『日本国民に告ぐ』について:暫定的コメント 2

2010年08月30日 | 歴史教育

 あまり長い引用はかえって紹介になりませんが、幸い小室氏自身が、本書『日本国民に告ぐ』を書いた理由について、「自虐教育がアノミーを激化させる」という見出しで以下のようにまとめています。


 このアノミーが、歴史始まって以来、比較も前例も絶して、いかに恐ろしいものか。縷述(るじゅつ)してきたが、その「恐ろしさ」は繰り返しすぎることはない。ここに、本書の論旨をまとめて開陳しておきたい。

 本書が上梓される所以は、「謝罪外交が教育にまで侵入した」からである。日本の謝罪外交が本格的にスタートを切ったのは、昭和五十一年の「“侵略→進出”書き換え誤報事件」以後である。それから後は、日本は外国に内政干渉されっぱなし。中国、韓国などの外国が日本人の「歴史観が悪い」と言ってくると、何がなんでも「ご無理、ごもっとも」とストレートに謝罪してしまう。このパターンが定着した。

 これを見て反日的日本人がつけあがった。「あることないこと」ではない。ないことをあることとして捏造して反日史観をぶちあげる。挙げ句の果てには、日本政府が平目よりもヒラヒラと謝って、反日史観が拡大再生産される。この謝罪外交は、日本の主権と独立を否定する。その謝罪外交が、ついに教科書に侵入した。

 日本の教科書は、共産党の「三二年テーゼ」と、日本は罪の国とした「東京裁判史観」によって書き貫かれている。占領軍とマルキシズムによる日本人のマインド・コントロールは、ここに完成を見たのであった。

 史上、前例を見ない急性アノミーが、これまた前例を見ない規模と深さにおいて昂進することは確実である。戦後日本における急性アノミーは、天皇の人間宣言と、大日本帝国陸海軍の栄光の否定から端を発した。これほどの絶望的急性アノミーは、どこかで収束されなければならない。

 収束の媒体となったのが、一つにはマルキシズムであり、もう一つは、企業、官僚(組織)などの企業集団だった。はじめの外傷があまりにも巨大だったため、急性アノミーは猖獗(しょうけつ)をきわめた。

 これを利用したのが占領軍である。占領軍は、日本の対米報復戦を封じ、日本を思うままに操縦するために、空前の急性アノミーをフルに利用すべく戦術を立てたのであった。アメリカ占領軍は、社会科学を少しは知っていた。日本人は、昔も今も、まったくの社会科学音痴いや無知である。これでは、勝負にも何にもなりっこない。猖獗する急性アノミーで茫然自失、巨大な精神的外傷(トラウマウ)で精神分裂症を起こしかけていた日本人に、マインド・コントロールがかけられた。

 「巧妙な」と評する人が、あるいは、いるかもしれないが、実は「巧妙」でもなんでもない。「公式どおり」のマインド・コントロールであった。だが、公式どおりのマインド・コントロールでも、急性アノミーの渦中にいる科学無知の日本人にはズバリ効いた。受験勉強しか知らない偏差値秀才にカルト教団のマインド・コントロールが利くように――。ただし、占領軍によるマインド・コントロールは、「日本の歴史は汚辱の歴史である」と教育したために、日本の急性アノミーを、さらに昂進させた。

 終戦後、当初の急性アノミーを吸収するはずだったマルキシズムは、昂進しすぎた急性アノミーによって解体されることになった。マルキシズムは、日本共産党を見棄てて新左翼に突入することによって、無目的殺人、無差別殺人にまで至る――これらはその後、特殊日本的カルト教団に引き継がれる――。前代未聞のことである。

 新左翼が下火になってきた頃から、「家庭内暴力」さらにすすんで「いじめ」が跳梁(ちょうりょう)をきわめるようになる。いずれも根は同じ。ますます昂進していく急性アノミーである。急性アノミーの激化を助長したものは何か。一つには、友人をすべて敵とする受験戦争である。しかし、決定的なものは何か。致命的なものは何か。
 「日本の歴史は汚辱の歴史である」「日本人は罪人である」「日本人は殺人者」であるとの自虐教育である。古今東西を通じて前例を見ない徹底した自虐教育である。

