私の指導している唯識と坐禅の会では、必ず柔軟体操をお教えします。

 これまで、授業を受けてきて、人間の根本問題を解決するには、やはりアーラヤ識、マナ識という無意識の領域まで含めた心全体の浄化が必要だと感じた方、少なくとも私のところでは、「足がしびれて痛くてひどい目にあうのではないか」という心配はありません。

 決心して、坐禅に取り組んでみませんか。

 どんなに効果の高いトレーニング・メニューがあっても、それを読んでいるだけでは、レベル・アップはしません。

 どんな特効薬の効能書きがあっても、読んでいるだけでは治りません。

 多くの方がまちがえているようですが、仏教の話・知識は薬の効能書きのようなものです。

 読んだだけでも、ほっとするという安心効果があるのですから、それではダメだとは思いませんが、それでは不足だと思うのです。

 薬やリハビリ・メニューにあたる実際の効果をもたらすのは、六波羅蜜です。

 私は、まわりの若い人によく「飲まない薬は効きません」といいます。

 「飲まない薬が効かなくて、病気がよくならないのは、ぼくの責任じゃないよね?」と。

 これは別に意地悪をいっているわけではないと思うのですが、どうでしょう?


*この記事は非常にたくさんの方がアクセスしてくださるので、しびれについて新たに増補した記事を再録しています。こちらをご覧ください。



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ばらばらの見方・分別知を超える方法:禅定(ぜんじょう)の話 1

2006年06月10日 | メンタル・ヘルス





 私たち普通の人間の心は、心の奥底から表面まですべて物事をばらばらに分離したものとして捉えます。

 「分別知」です。

 そして、言葉を話すことは口のカルマ、考えることは心のカルマで、カルマは種子になり、マナ識を通ってアーラヤ識に溜まり、やがて芽生えてマナ識を通って意識に浮かんでくるという循環をしますが、この循環はすべて分別知の悪循環になっています。

 この悪循環を断たないかぎり、分別知から生まれる煩悩を断ち切ることはできません。

 煩悩を根本から断ち切るためには、分別知の悪循環を断ち切る必要があるのです。

 六波羅蜜の第5、「禅定(ぜんじょう)」はそのための方法です。

 ここで具体的なことを詳しくお話しすることはできませんが、大まかなポイントだけ話しておこうと思います。

 ご自分のことを振り返ってみてほしいのですが、人間はだれでも朝起きてから夜寝るまで目がさめている間中、心の中にいろいろな言葉やイメージがめぐっているのではないでしょうか。

 そういう心中での言葉やイメージのことを仏教では「念」といいます。

 それは驚くほどしっかりと自動化されていて、言葉やイメージをめぐらないようにするというのは、やってみるとほとんど不可能だと思うくらいに困難です。

 私たちの心中では朝から晩までほとんどいつも、いろいろな言葉やイメージ、つまりばらばらの「雑念」がとめどもなく湧いては沈み湧いては沈み…と、めぐっています。

 雑念をなくして「無念無想」になろうとしても、まず無理です。

 雑念をなくそうという思い自体ある種の分別知による念・雑念ですから、雑念に雑念が重なり、雑念と雑念が葛藤して、心が混乱状態になるばかりなのです。

 ところが、古代インドの瞑想家たちは、そういう念と念が葛藤する状態を超えるみごとな方法を発見したのです。

 それは、直接念を押さえつけ、心を静めようとするのでなく、いわば念を生み出す心の裏をかくような方法です。

 人間の心と体は、区別はできますが分離はできない一体のものです。

 そして、意識的な心で、無意識的な心(つまりマナ識やアーラヤ識)をコントロールして静め、落ち着かせることは難しくても、体を静かにし、落ち着かせるならそれよりはいくらか容易です。

 そこで、①まず体の姿勢を調えて、落ち着いて静かに坐ることから始めるのです。

 それが、坐禅などの坐り方・坐法です。

 さらに瞑想家たちは、人間の体の機能のうち意識的な心である程度コントロールでき、しかもそれが無意識的な心につながっているという特殊なものがあることを発見したのです。

