ばらばらからつながりへのパラダイム転換

2012年08月26日 | コスモロジー

 昨日、サングラハ教育・心理学研究所の藤沢ミーティング・ルームの片づけをしていて、手伝ってくださっている方たちと紹介中の大学生たちの感想文の話になり、「今までのは全部今学期の感想文なんですよね?」という質問がありました。

 もちろんそのとおりで、このたくさんの感想すべて今学期だけのものです。

 そしてこれだけでなく、数えてはいないのですが、おそらく200通以上、みなさんに紹介したような感想文がまだ残っています。

 その他、しっかり長く書かれたA評価の内容のまとめの後に、「感想を書くスペースがありませんが、ともかく大感動でした」「目からウロコでした」などの短い言葉が書いてあるものは、さらに数百通です。

 毎年のことなのですが、その度に私自身、こんなにもたくさんの若者たちにこんなにも豊かな感受性と理解力があることにうれしさと驚きを感じています。



 H大学社会学部1年女子

 現代科学において「私たちは宇宙の一部なのである」という考えが最初、さっぱりわかりませんでした。

 私は今、物理学の授業を取っています。

 宇宙は一三七億年前にビッグバンで誕生し、星が生まれ、銀河が生まれ、銀河団となり…と宇宙の誕生も学びました。

 しかしそのときは星も地球の太陽も全部ばらばらなもので、一つの宇宙から誕生した祖先が同じものだなんて考えもしませんでした。

 しかし、この本を読みよく考えてみると、ビッグバンによる宇宙の誕生から今日まで何か1つでも違うふうに出来事が起こっていたら私たちは存在しないんだな、ととても納得しました。

 とすると、確かに私たちは宇宙の一部であるということに気づかされました。

 この壮大な宇宙に存在しているものすべてが同じ祖先を持っていて、そのすべてが宇宙の一部なのである、ということは素晴らしい事実であり、その事実に気づけたことに興奮を覚えました。

 「私」という人間は、この地球上に存在しているただの生物なのではなく、宇宙の一部として存在している。

 そもそもビッグバンがなければ私は存在していないし、私が存在していなければ、もちろん私の子孫も存在しません。

 以前の私であれば、私が子孫を残さずに死んだとしても何の影響もないだろうと思っていました。

 しかし、私が今存在している理由のように、私が子孫を残すことによって将来に大きな影響もたらすことになるかもしれません。

 なので、私は宇宙の一部であり壮大な宇宙の歴史の中に存在しているということしっかりと自覚し、その中で授かったこの命を自分勝手に好きなようにしていくのではなく、大切にしなくてはいけないと思いました。

 また、この本を読んで私が気づいたように、「人間も宇宙の一部である」という素晴らしい事実を後世にも伝え気づかせることが私たちの、これからの人類の課題であると思いました。



 賢明な(別の言葉でいえば理屈にうるさい)、読者は既にお気づきの通り、コスモス・セラピーで語られる「現代科学のコスモロジー」には「筆者の理解する現代科学のコスモロジー」という面があって、必ずしも現代の科学を専門としているという意味での科学者の全員ないし圧倒的多数が合意している世界観とは言い切れない面もあります。

 ですから、大学の教養課程で「物理学」「宇宙論」などを学んでも、担当教員が全員「宇宙と私たちは一体である」などと言われるわけではありません。

 むしろ、そういうことを言わない科学の専門家が多いのかもしれません。

 なぜそういうことが起こるか、私の推測では、今科学は非常に細かい専門分野に分かれてしまっていて、特定専門分野での科学者であるということは必ずしも20世紀初頭から21世紀初頭にかけての科学の全体像を一貫した論理で理解しているということになっていないからではないかと思われます。

 つまりヘッケル以降100年余りのエコロジーの積み重ね、アインシュタインの相対性理論やガモフのビッグバン仮設が世界観としてもつ意味、ワトソンとクリックの遺伝子の二重らせん構造発見以降の遺伝子研究の積み重ねが持つ生命観としての意味、プリゴジーヌの散逸構造理論が物質論および宇宙論として持つ意味などを一貫した体系的なコスモロジーとして理解している「科学の専門家」ばかりではないということです。

 ですから、この学生が受けている「物理学」の先生も、もちろん現代の宇宙論の専門知識は十分にお持ちであり、それを学生に伝えているのでしょうが、アインシュタインの相対性理論が正しいとすれば「宇宙のすべては1つの宇宙エネルギーである」ことになるというポイントとか、ビッグバン仮説が正しいとすれば「宇宙は最初たった1つのエネルギーの塊だった」つまり「すべては一体だった」というポイントなどはまったく伝えていないか、あるいはほとんど強調点を置かないでごく軽く伝えたかのどちらかでしょう。