 占領下で自虐教育を受けた人びとが、成長して今や要路にいる。これらの人びとが、内においては、無目的・無差別殺人を敢行し、外においては平謝り外交を盲目的に続けている。「親子殺し合いの家庭内暴力」「自殺に至る“いじめ”」を生んだのもこれらの人々である。

 平成九年度から行われる究極的自虐教育。急性アノミーはどこまで進むであろうか。どのような日本人を生み出すであろうか。
 (『日本国民に告ぐ』三三〇~三三三頁)


 上記のようにまとめられた論旨が、本書全体を通してどのように展開していくか、細かいところまで紹介することはできませんが、以下のような章立てを見ていただくと、ある程度推測できるでしょう。

 第1章 誇りなき国家は滅亡する――謝罪外交、自虐教科書は日本国の致命傷
 第2章 「従軍慰安婦」問題の核心は挙証責任――なぜ、日本のマスコミは本質を無視するのか
 第3章 はたして、日本は近代国家なのか――明治維新に内包された宿痾が今も胎動する
 第4章 なぜ、天皇は「神」となったのか――近代国家の成立には、絶対神との契約が不可欠
 第5章 日本国民に告ぐ――今も支配するマッカーサーの「日本人洗脳計画」
 第6章 日本人の正統性、復活のために――自立にもとづく歴史の再検証が不可欠なとき
 附 録 東京裁判とは何であったか


 さて、私は、敗戦以後、日本人は急性アノミーの状態を脱出できていない、どころか急性アノミーは拡大再生産され、いまや極限的危機にある、という論点については、基本的に同感です。

 しかし、もっとも議論の多い「従軍慰安婦」や「南京大虐殺」については、自分でしっかり検証していないので、判断留保状態にあります。

 また、日本が欧米の植民地になることを免れる上で、国民が一丸になるためのイデオロギーあるいはコスモロジーとして「国家神道」ないし「天皇教」が必要だったことも歴史的事実として認めます(他に代案はなかなか考えようがなかったでしょう)。

 けれども、本書での小室氏の所説には急性アノミーに対する処方箋が示されていないところに、大きな不満を感じます。

 他に、『日本人のための宗教原論――あなたを宗教はどう助けてくれるのか』(徳間書店、200年)や大越俊夫氏との対談・共著『人をつくる教育 国をつくる教育――いまこそ、吉田松陰に学べ!』(日新報道、2002年)なども読んでみましたが、決定的な代案はないようです。

 それどころか、「私が以前、防衛庁で講演した際、手が挙がり、「小室先生、日本の沈没をどこかで止められませんか」とか、「日本はどうやったら治りますか。方法は?」とか相談を受けました時、少し間をおいてから、「方法はない!」とひとこと言うと、ワーッと会場が沸きました」といった発言を、冗談かもしれませんが、しています(冗談だとしたら悪い冗談です)。

 それらしい発言は、『日本人のための宗教原論』で、次のように述べているところです。


 世相はますます混乱の様相を呈している。宗教事件ばかりか、幼児殺人、少女監禁……、目を蓋わんばかりの悲惨な事件が引きも切らない現代日本。アノミーが解消されるどころか、ますます進行の一途をたどっている。日本が壊れるどころか、日本人が壊れてきているのだ。/新世紀、事態はさらに悪化するであろう。/ことここに至れば、日本を救うのも宗教、日本を滅ぼすのも宗教である。あなたを救うのも宗教、あなたを殺すのも宗教である。(三九六頁)


