すべては1つである

2005年10月12日 | 心の教育

 137億年前、宇宙は、限りなく小さい状態から爆発的に拡大しはじめたといわれています。

 限りなく小さいとは、どのくらい小さいのでしょう?

 その後、他の研究者によって、始まってまさに直後、10のマイナス44乗(つまり1の後に0が44個付いた数分の1)秒というきわめて短い時間がたった時、宇宙は、ごくごく小さな1つのエネルギーの球だったというところまで推測が進められました。

 (「球」というのは1種の比喩で、専門的には数式でしか表現できない世界なのだそうですが。)

 どのくらい小さいかというと、10のマイナス34乗センチメートルです。

 これは、ミクロンやナノといった単位よりもはるかに小さく、もちろん目に見えるような大きさではありません。

 それどころか、原子や素粒子やクォークよりも小さいのです。

 その大きさというか小ささというかの中に、現在の観測可能な範囲の宇宙がすべて凝縮されていた、というのです。

 もう、信じられないような話ですが、ここで終わりではありません。

 さらに、その時点では、すべてが凝縮されすぎていて、特定の物質も時間も空間も存在することはできなかったはずだ、と考えられています。

 物質も時間も空間も存在できないとしたら、それは何だったのでしょうか?

 それは、エネルギーだったというのです。

 物質も時間も空間もなく、すべてはエネルギーだけなんて、常識ではまったく信じることも想像することもできませんが、でも、アインシュタイン以降のノーベル賞クラスの物理学者たちが考える、現代科学の標準的な仮説ではそうなっています。

 (ビッグバン仮説の主な証拠は、①銀河の拡散、②宇宙空間の絶対温度、③宇宙背景放射、④夜空の闇、など。詳しいことは他の宇宙論の入門書を参照してください。)

 ところで、私たちにとって決定的に重要なのは、この仮説が正しいとすると、宇宙の初めには、すべてが「ばらばらのモノ」の寄せ集めではなく、たった「1つのエネルギー」だった、つまり「すべてが1つ」だったことになる、といういうことです。

 そしてそれだけでなく、拡大してばらばらになったわけではなく、いくら拡大しても、エネルギー・レベルでは宇宙は1つのままだ、ということです。

 わかりやすくするために、ここにものすごく小さな風船があると想像してください。

 それに空気をたくさん吹き込んで、最初の小ささからは信じられないくらい大きくふくらませるとします。

 さて、そこで、びっくりするほど大きくなった風船は、いくつになったのでしょうか?

 一瞬、「え?」と思われるかもしれませんが、シンプルに答えてみてください。

 そうですね、いくらふくらんで大きくなっても、1つの風船は1つのままです。

 それとまったく同じで、137億年もかけてもう驚異というほかないほど大きくなっていますが、でも、「宇宙は、始まってから今までずっと1つのままだ」と考えられるのです。

 このことは、私たちの宇宙観・人生観つまりコスモロジーにとって、決定的に重要な意味があります。

 つまり、神話やあるいは神秘主義的宗教や覚りの話ではなく、現代科学でも、まちがいなく「私たちと宇宙は1体だ」といえることになるからです。

 「突然、そんなことをいわれてもー…あやしいー…」という気のする方がいると思いますが、よかったら、続けて授業に参加してください。

 たぶん、あなたの世界観が変わると思います。つまり、近代科学的世界観から現代科学的世界観に、大きく転換していくでしょう。

 そしてそれは、たぶんすごくいいことです。

*写真は、「ビッグバン」仮説の提唱者ジョージ・ガモフ(1904-1968)、池内了『宇宙論のすべて』新書館より転載

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宇宙の始まりと私の始まり

2005年10月11日 | 心の教育

 現代科学の標準的な仮説では、宇宙は今から137(+-2)億年昔に始まったといわれています。

 私自身も知って驚いたんですが、宇宙も永遠の過去から永遠の未来にわたって存在しているものではなく、ある時――今から137億年くらい前――始まったんですね。

 それが、宇宙カレンダーの1月1日になります。

 私たちの人生に比べて、それはもう「想像を絶する」ような遠い遠い昔、長い長い時間ですが、ここであえて絶してしまわないで、眼を閉じて想像してみてください。

 「137億年というのは、どういう長さの時間なのだろう?」と。

 数字を「知る」だけなのと、その時間の長さを「イメージする」のとでは、コスモロジーとしての実感が変わってきます。

 少しでもイメージすることができ、わずかでも実感することができると、心の中に驚き、「なんて不思議なんだろう」という感じ――レイチェル・カースンのいう「センス・オブ・ワンダー」――が湧いてきませんか?