 ちょっともったいぶった言い方をしてしまいましたが、要するに呼吸です。

 呼吸は、意識である程度コントロールできます。

 そして、呼吸が浅く短いと、無意識を含めた心全体があわただしい気分になり、深く長いと、落ち着いた静かな気持ちになります。

 ②体の姿勢を調えたら、次に呼吸を、なるべく細くて長くて静かでなめらかになるように調えるのです。

 実際にやっていただくとわかりますが、これは「いくらか容易に」と表現したように、すごく容易ではありません。

 それどころか、かなり難しいことが実感できるでしょう。

 それでも、直接、無意識の心を調えようとするよりは容易です。

 ③それからさらに、「無念」になろうという念を起こすのではなく、一つの念に集中する、いわば「専念」することで、心を静めていくのです。

 それは、例えば特定の聖なる言葉・マントラであることもあり、聖なるイメージであることもあります。

 どういうものを専念・精神集中の対象にするか、仏教を含む古代インドの宗教ではきわめて多様な方法が工夫されました。

 こうした、心を静める手順は、禅では①「調身(ちょうしん)」、②「調息(ちょうそく)」、③「調心(ちょうしん)」と呼ばれています。

 次回、この手順についてもう少し詳しくお話ししていこうと思いますが、ネット授業という枠で坐禅の指導の具体的なところまですることは難しいので、関心のある方には、私の主宰するサングラハ教育・心理研究所のブックレット『サングラハ・実践の手引き』をお読みになり、時々開催している坐禅入門の講座に参加されることをお勧めしておきたいと思います。

 研究所については、ブックマークのところでアクセスしてみてください。



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有限な人生を生きる心構え:精進(しょうじん)

2006年06月08日 | いのちの大切さ



                   雪の残る八甲田山



 六波羅蜜の4番目は、精進(しょうじん)です。

 いちおう「努力」と訳すことができます。

 これは善の心の働きの中にもありました。

 つまり、普通に考えてもいい心の働きだということですが、覚るためにも、これは不可欠な項目だということを意味しています。

 私たちの生きている世界は、ダイナミックに動いており、変わっていくものでいつまでも同じであるということはありません。

 つまり、「無常」なのです。

 そして個人としての私たちに与えられた人生の時間も無常ですから、永遠に続くものではありません。

 好むと好まざるにかかわらず、それぞれに与えられた人生の時間は有限です。

 これはまさに「好むと好まざるにかかわらず」で、ほとんどの人は好まないのですが、人生は有限なのです。

 (私もとても好まないのですが。)

 ですから、言うまでもないことですが――しかし言わないとなかなか気がつかないことですが、人生ですることのできることも有限です。

 やりたいことをいつまでも何でもやり続けるということは、本当に残念なことですができないのです。

 ですから、無常ということ、人生は有限だということに気がつくと、やらなくてもいいことや、どちらでもいいことをしている暇はないということがわかります。


 ましてやってはいけないことなどするのは、人生の無駄遣いどころか悪用です。

 なるべくやりたいこと、やるべきことに限定して精いっぱいやっても、人生の時間はまるで足らないという気がします。

 ですから、前にも言いましたが、人生では最優先事項、優先事項、少し後に回してもいいことをしっかりと区分する必要があると思います。

 特に世界新記録、金メダルクラスのきわめて高い人間成長をしたいと思うのなら、他の余計なことをしている暇はないでしょう。

 目標に向かってまっしぐらにトレーニングを重ねていくほかありません。

 それが「精進」という言葉の意味だと思います。

 これは布施、持戒、忍辱と異なって、特定のことをするというよりは、有限な人生の時間の使い方の基本的な心構え、まっすぐまっしぐらにわき目もふらず、修行していくという姿勢のことだと思っていいでしょう。