 小室氏がどこかではっきり言っているどうか知りませんが(『三島由紀夫が復活する』とか『「天皇」の原理』などで、どう言っているのか、やがて確かめようとは思っていますし、ご存知の読者にはコメントして教えていただけると幸いですが)、こうした発言と「カリスマの保持者は絶対にカリスマを手放してはならない」という言葉を合わせて考えると、どうも「もう一度天皇教を」と考えているのかもしれません。

 そうだとすると、私は反対です。

 私は、日本の歴史を肯定できるかどうかの決定的ポイントは、好き嫌いをまったく別にして、否応なしに、日本の最初の憲法=国のかたちである――これは聖徳太子が歴史的に実在したかどうか、偽作であるかどうかに関わらない事実です――聖徳太子「十七条憲法」が、普遍的な根拠をもって肯定できるものであるかどうかにかかっていると考えています(拙著『聖徳太子「十七条憲法」を読む――日本の理想』大法輪閣、2003年、本ブログ「平和と調和の国へ:聖徳太子・十七条憲法」、を参照)。

 そして、日本人が国民的アイデンティティを取り戻すには、「十七条憲法」とその根底にある大乗仏教の菩薩思想をベースにした「神仏儒習合」のコスモロジーの意味を、現代科学のコスモロジーと照らし合わせながら再発見することが、もっとも適切であり、不可欠でもある、と考えています(本ブログはそのための準備作業という面があります)。

 ここで改めて言っておかなければならないのは、私の解釈では、これまで誤解・曲解されてきたのとは異なり、「十七条憲法」は「天皇教」のバイブルではありません。

 そうではなく、菩薩的リーダーの指導による「平和と調和の国日本」という国家理想の宣言なのです。

 そして、日本の歴史全体を「和の国日本という国家理想の実現に向かっての紆余曲折・苦闘の歴史」として読み直すことこそ、いわゆる「自虐史観」を根本から超えることになるだろう、と予測しています(その作業は水戸藩の「大日本史」編纂のような大変な作業で、私が個人で出来るとは思いませんが)。

 小室氏の著作は、これからもう少し読んでみようと思っていますが、以上が私の現段階での暫定的コメントです。

 読者からの「荒らし」ではない、建設的なコメントをいただけると幸いです。



日本国民に告ぐ―誇りなき国家は、滅亡する
小室 直樹
ワック

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聖徳太子『十七条憲法』を読む―日本の理想
岡野 守也
大法輪閣

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『日本国民に告ぐ』について:暫定的コメント 1

2010年08月30日 | 歴史教育

 先日の『国家神道』に続いて、小室直樹『日本国民に告ぐ――誇りなき国家は、滅亡する』(ワック社、2005年、クレスト社、1996年の改訂版)のポイントを紹介し、コメントしておきたいと思います。

 今日も、話は長くなります。

 小室氏は、まず最初の方で、日本国民に向かって、次のような警告をしています(一行空きは筆者)。


 日本滅亡の兆しは、今や確然たるものがある。人類は一九九九年に滅亡するとノストラダムスが言ったとか。中国は香港返還後半年で滅亡する、と長谷川慶太郎氏は言った(『中国危機と日本』光文社)。しかし、より確実に予言できることは近い将来における日本滅亡である。

 滅亡の確実な予兆とは、まず第一に、財政破綻を目前にして拱手傍観(きょうしゅぼうかん)して惰眠を貪っている政治家、役人、マスコミ、そして有権者。
財政危機は先進国共有の宿痾(しゅくあ 持病)である。欧米では、人々は財政危機と対決し、七転八倒している。政治家も有権者も、早く何とかしなければならないというところまでは完全に一致し、そこから先をどうするかを模索して必死になって争っているのである。
それに対し、はるかに重要で病すでに膏肓に入っている日本では、人々は案外平気。財政破綻とはどこの国のことか、なんて顔をしている始末。