 私は、「すごいなあ」と感心してしまいます。

 なぜ、そんなすごいことがわかったのか、簡単にお話ししていきましょう。

 19世紀から20世紀前半にかけて、技術が発達し、望遠鏡も発達し、それに連動して天文学・宇宙論も飛躍的に発達してきました。

 そして、それまでわからなかった宇宙のいろいろなことが、信じられないほどはっきりとわかるようになってきたのです。

 20世紀初頭、エドウィン・ハッブルというアメリカの天文学者が、解像度と倍率が飛躍的に向上した望遠鏡で、毎晩のように夜空を覗いて星の研究をしていました。

 (有名なハッブル望遠鏡は彼の名にちなんで名づけられたものです。)

 性能のいい望遠鏡で見ると、それまでボンヤリとした星のように見えていたものが、実は無数の星の集まりであることがわかってきたのだそうです。

 しかも、その無数というのが、数十や数百ではなく、数億や数十億という集まりで、つまりそれらは「銀河」であることがわかってきました。

 夜空、つまり宇宙にはたくさんの星だけでなく、無数の星の集まりである銀河がたくさんあったのです。

 (今では、銀河は、全宇宙に1000億個ほどあるといわれていますが、その10倍、1兆個近くあるという説もあります。)

 ハッブルは、そうした全天の銀河の観測を続け、さらに地球とそれぞれの銀河の距離、銀河同士の距離も調べていったのです。

 1929年、一定数の銀河を調べた段階で、ほとんどあらゆる銀河は地球からも他の銀河からも一定の法則性(「ハッブル定数」)のある大変な速度で遠ざかっているという説を発表しました。

 (私たちの天の川銀河に近い小銀河で引力のために近づいているものはあるのだそうですが。)

 そして、ほとんどの銀河同士がお互いに遠ざかっているという事実から、宇宙空間は拡大していると考えたのです。

 これは、宇宙空間というものは無限であり変化しないものだという常識からすると、大変ショッキングな発見でしたが、観測が進めば進むほど、確実だと考えられるようになりました。

 ところが、科学者たちはどこかで考えを止めるということがなく、どこまでも考えていくもののようで、ロシア出身アメリカ国籍の科学者ジョージ・ガモフは、さらに「時間が経つにつれて宇宙空間が拡大しているとすれば、逆に時間を遡ると今よりも小さくなるはずだ」と考えました。

 そして、そのことを観測的事実と理論的推測をあわせて遡れるぎりぎりのところまで遡って、かつて宇宙は限りなく小さかったはずだと考えました。

 1947年、ガモフは、百数十億年前、宇宙は限りなく小さい状態から爆発的に拡大しはじめたという仮説を提出しました。

(すでに1927年、ベルギーのルメートルによる先駆的な仮説は出されていたのですが、ガモフによって有名・決定的になりました。)

 この仮説は、反対する学者から「なるほど、ビッグバン(大爆発)というわけだね」と皮肉をいわれたことから、「ビッグバン仮説」と呼ばれるようになりました。

 この「ビッグバン仮説」は、少数の反論はないわけではありませんが、50年あまり基本的には揺らいでいないようですし、現在では大多数の科学者が認める標準的な仮説になっており、しかも仮説を裏づける決定的なデータが2003年NASA(アメリカ航空宇宙局)から発表され、ほとんど定説になりつつあります。

 つまり、「私たちの宇宙は137億年前に始まった」といって、ほぼまちがいなさそうです。

 さて、ここまで来て、「宇宙が始まった? それが私に何の関係があるんだ?」という気がしている人がいるかもしれません。

 そこで考えて見ましょう。

 宇宙が始まらなかったら、私たちの住んでいるこの天の川銀河というものはできなかったんじゃないでしょうか?

 天の川銀河ができなかったら、太陽系もできなかった。

 太陽系ができなかったら、地球もできなかった。

 地球ができなかったら、生命は生まれなかった。

 生命が生まれなかったら、人類は生まれなかった。

 人類が生まれなかったら、私のご先祖さまも生まれなかった

 ご先祖さまが生まれなかったら、私も生まれていない。

 まちがいないですね? どこにも論理の飛躍やすり替えやごまかしはありませんよね?

 だとしたら、宇宙が始まったことと私が生まれて生きていることとは、137億年という想像もできないほど長い時の隔たりはあるにしても、真直ぐダイレクトに関係があると考えるほかないのではありませんか?

 驚くべきことですが、「宇宙の始まりは私という存在の始まりでもある」……ということになるようです。

*今回の写真は銀河団RXJ_Vri_72。前々回の写真は銀河団C1039。いずれも国立天文台提供。

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宇宙カレンダー

2005年10月10日 | 心の教育
 
 みなさん、「宇宙カレンダー」というのをご存知ですか。

 これは、『コスモス』などの著作でも知られているカール・セーガンというアメリカの科学者が『エデンの恐竜』という本で提示したアイデアで、宇宙の歴史の流れをイメージとして捉えやすくするために、1年に縮尺したものです。

 セーガンのアイデアの頃は宇宙の歴史は大まかに150億年といわれていましたが、最近、かなりの確度で137億+-2億年といわれるようになりました。

 137億年として計算すると、だいたい1日が3千753万年、1時間が156万年、1分が2.6万年、1秒が433年に当たります。

 現代科学では、驚くべきことに137億年の宇宙の歴史の大まかなシナリオをかなり確実に描くことができるようになっています。

 その大まかなシナリオを以下に掲げましたので、まず、ざっとでかまいませんから、見てください。

 宇宙の137億年の壮大な物語を語るのは、それからにしましょう。


1月1日:ビッグバン(10の―44乗秒、大きさ10の-34乗cm、無からのエネルギーの創発?)