 ちなみに日本の日常用語に「精進料理」という言葉がありますが、これはもともとお寺で修行に励む時の食べ物という意味です。

 修行の中心は、この次にお話しする「禅定(ぜんじょう)」で、心を静め、集中して空・一如の世界を直感することです。

 そのためにもちろん体の姿勢も坐禅という静かな姿勢を取ります。

 心も体も静かにするためには、食べ物も淡泊なものである必要があります。

 ですから、生き物を殺してはいけないということも含めて肉や魚は食べませんし、ネギやニラやニンニクといった体に元気がつきすぎるものも避けるのです。

 主として穀類と野菜で作られた、しかし非常に繊細なおいしい食べ物が工夫されました。

 それが一般的な料理になったのが「精進料理」です。

 グルメとして高級な精進料理は食べるけれども、人生における精進は心がけないというのではもうまるで本末転倒ですね。

 人生の楽しみのひとつとしてたまには高級な精進料理を食べることも悪くないと思いますが、やはり人間として与えられた潜在的な成長可能性を精いっぱいに引き出して、芽生え、伸び、花開き、実り、しっかりと熟してから、大地に戻る植物の営みのように、有限な人生の四季を無駄なく生きたいと、私は思うのですが、みなさんはいかがでしょう。




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神仏基習合の説教

2006年06月07日 | 心の教育



          水面の波紋――十和田湖から奥入瀬川への入口付近



 今日は、キリスト教主義の学校のチャペル・アワー(つまり礼拝)の説教に行ってきました。

 明日は、仏教主義大学の「仏教心理論」の授業に行きます。

 それは、私の中では何の矛盾もありません。

 私にとって、キリスト教のエッセンスと仏教のエッセンスと神道など日本の伝統的精神のエッセンスと現代科学のコスモロジーといろいろな心理学の統合的な理解は、ぜんぶとてもうまく調和するものですから。

 宗教的立場としては、わかりやすく「神仏基習合」と呼んでいます。

 今日の神仏基習合的な説教の題は「本当の自信と謙虚」でした。

 やや長くなりますが、その後半の本題の部分を、ネット学生のみなさんにもシェアしたいと思います。

                     *

 では、本当の自信とはどういうものでしょうか。

 それは揺るぎない事実に裏付けられた揺るぎない自分自身への肯定感、自己承認だと私は考えています。

 さてでは、揺るぎない自信を持てるような揺るぎない事実などというものがあるのでしょうか。

 私はあると思います。

 そのもっとも根本的なものが、私たちは誰もがみなすべて生まれてきたという事実です。

 そんなことは当たり前ではないかと思われるかもしれません。

 確かに当たり前です。

 しかし、その当たり前の事実の深い意味をよく自覚している人は多くない、と思うのです。

 どなたか、自分で自分を生んだ方がおられるでしょうか。

 おそらく私の知るかぎり、かつても今もこれからも、世界の中で自分を自分で生むことのできる人は一人もいないと思います。

 どなたか、自分の命を自分で作った、自分で買ったという方がおられるでしょうか。

 それから、生まれるに際して、条件を付けられた方がおられるでしょうか。

 一人もおられないでしょう。

 つまりが、私たちの命は自分で生んだものでもなければ、自分で作ったものでもなく、自分で買ったものでもありません。

 まったくただ、まったく無償で、まったく無条件で与えられたもの、プレゼントされたものです。

 私たちの能力や長所や業績などの根源である私たちの命、生きているということそのものが、自分の功績ではない、無償・無条件のプレゼントであるという事実に気がつくと、私たちは謙虚にならざるを得ません。

 「いったいあなたの持っているもので、いただかなかったものがあるでしょうか。もしいただいたのなら、なぜいただかなかったような顔をして高ぶるのですか。」(新約聖書、コリントの信徒への手紙Ⅰ 4:7)

