「縁起の理法」を覚ったブッダは、その体験に基づいて教えを展開しました。
その教えのもっとも中心的なものとして、「ブッダは四諦(したい)八正道(はっしょうどう)を説かれた」といわれます。
まず「四諦」「四聖諦(ししょうたい)」ですが、「四つの真理」「四つの聖なる真理」という意味です。
第一は「苦しみという真理(苦諦・くたい)」、第二は「苦しみの原因という真理(苦集諦・くじゅうたい、または集諦・じったい・じゅうたい)」、第三は「苦しみの止滅という真理(苦滅諦・くめつったい、または滅諦・めったい)」、第四は「苦しみの止滅に到る道という真理(苦滅道諦・くめつどうたい、または道諦・どうたい)」、まとめて「苦・集・滅・道(くじゅうめつどう、くじゅめつどう)」といいます。
ブッダは、無明・分別知に基づいて営まれる人生は基本的に苦であり、それには無明・分別知という原因があり、原因がある以上、その原因をなくせばそれはなくすことができるのであり、かつそのための道・方法はあるのだ、ということを説かれた、ということです。
一般的に、ブッダは、生まれることは苦しみであり、老いることは苦しみであり、病むことは苦しみであり、死ぬことは苦しみである、と人生は基本的に「苦」だと教えたことになっています。まとめて「四苦(しく)」といいます。
さらに、人生には、愛する人と別れる苦しみ(愛別離苦)があり、憎い人に会う苦しみ(怨憎会苦)があり、求めるものが得られない苦しみ(求不得苦)があり、存在の五要素そのものの盛んな働きが執着の元になるという苦しみ(五蘊盛苦)があり、前の四苦と足して「八苦(はっく)」といわれます。
しかし私の理解では、これはあくまでも「無明に基づいて営まれているかぎり」という条件がついた話だと思われます。
もし、ブッダの教えが「この世はひたすら苦である」といっているのならば、仏教はひじょうに暗くて悲観的で、いまどきはやらない思想だということになりますが、「苦諦」はあくまでも出発点なのです。
人生の苦しみをなくすために、まずしっかりと現状では苦しみがあるという事実を認める。
それから、その原因を見つける。
無明という原因がわかれば、それを取り除く可能性が出てくる。
そして、その方法を学んで実行する。
その結果、無明が明・覚りに変われば苦しみはなくなる。
……と、最後まできちんと話を聞けば、仏教はむしろ根源的な希望のある話なのです。
私はいつも学生たちに、「ちゃんとわかると、仏教はすごく明るい宗教・思想なんだよ」といっています。
最初は、「ふーん」という顔をして聞いていた学生たちは、やがて「そうなんですね。仏教ってすごく明るいものなんですね。それがわかったら、とても好きになりました」といった感想文を書いてくれるようになります。
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個人的に最近の親(ごく一部でしょうが)に疑問をもってる部分がございます。
どのような子供への接し方、教育法が適切なのでしょうか?
勿論物騒な世の中の昨今ですので反対意見でもかまいません。
コメントいただけたら幸いです。
普段は現代社会の問題点中心にBlogを書いております。
宜しくお願い致します。
ちゃんと見るということですね、嫌なものからは早く逃げたいのが誰でも思うことです。
ところが、逃げれたと思ったらまた別のことが産まれてくる、いつもそうだ。
こうなったら、逃げずに反対に飛びこんでやろうと最近はしています。
仏教の話しは、こんなとき力づよいみかたになってくれる。明るい仏教ばんざーいです。
ウスイツカサ
つまり「人生は苦」というのは、「人生は思い通りにならないものだ」ということです。
「人生は苦しいものだ」ではなく。
おっしゃるとおり、「苦」には「思い通りにはならないこと」という意味もあると思いますし、他の拙著などでは書いています。
ここでももう少しくわしく書いておいたほうが読者に親切だったかもしれませんね。
しかし、「四苦八苦」の内容を見ると、明らかに「苦しみ」という意味もあります。
さらには、行苦、壊苦、苦苦という分類もあります。つまり、すべてが過ぎ去っていく苦しみ、すべてが壊れていく苦しみ、そして苦痛そのものという意味です。