〃午前0時4~12分(10~30万年):水素原子(把握)の創発

1月初旬(130億年以上前):星の創発 

 以後、星の中で人体を構成する元素:水素、炭素、窒素、酸素(ここまでで重さの99%)、ナトリウム、燐、硫黄、カリウム、カルシウム、マンガンなどが誕生、鉄まででいったん止まるが、超新星=星の死によって、コバルト、亜鉛、ヨウ素、その他の元素が次々と誕生していく(自然的なもの98種類、さらに人為的に作られたものを含めて111種類)

5月13日(100億年前):天の川銀河の創発
                                  
8月20日(48~50億年前):原始太陽系の創発
                                 
8月31日(46億年前):太陽系・地球の創発
                                   
9月16日(40億年前):海の創発
    
9月16日ころ(38~40億年前):地球での生命の創発(被刺激性、ガイア・システムの創発)

9月23日(37.5億年):地球での既知の最古の岩石生成
                          
9月29日(35億年前):最古の生命化石
            
10月18日(27~28億年前):酸素発生型光合成生物の創発

11月3日~(19~22億年前):大気中の酸素量の増加開始

11月8日(20億年前):真核生物(核をもった最初の細胞、有機的生態系)の創発

11月21日(15億年前):有性生殖の創発

11月29日(12億年前):明確な酸素大気が地球上で発達しはじめる

12月 5日(10億年前):多細胞生物の創発

12月15日:蠕虫(神経組織‐感覚、分業のある生物社会)の創発

12月16日(5億7千万年前):先カンブリア代終わり、古生代のカンブリア紀始まる。無脊椎動物繁栄 

12月17日:最初の海洋プランクトン。三葉虫栄える

12月18日(5億1千万年前):オルドビス紀。最初の脊椎動物=魚類(神経管‐知覚)の創発

12月19日(4億3千9百万年前):シルル紀。維管束植物の創発。植物の陸地移住はじまる

12月20日(4億8百万年前):デヴォン紀。昆虫の創発。動物の陸地移動はじまる 

12月21日:両生類の創発。有翅昆虫の創発

12月22日(3億6千2百万年前):石炭紀。木本の創発。爬虫類(爬虫類的脳幹‐衝動、集団/家族)の創発

12月23日(2億9千万年前):ペルム紀(二畳紀)。哺乳類型爬虫類の繁栄

12月24日(2億4千5百万年前):古生代終わり、中生代始まる。生物大量絶滅

12月25日(2億4千5百万年前):三畳紀。恐竜の創発。哺乳類の創発(大脳辺縁系‐情動=心の創発 )

12月26日(2億8百万年前):ジュラ紀。鳥類の創発                                

12月28日(1億4千5百万年前)白亜紀。花の創発。恐竜絶滅はじまる                       

12月29日(6千5百万年前):中生代終わり、新生代第三紀。クジラ類の創発。霊長類(シンボル、部族的群れ)の創発

12月30日:大型哺乳類繁栄。霊長類の前頭葉の初期進化。ヒト科生物(概念、呪術的文化、部族・村)の創発

12月31日(1千6百万年前~):第四紀。人類(具体的操作、神話的文化、初期国家・帝国)の創発

31日23時59分54秒:霊性の先駆的な創発 (老子、孔子、ソクラテス、イザヤ、エレミヤ、ブッダ、イエス、大乗仏教)  

新年:形式的操作、合理的文化、国民国家の創発 (理性・人権思想・科学・技術・産業の発達、植民地化-地球化、世界大戦、核兵器、環境破壊、ニヒリズム)

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現代科学のコスモロジー:そのアウトライン

2005年10月09日 | 心の教育




 前に、「いろいろな事情があって、日本の戦後教育では『近代科学』の大まかな成果は学校で教えられるのですが、『現代科学』の、特にコスモロジーとしての到達点については、まったくといっていいほど教えられていません」といいました。

 学生たちや中高の教師の方たちに聞き取り調査をしていますが、ネット学生のみなさんにも質問をしたいと思います。

 以下、19世紀末から20世紀末までの科学の成果のうち、コスモロジーにとってきわめて重要なものを5つあげてありますが、これらの人名と事項の中のいくつを高校までで学んだ覚えがありますか? それから、学校ではないけれども、自分で学んだものがいくつありますか?