 しかしこの誰もが生まれたものだ、命はプレゼントだという事実に、本当の自信の根拠もあるのだ、と私は考えています。

 私たちの命が自分で生んだものではないということは、私たちの命を生んだものがあるということです。

 その私たちの命を生んだもののことキリスト教では「神」と呼んできました。

 ここで大切なことは、「神」という言葉を使うかどうか、その言葉に伴うイメージが好きかどうか、その言葉に関してキリスト教が教えてきた教えを信じ込むかどうかではない、と私は思っています。

 重要なのは、私たちが生まれたということが事実である以上、私たちを生んだ私たち個人個人を超えたいわば「より大いなる何ものか」が存在することも事実だと考えざるを得ない、ということです。

 私たち人間の命は、当たり前のようでもあり不思議なようでもあることですが、心を持っています。

 その心で、自分が生きているということを感じたり考えたり、さらに自分を生かしているより大いなる何ものかのことを感じたり考えたりすることができます。

 そこに人間が、他の生命でない物はもちろん、他のどの生命とも違う特徴があるといっていいでしょう。

 人間は大いなるなにものかから生まれたものでありながら、その大いなるなにものかのことを感じ考える存在なのです。

 現代人に納得しやすいように、その大いなる何ものかのことを「宇宙」とか「自然」と呼んでおくことにすると、人間は宇宙・大自然から生まれたものでありながら、自らを生み出した宇宙・大自然のことを認識する存在です。

 しかも、人間の心には理性だけではなく感情の領域がありますから、大いなるもの・大自然を認識した時には、まさに自然に感動し、賛美せざるを得なくなります。

 (十和田湖、奥入瀬渓流、八甲田山の美しさには感動せずにはいられませんでした。)

 大自然・宇宙は、自分自身の中に自分自身の一部として、自分を認識し、感動し、賛美する心のある生命として人間を生み出しているのです。

 これは、気づくと誰でも納得のできる事実ではないでしょうか。

 そして、それが、宇宙の中に人間が心のある生命として存在する宇宙的な意味なのではないか、と私は考えています。

 「あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。」(コリントの信徒への手紙Ⅰ 3:16-17)

 私たちは、自分がそういう神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいること、現代風に言い換えれば宇宙の自己認識器官、自己感動器官としての心を持っているということに気づいた時、いわば宇宙的な、絶対的な自信を持つことができます。

 この自信は、誰にでもある確実な事実に裏付けられていますから、人と比較する必要も、無理をする必要もありませんし、揺らぐことはありません。

 そして、そういう本当の自信は本当の謙虚と矛盾するどころか、表裏一体のものだと思います。

 今日の聖書の言葉は、特定宗教としてのキリスト教を信じ込むかどうかということを超えた、誰にでも通用する事実を指し示している言葉なのではないでしょうか。

 古代的で現代の日本人にとってはあまりにも宗教的な表現ですが、現代の言葉で読み直すことによって、私たち自身の生きている事実を照らしてくれる言葉として聖書を学ぶことができる、と私は考えています。



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苦しみに能動的に立ち向かう:忍辱の話 2

2006年06月06日 | 心の教育

 仏教の「忍辱(にんにく)」には、人から辱められたことを忍ぶという意味だけではなく、暑さや寒さや餓えや災害など、環境から来るいろいろな苦しみを耐え忍ぶという意味もあるといわれています。

 世界と私は一体だといっても、区分という意味では分かれていますし、世界は区分された個体としての「私」を中心に私の都合に合わせて存在しているわけではありません。

 大きな全体の都合でダイナミックに動いています。

 その動きは時に私の都合に合わないこともあるというのが、世界・自然の自然な姿なのです。

 ところが、私たちが自分の都合・願望・希望・欲望…へのこだわりの心で世界を見ると、世界はしばしば不条理・不自然そのものに思えます。

 「私をこんな目に遭わせるなんて、神も仏もあるものか」と思うことがありますが、世界にはそういうすべてを私の都合どおりにしてくれる存在という意味での神や仏はいないようです。はなはだ残念なことですが。