 日本絶望のさらに確実な第二の予兆は、教育破綻である。
 その一つは、数学・物理教育の衰退枯死。このことがいかに致命的か。
日本経済は技術革新なしに生き残ることはできない。しかし長期的には、日本の技術立国の基礎は確実に、崩壊しつつある。工学をはじめ「理科系」へ進学する(あるいは進学を希望する)学生が急激に減少している。まことに由々しきことである。
 技術立国のためだけではない。数学・物理は、社会科学を含めたすべての科学あるいは学問の基礎であるとまで断言しても、中(あた)らずといえども遠からず。このことをトコトン腑に落とし込んでおくべきである。

 だが、さらにより確実な滅亡の予兆は、自国への誇りを失わせる歴史教育、これである。
誇りを失った国家・民族は必ず滅亡する――これ世界史の鉄則である。この鉄則を知るや知らずや。戦後日本の教育は、日本の歴史を汚辱の歴史であるとし、これに対する誇りを鏖殺(おうさつ)することに狂奔してきた。
(小室直樹『日本国民に次ぐ――誇りなき国家は、滅亡する』ワック社、二〇―二二頁)


 ここでまずコメントしておくと、小室氏があげている三つの予兆は、筆者もまさにそのとおりだと考えています。これらはみなまさに大問題・死活問題です。

 しかし、不思議なことに小室氏は日本の多くの学者、政治家、財界人と同様、環境問題という根本的な「滅亡の予兆」についてはまったくと言っていいほど注目していません。

 環境問題への適切な対処をしなければ滅亡するのは人類であって、日本国民だけではありませんが、もちろん人類には日本国民も含まれているのですから、「日本国民に告ぐ」べき滅亡の予兆には環境問題もぜひ含まれる必要がある、と筆者は考えます。

 しかし、もう一度言うと、3つの予兆については、確かにそのとおりだと思いますし、それがどうして生まれてきたのかという社会学的分析については、きわめて鋭く適切で、教えられたことが多くありました。

 小室氏がソ連崩壊の10年も前に崩壊を予測していたことは、知る人ぞ知るです(『ソビエト帝国の崩壊』光文社、1980年、私も本が出た当時、すぐに買ってざっと読んだ覚えがありますし、さかのぼって1976年に出た『危機の構造――日本社会崩壊のモデル』(現在中公文庫)も買って読むには読みましたが、その時点では正直なところ小室氏の警告の本質的な意味を理解することができたとはいえませんでした)。

 その小室氏が、基本的に同じ理論から日本の崩壊を予測しているのですから、賛成するしないは別として耳を傾けるに値するのではないでしょうか。

 小室氏が拠って立つ基本的理論は「アノミー論」と呼ぶことができるでしょう。

 その概要は、小室氏自身が「カリスマの保持者は、カリスマを手放してはならない」という小見出しのところで、以下のように要約しています。


 アノミー (anomie) とは何か。「無規範」と訳されることもあるが、それよりも広く“無連帯”のことである。…

 アノミー概念を発見したのは「社会学の始祖」E・デュルケム(フランス人、一八五八~一九一七年)である。デュルケムがアノミー現象を発見したのは、自殺の研究を通じてであった。彼は、生活水準が急激に向上(激落の場合だけではない)した場合にも自殺率が増加することを発見した。
 なぜか。生活水準が急上昇すれば、それまでつき合っていた人たちとの連帯が断たれる。他方、上流社会の仲間入りを果たすのも容易ではない。成り上りものと烙印を押され、容易には付き合ってくれない。かくして、どこにも所属できず、無連帯(アノミー)となる。連帯(ソリダリテ、solidarite)を失ったことで狂的となり、ついには自殺する。
 これがアノミー論の概略。このように生活環境の激変から発生するアノミーを「単純(シンプル)アノミーと呼ぶ。その心的効果は「自分の居場所を見出せない」ことにある。どうしてよいか途方に暮れる。そして正常な人間が狂者以上に狂的となる。