 1869年 ヘッケルによるエコロジー(生態学)の提唱。
 1905年 アインシュタインの相対性理論。
 1947年 ガモフのビッグバン仮説。
 1953年 ワトソンとクリックの遺伝子の二重ラセン構造の発見。1962年ノーベル賞を受賞。
 1977年 プリゴジーヌの散逸構造の理論がノーベル賞を受賞。

 このあたりで、「わっ、苦手な理数系だ」とアレルギー反応が起きそうな方も少なくないと思いますが、ぜひ、ここで頑張ってください。

 ニヒリズムに到る近代科学を教え込まれたために陥っている心の不調、つまり自信喪失を克服する上で、希望に到る現代科学をごく大まかでも学ぶことが、根本的なベースになるからです。

 私自身、いわゆる文科系の人間で科学の専門家ではないため、かえってわかりやすくお伝えできると思いますから、ほんの少し努力していただくだけで、アレルギーは解消できます。

 それは、これまで教えてきた学生は、文学部、社会学部、経済学部、人間関係学部、人文学部、経営学部……と、すべて文科系であったにもかかわらず、最後まで授業を受けた学生の90%から100%近くが、大まかな流れはちゃんと理解できたことからも保証できますから、ご安心ください。

 それから、念のために申し上げておきますと、私は科学の専門家ではありませんが、以下お話しすることについては、何人もの科学の専門家にチェックしていただいて、だいじょうぶという保証をいただいています。


 万一、気になる方は、以下お話しすることと、例えば1流の科学者が執筆・監修した『21世紀こども百科 宇宙館』(小学館)を対照していただけるといいと思います。

 あげている事実や仮説はほとんど重なっていることがおわかりいただけるでしょう。

 もっとも、その事実や仮説の解釈については、私のほうがコスモロジーとして踏み込んだ解釈をしていますが。

 さて、これから徐々にお話ししていくのですが、まず、1947年、ガモフのビッグバン仮説が正しいとすると「宇宙はもともと1つのエネルギーの玉だった」ということになります。

 それは、1905年に発表されたアインシュタインの相対性理論によって、宇宙は究極のところ物質というよりエネルギーからなっていることが明らかにされたことをベースにしています。

 1953年、ワトソンとクリックによる遺伝子の二重ラセンの構造の発見(62年にノーベル賞を受賞)から始まって、地球上の多様な生命の種の遺伝子が研究され、すべて同じ二重ラセンの構造になっていること、そこから、おそらくすべての生命は同じ1つの単細胞生命の遺伝子を引き継いでいるのではないかと考えられるようになっています。それは、すべての生命がいわば親戚であるということ、全生命の一体性の発見ということになりそうです。

 さらに、1869年、ヘッケルによる提唱から始まったエコロジー(生態学)は、20世紀全体をとおした研究によって、地球上ではすべての非生命・環境とすべての生命が互いにバランスをとりながら一つのシステムをなしていることを、疑いの余地のないほど明らかにしています。

 もう1つ、驚くべきことは、プリゴジーヌの散逸構造の理論が、近代科学では外から力を加えないかぎり動かないのが物質であるかのように思われていたのに対し、物質自体がダイナミックに運動し新しい秩序を生み出す、つまり自己組織化する力を持っていることを明らかにしたということです。

 ここでいわれても「ピンと来ない」という方が多いと思いますし、それでいいのですが、いちおう申し上げておきたいのは、こうした「現代科学」の成果は、「もともと1つのエネルギーだった宇宙が、自己組織化能力によって実に複雑な秩序を生み出し、エネルギーから物質を、物質から生命を、そして生命から心を生み出してきた。しかし1つだった宇宙は依然として1つのままである」という、まったく新しいコスモロジーを形成しつつあるということです。

 そのコスモロジーを学ぶと、私たちはもうニヒリズムに陥る余地はない、自信喪失してはいられなくなるのです。

 前置きのところでは眠そうにしていた学生たちの眼が、やがて話が進むにつれて輝いてくるように、ネット学生のみなさんの眼もそうなるはずです。

 特に文科系のみなさん、少しだけ努力して話についてきてください。決して損はさせませんからね。

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自己は自己でないものによって自己である

2005年10月08日 | 心の教育
 
私たちは、空気や水や食べ物などなしに生きることはできません。

 生きていたいのなら、私たちには、例えば水を飲まない選択の自由・権利などありません。

 確かに人間には、死を覚悟して首をくくって空気を吸わない=窒息するという選択はできます。

 しかし、生きるためには呼吸をしないという選択肢はありえません。

 仙人ではないので、食べ物を食べないで雲や霞を吸っているというわけにもいきません。

 そういうことに関しては、自分勝手に選べるという意味での「自由」はないんですね。

 しかしそれは、決して縛られていることでも、権利を侵害されていることでもないと思うのですが、どう思われますか?

 私たちのいのちの営みそのものが、空気や水や食べ物とのつながりなしには不可能です。

 そのことは、「人間は自然の掟に拘束されている」と表現することもできますが、すなおな取り方をすれば、「私たちのいのちは自然とその法則に支えられている」ということになるのではないでしょうか。

 さらに考えていくと、食べ物とは食べ物になってくれる植物や動物のことです。

 植物や動物が生きるためには、大地・地球が必要です。

 地球に無数の生命が存在できるためには、ほとんどの生命のエネルギーの源になっている太陽が必要です。

 そうした無数のものと関わっていること……などに関しても、選択の自由はないだけではなく、そういう自由は必要ないのです。

 自分勝手にできないものが山ほど与えられているから、生きられる、つまり自分が自分でいられます。

 「自己は自己でないものによって自己である」というのは日本近代の代表的哲学者西田幾多郎の言葉ですが、ほんとうにそのとおりです。

 私は私でないもののおかげで私でいることができるのですね。

 そして、それらの自由に選択できない条件がベースにあるから、私たちはいろいろなことを選択できるわけです。

 空気、水、食べ物、食べ物になる植物や動物、それらを支え育む大地=地球、すべての生命のエネルギーを恵む太陽、そして太陽と地球とその他の惑星からなる太陽系、太陽系のような星のまとまりを無数に含む銀河、そして一千億からもしかすると一兆もの銀河を含むといわれる宇宙……。