 コスモスは、私たちにいのちを与えてくれた存在でもありますが、時にまったく非情にいのちを奪う存在でもあります。

 それは、いくら恨んでも嘆いても仕方のない、コスモスのありのままの自然な姿だというほかありません。

 それでも、怒ったり恨んだり嘆いたり絶望したりしたくなるのが、私たちの人情つまり凡夫の感情です。

 菩薩は、そういう凡夫の感情に深い同情・憐れみの心をもっていますが、しかし、自分に関しては「それが人情だからしかたない」とは考えないのです。

 人情は人情として受け止めながらも、感情に溺れ、打ち負かされてしまわないように努力するのです。

 「これは、個人としての私にとってとてもつらいことだが、だからといって誰か・何かを恨むようなことではないのだ。これもまた、ありのまま、自然なことなのだ」と認識して、能動的に受容しようとするのです。

 忍辱とは、ただ受動的に「しかたない」とあきらめて我慢することではありません。

 あらゆる苦しみを積極的な修行のチャンスと捉えて、能動的に受け容れようと精一杯努力するのです。

 仏教用語で真理を意味する「諦(たい)」は、「あきらめる」と読まれますが、これは、受動的に弱々しく、希望を捨てることではありません。

 真理を明らめる・明らかに把握することによって、自分の都合で考えたり感じたりすることを能動的に断念するという意味なのです。

 ナチのユダヤ人収容所から奇跡的に生還したことで知られる精神医学者フランクルが、「人間は、意味のない苦しみには耐えられないが、意味のあることなら雄雄しく耐えることができる」という意味のことをいっていますが、確かにそうだと思います。

 苦しみに意味を見出し、積極的・能動的に雄雄しく立ち向かうことによって、高い、深い人間的成熟がもたらされることは、多くの苦労された方の実例からも明らかです。

 私個人としてはまったく望まないことですが、やってきたら逃げてもしかたない、苦しみに正面から立ち向かうほかないと思いながら、これまで生きてきました。

 乗り越えることができるたびに、少しは人間的に成熟できたかな、と自分では思っています(私のしてきた苦労などもっと苦労された方に比べれば大したことはありませんが)。

 人の辱めを忍ぶこと、さまざまな苦しみに耐えること、忍辱は難易度の高いトレーニング・メニューですが、くじけないで取り組みたいものです。



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難易度のもっとも高いトレーニング・メニュー:忍辱(にんにく)の話 1

2006年06月05日 | メンタル・ヘルス

 自分と他人、おれたちとあいつら、この物とあの物、人間と自然など、すべてのことを分離し別れたものと見るものの見方を「分別知(ふんべつち)」というのでした。

 確かにそれぞれの物・事には区別があります。

 くっきりと区分することができます。

 しかし、根本的には分離していない、つながっていて、結局は一つなのでした。

 そういう根本的な真理・法・ダルマからいうと、他人が私に損をさせた、嫌な思いをさせた、傷つけたというのは、広く深い意味で自分が自分に損をさせた、嫌な思いをさせた、傷つけたということになります。

 傷つけられたというので傷つけ返したら、実は深い意味での自分を二重に傷つけることになります。

 譬えると、右手に包丁を持ってお料理をしていて、誤って左手の指を切ってしまったというので、傷ついた左手が包丁をひったくって右手に切りつけて仕返しをしたら、両手とも傷ついてひどいことになるようなものです。

 いうまでもなく、右手と左手は同じ一つの体のそれぞれの部分ですから、決してやられてもやり返したりはしません。

 それどころか、左手の指を切った拍子に刃が上を向いた状態で包丁を落とし右手のほうがもっとひどい怪我をしたというケースなら、軽く傷ついた左手でもっと傷ついた右手の治療をすることだってあります。

 六波羅蜜の第三で、ある意味では〔少なくとも私にとって〕もっとも難易度の高いメニューである「忍辱(にんにく)」というのは、他のもの(者・物)から傷つけられてもそれを忍ぶということです。

