唯識は、私たち人間はふつうの人(凡夫)はみんな、心の表面から奥底まで、多かれ少なかれ煩悩で汚れていると指摘していました。
いわれてみると、私の場合すべて当たっていて、自己弁護の余地がありません。
しかし幸い、唯識はさらに、私たちが煩悩だらけであることは、煩悩を蓄えているアーラヤ識を持っていることであり、アーラヤ識は善悪中性のいわば種子を蓄える蔵のようなもので、そこに善と覚りの種子を蓄え直すことができるということでもある、と人間の根本的な変容の可能性を語っています。
倉庫と在庫品の譬えを思い出してください。
不良在庫ばかりの倉庫があるとして、悪いのは在庫であって倉庫ではありません。
倉庫はそのままで、不良在庫を優良在庫に入れ替えることができます。
在庫が違えば、同じ倉庫でありながら果たす機能はまったく違ってきます。
まったく同じ倉庫が、不良在庫を出庫するか、優良在庫を出庫するかは、在庫しだいです。
さて、では、倉庫の在庫総入れ替えができて、すべて優良在庫になったとしましょう。
アーラヤ識に、善と覚りの種子ばかり溜まったらどうなるかということですね。
アーラヤ識は、いわばコスモスからの大量注文にまったく何の手落ちもなく完璧に対応して、すばらしい在庫を出せるいわば宝庫に変わります。
そういうふうに機能がまったく変わった状態を「大円鏡智(だいえんきょうち)」といいます。
大きな宇宙の真理をありのままに映し出す澄み切った鏡、というふうな意味です。
宇宙の真理の種子によって徹底的に浄化されると、マナ識はすべてのものの一体性・平等性に心の奥深く気づいているという「平等性智(びょうどうしょうち)」へと大転換を遂げます。
徹底的に浄化された大円鏡智と平等性智によって意識も徹底的に浄化されて変容し、世界が一体でありつながりあっていながらそれぞれの区別できる姿はある・それぞれの区別できる姿はあるけれどもどこまでもつながっていて結局は一つであることにいつも目覚めているすばらしい観察の智慧、「妙観察智(みょうかんざっち)」に転換します。
浄化された無意識と意識によって機能する五感は、その時々にもっともふさわしいものを見、聞き、嗅ぎ、味わい、体感する智慧、作されるべき所のことを成し遂げる智慧、「成所作智(じょうしょさち)」に転換します。
八識が大転換して4つの智慧、「四智(しち)」になるのです。
そのことを「八識が転じて智慧が得られる」という意味で「転識得智(てんじきとくち)」といいます。
人間は確かに煩悩まみれであるが、しかしやりようによっては覚ることができる、というのが唯識―仏教のメッセージです。
自分自身の現状を見ると、とてもそんなことは不可能に思えるかもしれません(私もそういう気がしました)。
しかし、もちろん突然ではないけれども、手順を踏んで段階を追っていけば、次第次第に覚り・四智の世界に近づけるのが人間の本性である、というのです。
納得するかどうか、手順を踏む気になるかどうかはみなさんのまったくの選択の自由ですが、聞いてみるだけの価値はあるのではないかと思います。
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だから、そうした覚りの境地は、生の営みを否定しているように映り、無機的、無味乾燥な感じがして、あまり魅力的に映らなかった。
また、何より現実感に乏しかった。
ですが、先生の著作を読んだり、教えを学んだりするうちに、究極の覚りとは、煩悩を滅した無思考の状態と捉えるよりも、煩悩(マナ識)を覚りの智慧(四智)に転化していくと捉えた方が、的確なのではないかと考えるようになりました。
となると、覚りとは決して無思考の状態を堅持することではなく、一体でありつつ区別されているという実相の洞察に基づいて、融通無碍に認識し、行動することができる境地と言った方が、しっくりします。
上座部仏教はともかく、少なくとも唯識の目指した覚りはそこにあるような気がします。それはすなわち、大乗仏教の目指す覚り。
大悲大智の菩薩の顕現。
はてしなく美しい人間像。
私の覚り観が大きく変わって、覚りに近づいていく方向性が明らかになりつつあるような気がします。覚りに対する憧れも湧いてきました。
今日は午後から寺院の研修で、藤沢の講義に出席できないのが残念です。
長々と失礼致しました。
今回は、ご一緒に学べなくて残念でした。
うらやましがらせるわけではありませんけど、うらやましがらせるんですけど、とても有意義で楽しかったですよ。
ぜひ、次回はご一緒に。
それにしても、究極の覚りの境地とやらには憧れますね。