 よく考えていくと、それらのすべてとのつながりの中で、今・ここで私が生きることができている、ということになるようです。
 
 だから、「私が生きている」と思っているだけでは部分的であり不十分で、「私は生かされている」ことをしっかりと自覚するのが、正確で現実的な自分の見方――少し難しくいえば「自己認識」――だということになるのではないでしょうか。

 本当の意味で現実的で正確な自己認識ができた時、ゆるぎなき「自己」信頼、つまり自信が確立していくでしょう。

 そういう意味で、自信には、ただ個人の心理的なレベルだけでなく、コスモロジー的なレベルがあるわけです。

 というよりも、個人的なレベルだけでは、決してゆるぎなき自信は得られない(のではないか)、と私は考えています。

 必要ではあったのですがやや長い前置きを終えて、次回からやっとお約束どおり、現代科学の成果――主にまず物質面からになりますが――のポイントを学びながら、宇宙の始まりからずっと私たちが無数のものとのつながりによって生かされているということを考えていくことにしましょう。

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I was born

2005年10月07日 | 心の教育

 私たちは、両親から生まれ、両親はそのまた両親から生まれ……ほんとうにたくさんのご先祖さまから、いのちを受け継いでいます。

 ところで、「生まれた」というのは「生んだ」のではありませんね。
 
 「生まれた」という言い方は、苦手だったかもしれない英文法を思い出していただくと、能動態ではなく「受動態」です。

 be 動詞+過去分詞のかたちになります。

 Ⅰ was born ですね。

 ところで、この受動態の文章を能動態に変えるには、どうしたらいいんでしたっけ?

 ふつうの受動態の文章では、能動態の主語になる言葉が by の後にあるはずで、それを主語にすればいいんでしたね。

 ところが、I was born.の場合、by の後の言葉が省略されています。

 ですから、それを補って(  )bore me というかたちにすればいいわけですね。

 ここでもし、(  )bore me の(  )をどう埋めますか? と聞かれたら、あなたはどう答えるでしょう。

 もちろん、まず両親、それからご先祖さま……ですが、さらに遡るとどうなるのでしょうか?

 さらに、私たちは、両親によって生まれただけではなく、いろいろないもののお陰で生きています。

 それを英語で表現すると、I am kept alive by(  ) となるでしょう。

 ここでも、受動態です。つまり、「生かされている」ということになるのではないでしょうか。

 この二つの(  )をどう埋めたらいいでしょう?

 私たちは、生かされている、つまりいろいろなもののお陰で生きています。

 「お陰」というとお説教ぽく聞こえて抵抗があるかもしれませんから、言葉を換えましょう。

 私たちにとって、「それがないと生きていけない」、「それなしには生きられない」ものには、どんなものがあるでしょう?

 これから詳しくお話ししていくことになりますが、ここでまずご自分で考えて、できるだけたくさん思いついて、書き出してみてください。

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いのちのつながりと重さ

2005年10月06日 | いのちの大切さ

 私たちそれぞれには、例えば40代遡ると延べ10兆人以上のご先祖さまがいますが、実数はもちろんそんなにいるわけではありません。

 それどころか、昔の日本の人口は、縄文時代2万人、弥生時代59万人、奈良500万人、平安650万人、鎌倉700万人、江戸末期3200万人くらいと推定されています(鬼頭宏『環境先進国・江戸』PHP新書)。

 その人数のご先祖さまから現在の1億2千万人あまりが生まれたのですから、日本人はほとんどどこかで重なった共通の先祖を持つ遠縁の親戚だと思っていいようです(複雑になるのでここでは帰化人の話などは省きますが)。

 それどころか、最近、もしかすると全人類が1人の共通の女性「ミトコンドリア・イヴ」から生まれたのかもしれない、という説もあるくらいですから、人類はみんな親戚だと思っていいのです。

 実際の教室では、学生諸君に、「あの人も、この人も、みんな親戚なんだよな、すごい遠縁かもしれないけど」と思いながら、まわりの人の顔をしみじみ見てください、という小さなワークを行ないます。