 アノミーには、この単純アノミーのほかに、「急性(アキュート)アノミー」と呼ばれる概念がある。これは、信じきっていた人に裏切られたり、信奉していた教義が否定されたときに発生するアノミーである。
 急性アノミーが発生すれば、人間は冷静な判断ができなくなる。茫然自失。正常な人間が狂者よりもはるかに狂的となる。社会のルールが失われ、無規範となり、合理的意思決定ができなくなる。

 精神分析学者のフロイトは、急性アノミー現象を、軍隊の上下関係の中に発見した。どんな激戦・苦戦に陥っても、指揮官が泰然としていれば、部下の兵隊はよく眠り、よく戦う。厳正な軍規が保持され、精強な部隊であり続ける。しかし、指揮官が慌てふためいたらどうなるか。急性アノミー現象が発生し、部隊は迷走。あっという間に崩壊する。

 ヒトラーはこれをローマ教会に似た。ローマ・カトリックは、なぜ一五〇〇年以上も世界最大の宗派たりえるのか。それは、ローマ教会が絶対教義の過ちを認めないからである。これが世界最大の教団でありえた理由であるとヒトラーは説明する。

 かくて、急性アノミー理論は、別名「ヒトラー・フロイトの定理」ともいう。この定理を換言すれば、こうなる。カリスマの保持者は絶対にカリスマを手放してはならない。傷つけてもならない。もしカリスマが傷つけば、集団に絶大な影響が及ぶ。もしカリスマを失えば、集団は崩壊する。筆者が、フルシチョフによるスターリン批判を踏まえ、昭和55年(1980年)、『ソビエト帝国の崩壊』(光文社)を著したのも、実はこの急性アノミー理論によるのである。


 国民同士の間に規範と連帯がなければ国家が滅亡するのは、自明の理、時間の問題と言ってまちがいないでしょう。

 上記のような理論を基にして、小室氏は「なぜ戦後日本は無連帯(アノミー)社会となったのか」について、以下のような鋭く適切な分析をしています。


 終戦により発生した熾烈な急性アノミー、これを利用したGHQによる巧妙なマインド・コントロールによって、戦後の日本の「急性アノミー」は、さらに深く広いものとなっていった。

 根本的な原因は、GHQの「日本人洗脳計画」に基づき、「太平洋戦争史観」すなわち「東京裁判史観」を植え付けられたからである。「自存自衛」の「大東亜戦争」が、「侵略戦争」と断罪されたからである。間違った戦争だとされたからである。日本軍が「南京大虐殺」をやったと脳髄にたたき込まれたからである。しかも、繰り返し繰り返し。新聞、雑誌、ラジオ、映画、そして学校教育によって。
 日本の歴史は間違いだった、日本軍は大虐殺をやった、日本人は悪い人間である、と教えられた。これは恐ろしい。日本人には大虐殺という概念がなかった。欧米や中国ではあったが日本にはなかった。
 ところが、日本軍が大虐殺をしていたということになった。日本は大虐殺をする侵略国家とされた。多くの善良な日本人が、後ろめたい心理状態になったのは当然だ。GHQの「日本人洗脳計画」によって骨の髄から「贖罪意識」を植え付けられたからである。

 戦後、日本人はGHQによって、日本人としての誇りを奪われた。しかし、戦前の日本はそうではなかった。学校でも家庭でも日本人であることに誇りを持てと、繰り返し教育した。誇りは規範や倫理の根本である。特に、軍人が「お前らは日本人の鑑になれ、手本になれ」と教えられた。一般の日本人も、「兵隊さんだったら悪いことはしない」と当然のように思っていた。だから、民家に兵隊が泊まる場合でも、誰もが安心し、喜んで宿を提供した。実際に、悪いことはしなかった。……
 (『日本国民に告ぐ』二九三~二九六頁)