 ここが微妙なポイントなのですが、現代科学が宇宙について明らかにした個々ばらばらの知識を主客分離的に――つまり自分には直接関係ないこととして――伝えることは、現代科学が全体として描き出した宇宙像・コスモロジーを伝えることにはならないのです。

 かつてある高校で講演をしたあとで、物理の先生から「今日の話には何も新しいことはなかった。そういうことは全部知っているし、全部生徒に伝えている」という感想をいただいたことがありました。

 私はかなり感情的な反応だと判断したので、不毛な摩擦を避けるために「それは、大事なお時間を無駄な話で費していただいて申し訳ありませんでした。私としては、御校からこういう話でというご依頼をいただいたのでお話をしたまでなのですが」とかわしておきました。

 ポイントは個々の知識よりも、それら全体が「つながっている・1つである」という宇宙観=コスモロジーにあり、その先生がもともとそういう話を生徒にしておられたとは思えませんでしたし、もししておられたとしたら、「私も日頃そういう話をしてるんですよ。同じ考えの方がいて嬉しいですね」とでもいった反応してくださったのではないかと思うのですが。

 現代科学の分野別の個々別々ばらばらの知識をよく知っていても、基本的な認識のパラダイム(枠組み)は近代科学の主客分離-分析主義のままであるという専門家の方にはしばしばお会いします。

 それで、私がその方の専門知識に関してつながりコスモロジー的な解釈をお伝えし、正しいかどうかと伺うと、「なるほど! そういうことになりますね」というきわめて謙虚かつ理性的(つまり科学的)で妥当な反応してくださる方もあれば、ムッとした顔をして内心は「素人のくせに生意気な」と思っておられるのではないかなという反応をされる方もあります。

 現状の日本社会全体のパラダイムが近代的なばらばらコスモロジーである以上、つながりコスモロジーを伝えようとした場合のさまざまな抵抗はこれからもたびたびあるだろうと覚悟をしています

 その点、アイデンティティがまだ固まっていない若い世代の方が新しいパラダイムを受け入れやすいのは当然といえば当然です。

 上の女子学生の場合、「この本を読みよく考えてみると、ビッグバンによる宇宙の誕生から今日まで何か1つでも違うふうに出来事が起こっていたら私たちは存在しないんだな、ととても納得し」、「事実に気づけたことに興奮を覚え」、「命を自分勝手に好きなようにしていくのではなく、大切にしなくてはいけないと思いました」と、いわば「ばらばらコスモロシーからつながりコスモロジーへのパラダイム転換」を報告してくれています。

 コスモロジーのパラダイム転換は、当然のことながら人生観の転換や行動の変化をもたらします。

 下の男子学生は、そのことをきわめて典型的に表現してくれています。



 H大学経済学部4年男子

 「宇宙とつながった宇宙の一部である私」ということさえわかれば、ニヒリズムは錯覚であるということが理解できます。

 “宇宙が宇宙を見ている” とはなんてパワフルな言葉なんでしょう。

 すべては一つだし、すべてが自分と関係していることなんですね。

 そして、人を敵として見るのは、宇宙が宇宙を傷つけることになり、宇宙にそって生きていないことなので、それはつまり悪。

 そして宇宙が宇宙を助ける、宇宙にそって生きるのが善なのですね。

 先生から大切なことを学びました。

 ただ、先生から教わったことは知識です。

 知識を具体的な形で行動して上手に使ってことが大事だと思います。

 そうでなければ、どんなにすばらしい知識も雑学で終わってしまうからです。

 ではどうやって生きていけば良いのでしょうか?

 この質問に対する答えは「今、できることをやる」ということでした。

 例えば、大学にゴミが落ちていたら拾う。

 バスの座席を積極的にお年寄りの方に替わる。

 これらの行為は「宇宙の一部である“私”が同じ宇宙の一部である“あなた”を助ける」ということになる。

 そして、それが喜びになります。

 もう私はニヒリズムという幻想にはだまされません。

 そして仮にもし、そうなってしまっても、もう一度先生の本を読んで思い出したいと思います。

 ありがとうございました。



 「『宇宙とつながった宇宙の一部である私』ということさえわかれば、ニヒリズムは錯覚であるということが理解できます」とは、なんとシャープな理解の言葉でしょう。

 そして、「もう私はニヒリズムという幻想にはだまされません」の一言には、もう拍手!という感じです。

 つながりコスモロジーという視点から見れば当然、「ニヒリズムは錯覚・幻想である」ということになり、それはニヒリズムをベースにしていたエゴイズム・快楽主義的な行動のパターンをも変化させます。

 それはどう見ても「肯定的変化」だと私は思うのですが、読者はどう評価されるでしょうか。




コスモロジーの心理学 コスモス・セラピーの思想と実践
クリエーター情報なし
青土社








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