 ネット学生のみなさんも、よかったらまわりの人の顔を、「親戚なんだな」と思いながら見てみてください。

 ただし、知らない人をあまりジロジロ見ると、いろんな風に誤解されますから、そのあたりは注意して、適当にやってください。

 それはともかく、親だけでなくそうしたご先祖さまの1人1人も、善人だろうが悪人だろうが、美人だろうがそうでなかろうが、私たちは自由に選ぶことはできません。

 ここで、すぐに親孝行や先祖崇拝の話をするつもりはありません。

 しかし、こうした無数のいのちのつながりの中で私のいのちが生まれたことは「事実」だ、ということに気づいていただきたいのです。

 あまり好きでない親だとしても、親から生まれた、まったく知らない先祖だとしても、私たちは自分のいのちを先祖から引き継いでいるのです。

 現代では「関係ない」と思っている方が多いようですが、実はそれは「関心がない」だけで、事実としてはまぎれもなく、いやおうなしに「関係ある」のです。

 そういうことはみな過去のことで、今感覚的には実感がないとしても、よく考えれば――つまりしっかりと理性を働かせて推測すると――ほぼ疑いようがないことだという意味で、「事実」といってもいいのではないでしょうか。

 そのことが確かに事実だと思えた方は、ちょっとだけ次のステップに進んで、考えてみてください(思えない方は、この段階ではさらっと読みとばしてもかまいません)。

 人間は、生まれただけで後は自分で生きていけるでしょうか?

 いけませんね。赤ちゃんは、できることといったら泣くこととおっぱいを吸うことくらいです。

 しかもおっぱいも口のところまで持ってきてもらわなければ、自分で探して吸うことはできないのです。

 そのくらい無力な状態で生まれてくるというのは、動物としてはかなり特殊なことのようです。

 ウマの赤ちゃんなど、生まれて間もなく立ち上がってよちよち歩きをはじめますし、すぐに母ウマの後から走るようになります。

 おサルさんの赤ちゃんなど、生まれて間もなくもうお母さんの背中にしっかりとしがみついて、お母さんが木から木へとジャンプしても振り落とされないくらいの力があります。

 ところが、人間はまずは「おんぶにだっこ」で、さらに1人前になるのには10年以上20年くらいかかります(最近は、もっとかかる人が増えているようです)。

 さて、この養育期間、母親と父親は子どもために必死に働きます(もちろん残念ながら例外はありますが)。

 生み、そして必死になって育てることを、何と表現すればいいでしょう?

 努力、苦労……いろいろあるでしょうが、それらは結局、「愛情」ということに尽きるのではないでしょうか?

 もしあなたの両親から祖父母、曽祖父母……ご先祖さまのだれかが、最近かなりよく聞くような「結婚しても、子ども生んでも、お金がかかったり、自分のやりたいことをやれなくなって、何のメリットもないから、結婚もしないし子どもも生まない」というセリフをいって、いのちを次の世代につなぐことをサボったら、恐ろしいことですが、今日ここにあなたはいない……んですよね?

 私たちの無数のご先祖さまは――若干の例外はあるにしても――みんな、必死になって次の世代のために、努力、苦労し、愛情を注いでくれたのではないでしょうか。

 考えてみてください。例えば原始時代、例えば古代、いや、日本でいえば江戸時代や戦前でさえも、子どもを育てるというのは、けっして楽々できるようなことではなかったはずです。

 飢え死にさせないように、「食べさせる」だけでもきわめて大変な時代がずっとあったのです。

 そういう時代に生きた、そういう無数のご先祖さまの努力、苦労、愛情が、いのちを私にまでつなげてくれました。

 言い方を代えれば、私たち1人1人は、数え切れないほどのご先祖さまたちの「愛情の結晶」ともいえるのではないでしょうか。

 数え切れない数の人々の愛と努力の結晶を、だれが「意味がない」とか「価値がない」とか「生きていても死んでもおなじようなものだ」とかいえるでしょう?

 私たちのいのちは、そうした無数のご先祖さまたちの大変な努力の結晶、深い愛情のプレゼントなのですから、「重い」というほかないのではないでしょうか?

 「軽いほうがいい」、「軽く考えたほうが気が楽だ」と思っているみなさん、よかったら、ちょっとだけ考えてみてください。

 存在の価値がすごく軽い自分と、きわめて重い自分と、どちらが自信が持てますか?

 あなたは、自信を持ちたいと思っているんじゃないんですか?

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自分で自分を生んだ人はだれもいない

2005年10月05日 | メンタル・ヘルス

 現代科学から見えてくるコスモロジーについてお話しすると予告しました。

 でも、その前に出発点として、近代科学や現代科学がどういう仮説を述べているかということと関わりなく確実なことを確認しておきたいと思います。

 さて、私たちは今生きているわけですが、これはかつて生まれたからですね。

 そこで考えていただいたいのですが、みなさんの中に、自分で自分を生んだ方がおられるでしょうか?

 「え? 何をバカなことを聞くんだ?」といわないで、ごく単純に事実を確認していただきたいのです。

 自分で自分を生んだ人は、この世界には1人もいないんじゃないでしょうか?

 みんな「生まれた」のであって、「生んだ」んじゃないんですね。

 現代の日本人の多くがふだんほとんど意識していないようですが、私たちのいのちは自分で生んだり作ったりしたものではなく、生まれたもの・与えられたものです。

 これは、特定の思想や主義ではなく、私の主観でもなく、さらに科学で証明される必要もない単純明快な、だれでもいわれれば認めざるをえない「事実」だと思うのですが、いかがでしょう?

