唯識仏教の目指すところ:無住処涅槃(むじゅうしょねはん)の話1

2006年06月19日 | メンタル・ヘルス



                  梅雨の晴れ間、夏近し



 唯識-仏教の目指すところを一言でいえば「覚り」です。

 覚りというと何かとても深遠で神秘的で「曰く言いがたい」もののように感じられるかもしれません。

 しかし、これまでお話ししてきたとおり、あえて言葉で「すべてが1つでありすべてがつながっていることを見ることができる心のあり方」と表現することもできるのでした。

 そのことを理論的に詳しく説明したのが「三性説」です。

 心理学的な言い方をすれば、「心理機能論」といってもいいでしょう。

 しかし私たちふつうの人間は、すべてがばらばらにあって後からつながりができるかのようなものの見方をしています。

 心の奥底から表面まで、すべてばらばらのものの見方しかできないのです。

 そういう心の仕組みを8つの領域に分けて分析したのが「八識説」でした。

 それに対して覚りの心を4つの智慧からなるものとして分析したのが「四智説」でした。

 これも心理学的な言い方をすれば、「心理構造論」ということができるでしょう。

 八識の心を転換して四智の心を獲得することを「転識得智(てんじきとくち)」といいます。

 八識の凡夫から四智の仏までの段階を明らかにしたのが「五位説」です。

 心理学的には、「心理発達論」にあたるでしょう。

 ここまでが、いわば原理論で、次の「六波羅蜜論」が臨床論になります。

 八識の心を転換して四智の心を獲得するには6つの方法が有効-必要であるという話でした。

 これで、唯識の理論の大切なポイントはほぼ尽きるといってもいいのですが、もう1つ、六波羅蜜を実践して八識が四智に転換した結果どういう心境・境地になるのかという、治療-修行のいわば「目的論」にあたる話があります。

 「無住処涅槃(むじゅうしょねはん)」という、大乗仏教独特の考え方です。

 大乗以前の仏教では、生きるということそのものが「迷いの生存」というふうに捉えられていて、覚り・涅槃はそういう迷いの生存からの解放・脱出すなわち「解脱(げだつ)」と同一視されていました。

 ですから、覚った人は輪廻の世界から永遠に解脱して2度と輪廻の世界には戻ってこないことになっていました。

 といっても、覚ったらすぐ死ぬというわけにはいきません。

 覚ってもまだ体があって生きている状態は、「有余依涅槃(うよえねはん)」と呼ばれました。

 「迷いの生存・煩悩の依りどころである体がまだ余って有るが、心はいちおう覚りの状態にある」といったふうな意味です。

 すでにお話ししましたが、「涅槃」とは「ニルヴァーナ」を漢音に写したもので、煩悩の炎の消えた状態というふうな意味です。

 しかし、大乗以前の仏教の修行者たちは、肉体があるかぎり性欲や食欲といった欲望はなくならない、欲望を完全になくするには肉体そのものがなくなるほかない、と考えたようです。

 そういう肉体がなくなり欲望もなくなった状態のことを、「無余依涅槃(むよえねはん)」といいます。

 「依りどころである余計な肉体が無くなって煩悩の炎が完全に消えてしまった状態」というふうな意味でしょう。

 それに対して大乗仏教の人々は、そういう考え方は自分ひとりが苦しみの生存の世界から逃れようというちっぽけな考え方、自分しか乗れない小さな乗り物だ、として批判をしました。

 確かに体がなくなれば煩悩もなくなり、自分は楽になるかもしれませんが、煩悩に苦しんでいる他の人々を救うことはできません。

 他の生きているもの=衆生とおなじ体があって初めて、慈悲・救いの実践をすることができます。

 「この体があるままで完全な涅槃に入れる」というのが大乗仏教の特徴的な教えです。

 私たちの体・生命そのものが、煩悩と迷いの生存の主体であることから解放されて、覚りと慈悲の主体に変容することが可能だ、というのです。

 これが本当だとすると、単に特定宗教としての仏教の枠をはるかに超えた、人類全体にとって大変な希望のメッセージです。

 それが本当かどうか(もちろん私は本当だと考えているわけですが)、次回、ご一緒に考えていきたいと思います。



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コメント (3)
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