 〔もちろん私も含めて〕私たちは、なかなか自分に不利益を与えた相手を許すことができません。

 腹を立て、憎み、恨み、仕返しをしようと思ってしまいます。

 しかし、すべてがつながって一つということを知って、さらにそれを実感し、覚りたいのなら、この困難なトレーニング・メニュー、「忍辱」に挑戦する必要があります。

 ここで重要なのは、これは条件付きmustで、強制的な意味での倫理、絶対化されたmustではないということです。

 無理をして、「人を許さなければならない」と思っても、なかなかできません。

 無理をしないためには、まず頭だけでいいから理を認識することが先です。

 「あいつとおれとは、実は一体なのだ」と理論としてだけでも認めるのです。

 そこのところを、唯識では「忍はまず認から始まる」といいます。

 怒りや恨みや仕返ししたいという感情を押さえつけようとするより、感情は感情としてあるがままにしておいて、理をしっかりと認識するのです。

 そして理をしっかり認識できたら、少しずつでも実習するのです。

 「まったく腹が立つ。どうにもゆるせない。何とか仕返しをしてやりたい……でも、本当はあいつとおれとはつながっていて、それどころか一つの宇宙の部分同士なのだ。まったく気に入らない、そんな気になれない、どうしてもそうは思えないけど……しかし理としてはそうなるんだ。ならば、せめてひどい仕返しをするのだけはやめておこう」というふうに。

 ブッダの言葉に「怨みに報ゆるに怨みをもってすれば怨みの絶ゆることなし」というのがあります。

 憎しみに対して憎しみ返すと、また憎しみが増幅されてこちらに返ってきます。

 果てしない憎悪の悪循環を断つためには、忍辱という薬が必要です。

 それより何より、人を憎むと自分自身の心も不愉快です。

 自分自身の心の爽やかさのためにも、憎悪の悪循環を断つためにも、そして「すべては一体」と覚って心が超健康になるためにも、このきわめて難易度の高いメニューに何とか取り組んでいきたい、と筆者も思っています。

 みなさんも、金メダルに向けて選ばれた人・選手のように、菩薩でありたいと思われるならば、ぜひ挑戦してください。

 たぶん、よほど運のいい方か、もともときわめて柔和な方以外は、毎日のように忍辱修行のチャンスを与えられていると思います。

 この世・娑婆(しゃば)世界は怨憎会苦(おんぞうえく)の世界ですからね。

 毎日続くハード・トレーニング、長丁場で挫折しないよう、お互いに健闘を祈りあいましょう。



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十和田湖

2006年06月03日 | メンタル・ヘルス
 ワークショップは今回も晴天に恵まれました。

 十和田湖も奥入瀬もすばらしい風景です。
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奥入瀬の緑と光

2006年06月03日 | 心の教育


              奥入瀬川の水に映った緑




                 奥入瀬渓流1




                 奥入瀬渓流2




                 奥入瀬渓流3





                 奥入瀬渓流4




 みごとな快晴に恵まれ、緑と光でいっぱいの奥入瀬を歩くことができました。

 「絵にも描けない美しさ」という言葉がありますが、写真でも写しきれない美しさでした。

 しかし、撮るところ撮るところすべて絵になる美しさ、ほんの一部をシェアします。



↓美しい風景だなと思われたら、リックしてください。

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十和田湖の風景

2006年06月02日 | 心の教育


                  夕暮れの十和田湖




                  朝の十和田湖




                  十和田湖の水面の光



 十和田湖畔の素敵なホテルに泊まることができました。

 十和田湖の美しい風景、ごく一部をシェアします。



↓美しいなと思われた、是非、クリックしてください。

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休講のお知らせ

2006年06月01日 | 心の教育


                     八甲田山



 明日からの奥入瀬・八甲田山ワークショップのため、しばらく休講させていただきます。

 できたら、携帯でワークショップの報告記事を書きたいと思ってはいます。

 ネット学生のみなさん、よろしく。



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