 思春期に親と口ゲンカして、「頼んで生んでもらった憶えはない」といったことのある方も少なくないでしょう。

 実際、私たちのいのちは頼んで生んでもらったものではありません。

 「命」という漢字がそのことをよく現わしているようです。

 確かにいのちには、頼んだのではなく、「命令」された・強制されたという面があるといっていいでしょう。

 けれども大切なことは、「頼んで生んでもらった憶えはない」というのは子どもだけではないということです。

 親もその親に頼んだのではないし、あらゆる人が例外なく頼んだわけではないのです。

 さらに大切なことは、いのちは頼んでいないというだけでなく、自分は何の努力も貢献も支払いもした憶えがないのに、無条件かつ無償で与えられたということです。

 つまり、いのちにはもう一つ、「無条件・無償で与えられた贈り物」という面があるといっていいでしょう。

 私たちがいのちの出発点、つまり生まれたという事実を、ただ当たり前と思うか、あるいは「頼んだものではない=強制されたもの」と取るか、または「贈り物」と受け止めるかによって、人生観が決定的に変わってくる、と私は考えています。

 「強制」と取れば、「生んだ以上、~のことはしてくれて当たり前だ」といったふうな権利意識を持ちがちになります。

 そして自分の要求が満たされないと、不平不満でいっぱいになるでしょう。

 しかし、自分のいのちを無条件・無償の贈り物と受け取ると、人生は基本的にいつも感謝すべきものと感じられてきます。

 人生の基本が不平不満であるのと感謝であるのとでは、どちらが気持ちいいでしょう? どちらが、人生の質(クォリティ・オヴ・ライフ)が高いでしょう?

 といってもここで、「だから、感謝しなさい」というお説教をしようとは思っていません。人生の基本的な「事実」を確認したいだけなのです。

 さて、自分で自分を生んだのではなく生まれたものだということは、出発点において人生は私の勝手でないことはもちろん、自由でもないということです。

 そういう意味で、「人生の原点は自由ではない」と私は考えていますが、みなさんはいかがでしょう?

 この「いのちの出発点・原点は自由ではない」という事実が、コスモロジーに関して決定的に重要だと思われます。

 さて、私たちは「生まれた」わけですが、誰から生まれたのでしょう。

 「つまらない、当たり前のことを聞くな」といわないで、1つ1つ一緒に確認してください。

 シンプルな事実の確認の積み重ねが、たぶん、やがてあなたのコスモロジーを根本的に、肯定的なものへと大転換させることになると思います。

 それは、実際の授業の進行についてきてくれた学生の90%が体験することです。

 元にもどりましょう。

 私たちは、いうまでもなく両親に生んでもらった……「もらった」というのが嫌なら、「両親から生まれた」と言い換えてもかまいません。

 どんなに嫌いな親であっても、どんなに恨んでいる親であっても、まちがいなく親から生まれたのです。

 感情的に受け容れられない方は無理をする必要はありません。

 ただ、単純に事実を確認していただくだけでかまいません。

 では、両親はだれから生まれたのでしょう。

 両親は、そのまた両親から生まれたんですよね?

 そして、そのそれぞれの両親は、そのまた両親から……と果てしなく続いていきます。

 このいのちの連続性の数を、電卓でも使って計算してみてください。

 これは2×2……つまり2の累乗で計算できます。

 そうですね、10代遡ると1千24人、20代遡ると104万8千576人の先祖がいるということになります。

 そして、当たり前といえば当たり前、不思議といえば不思議なことに、この中の誰一人欠けても、今日ここに私はいなかったんですね。

 さらに、これは20代で終わりではありません。さらに続いていくのです。

 30代遡ると10億7千374万1千824人……すなわち10億以上、40代遡ると10兆以上になるようです。

 そしてさらに……いのちのつながりは40代で終わるわけではありません。

 とすると、今日ここに私1人が存在することに不可欠だったご先祖さまは、いったい何人なのでしょうか?

 もう、「無数」とでもいうほかなさそうです。

 これは、気がついてみると、ほんとうに驚くべきことではありませんか。

(といっても、例えばいとこ同士で結婚した場合は祖父母は重なっているので、これはあくまでも延べ数で実数ではありませんが。)

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いのちのつながりと温もり

2005年10月03日 | メンタル・ヘルス

今日はちょっと+αのほうの話です。

 2泊3日で、やや離れたところに住んでいる娘夫婦の家に孫娘に会いに行きました。

 高速のバス停まで迎えにきたときは、久しぶりだったせいか、恥ずかしそうにしてすぐにはきませんでしたが、ほんのすこしで慣れてきて、抱っこされるようになりました。

 1歳3ヶ月とは思えないほどよく動き回る、可愛いいたずらっ子で、前回まではすぐに下りたがってじっと抱っこされていなかったのが、今回はすこし抱っこの味も覚えたらしく、かなりの間、おとなしく抱っこされていました。

 もう、時々「ジージ」といってくれます。「バーバ」のほうは、「パパ」とまぜこぜになるらしく、あまりはっきりいってくれないので、かみさんはちょっと残念そうです。

 私は、「歳を取ることは自然なこと」と考えているので、孫が生まれて、まわりからも「ジージ」と呼ばれるようになっても全然抵抗がありません。

 それどころか、孫娘に「ジージ」と呼ばれるのは、とてもうれしいものです。

 孫娘はもう、不思議なくらい私たちがジージとバーバであることがわかっていて、今回は、坐っていると近寄ってきて、くるりと後ろ向きになって当たり前のような顔をして膝に座わるようになりました。

 まだ自分でいえる言葉はすこしですが、こちらのいうことはとてもよくわかり、「○○(愛称)、こっちへおいで」と呼ぶと、遠くから走ってきて飛びついたりします。

 こういうふうにして育っていく感覚がエリクソンのいう「基本的信頼感(basic trust)」ということなんだな、と改めて思いました。

 抱き上げると、しばらくは抱っこしているのですが、すぐに走り回りたくなるのでまた下ろし、また来ると抱き上げ……の繰り返しで、すっかり腰に来ます。

 土曜日、出がけに、ブログの記事を書いてから出発しようとしたら、一刻も早く孫の顔を見たいかみさんから「向こうに行ってから、パソコンを借りて書けばいいじゃない」と急かされ、「それでもいいな」と午前中から出かけました。

 向こうについてから夜までずっと、エネルギッシュな孫娘についてまわってへとへとになっていましたが、彼女が寝付いてから、それでも頑張って娘のパソコンを借りて記事を書きました。

 しかし、日曜日も1日しっかり付き合ったら、夜になると、「今夜はいいか」という気分になって、お休みしてしまったというわけです。

 3日目、月曜日、朝起きると、意外に元気で、かみさんと二人、目が覚めて機嫌よく起きてきた孫娘とお昼前までずっと遊んでいました。

 帰りの高速バスの中でかみさんと、「毎日一緒にいたら、けっこう体が慣れてきて、平気になるかもしれないね。そのほうが、嫌でも運動するし、いつも危なくないように気を張っているから、ボケないかもしれないし、いいかもしれないね」と話したことでした。

 娘の彼が転勤族なので、3世代同居が実現することはなさそうですが……。

 物書きや大学教師のはしくれであることなどほとんど忘れてしまって、ただのジージになって、私たちから娘へ、そして孫娘へと、確かにつながっているいのちの温もりをゆっくり楽しませてもらえた3日間でした。

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心の中の口癖を直す 2

2005年10月01日 | メンタル・ヘルス
 ネガティヴなセルフ・トークをポジティヴなものに取り替えるワークの続きです。

 「私には、いいところなんて1つもない」と「私は、何もできない」というセルフ・トークの消去-変換はもう簡単ですね。

 すでに能力や長所を6つ以上書き出すワークをしていますから(まだの方は過去の記事を見て、ぜひやってください)、事実としてご自分には6つ以上の能力や長所があることは確認済みのはずです。

 ところが、何かのきっかけで落ち込むと、ふとこういう心の中の口癖が出てきたりします。

 そういう時には、自分に向かって「私にはいいところなんて1つもない……という気分になってるんだよね。気持ちはよくわかるけど、でも、それは事実じゃない。事実としては、私には、好奇心、直感力、判断力、決断力、行動力、理解力、持続力、真面目さ、向上心などなど、いいところがある。できることもいろいろある……私って、悪くないじゃない……どころか、けっこういいじゃない……私は、ステキだ!」と、言い換えをしていきましょう。

 もし、こう言い換えていく途中で抵抗感がある場合、軽いものなら、少し努力をして次のところまで進んでください。

 強い抵抗感があったら、無理をする必要はありません。

 落ち込んでいる自分を自分で受け容れてあげて、「そうか、今は心のエネルギーがないんだよね。じゃあ、しばらく休もう」といってあげるといいかもしれません。

 他の、「まるでバカ」、「何をやってもできるわけない」、「何もいわないでいたほうがいい」、「全然カッコ悪い」、「だれにも愛されてない」といったセルフ・トークもポイントは同じです。

 こうしたネガティヴなセルフ・トークによくある特徴は、「まるで」、「何をやっても」、「何も」、「全然」、「だれにも」というふうに、非常に「誇大視」されていることです。

 ですから、ちょっと心を静めて、「本当に『まるで』なんだろうか?」、「本当に『何をやっても』なんだろうか?」……と、事実を確認していくと、「バカな部分が多い」(しかも、というような気がしている)、「うまくできないことが多い」(ような気がしている)ということにすぎないことに気づくはずです。

 そこに気づきさえすれば、あとは同じ要領で、セルフ・トークを取り替えていけばいいわけです。

 「私はまるでバカ……じゃない」→「バカじゃないところもある」→「ちょっとは賢いところもある」→「賢いところがある」→「私は、すでにある賢いところを伸ばして、バカなところをなくしていくことができる! きっと、そうして見せるぞ!」というふうに。

 「だれにも愛されてない」、「死んだほうがいい」、「~さえあれば、あとはどうでもいい」、「○○が悪い」なども、基本的ポイントは同じなのですが、少し取り替えがむずかしいかもしれません。

 これらについては、この後の授業で、さらに徹底的な取替え作業に取り組んでいくことになります。ご期待ください。

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