 戦前の日本を支えていた根本は何か。トップにおいては天皇共同体。天皇イデオロギーによる共同体である。天皇と日本人は、共同体を作っていると考えられた。GHQはこれを破壊しようとした。天皇イデオロギーの破壊は、天皇の人間宣言に始まり、そこで終わった。……
 カリスマの保持者は、カリスマを手放してはならない。カリスマが失われ、それまでの正当性(レジテマシー)が変更されたとき、その集団は崩壊し、崩壊した集団は急性アノミーになる。
 ――実は朕は人間であった――
 かくて天皇イデオロギーによる共同体は、天皇の「人間宣言」によって崩壊した。

 これはあたかも、アラーがイスラム教徒に「わしは実は悪魔であった。コーランはみんなさかさまに読め」と言ったような話ではないか。そうなったらイスラム教はどうなる。
 世界の国家(民族、宗教)には、それぞれ、その国がよって立つ正統性がある。アメリカなら建国の精神、中国(漢民族)や中華思想、イスラエルならユダヤ教、といった具合だ。かつてのソ連ならマルキシズム。正統性はその国家の背骨だから、失われたり、大きく変更されたりしてはならない。そんなことすると国家はアイデンティティーを喪失してアノミーを起こす。

 ソ連崩壊の原因がフルシチョフによるスターリン批判だったことは、すでに述べた。だから世界中の国は、その国の正統性を教育によって子供に叩き込む。戦前、日本の正統性は天皇イデオロギーであった。それが天皇の人間宣言によって崩壊したのである。
 (『日本国民に告ぐ』二九九~三〇三頁)


 小室氏はさらに、日本国民が深刻なアノミー――無規範、無連帯――状態に陥ったもう一つの原因とその結果について次のように述べています。


 一方、天皇イデオロギーによる共同体とともに、戦前の日本を支えていたもう一つの共同体が、村落共同体。天皇イデオロギー共同体を頂点とするが、底辺にあったのが村落共同体であった。……占領政策によって、頂点における天皇システムは大打撃を受けた。底辺における村落共同体も、高度成長の始まりとともに昭和三十年頃から急速に解体した。かくて、日本を支えていた共同体が頂上と底辺の両方から破壊された。そして、まさに無連帯、大アノミー。

 では、破壊された共同体はどこに吸収されていったのか。……ほとんどが大企業、その他、お役所。いずれも、本来は機能集団(ファンクショナル・グループ)。それが急速に共同体化した。
 つまり、企業という機能集団が共同体となってしまったのである。戦前、戦中までは、基礎的な人間関係は天皇との関係であり、村落における人間関係だった。しかし、そうした人間関係が全部崩れて、企業が共同体になってしまった。日本社会を作っていた共同体が、機能集団である企業の中にもぐり込んでしまった。

 これがいかに恐ろしいことか。本来、企業集団にはその集団の存在理由、目的がある。民間企業であるが収益を上げることであり、官庁であれば国益を追求することだ。ところが、機能集団が一度、共同体と化せばどうなるか。

 すでに述べたように、共同体の社会学的特徴は二重規範である。共同体の「ウチの規範」と「ソトの規範」とは、まったく異なる。「してよいこと」と「してはならのこと」とが、共同体のウチとソトでは、異なるのである。つまり、ウチでもソトでも共通に通用する普遍的な規範が存在しないことが、共同体の特徴なのである。
 したがって、企業集団が共同体と化せば、そこには普遍的な規範は存在しない。共同体のソトでは悪いことでも、共同体のウチではよいことになってしまう場合が出現する。たとえば、薬害エイズ事件での厚生省の対応。厚生省の本来の存在理由である国民の健康守るという国益は蔑(ないがし)ろにされ、身内の失策をかばうという内部規範が優先されたではないか。
 (『日本国民に告ぐ』三〇三~三〇五頁)


 続いて小室氏は、受験戦争が急性アノミーを拡大生産したことを指摘していますが、これもまたまったく同感するところです。


 戦後日本に発生した「急性アノミー」を拡大再生産したのが、いわゆる受験戦争である。受験勉強は、なぜいけないのか。子供たちが泣くのが可哀相というだけではない。最大の問題は、友だち、同世代の人間が全部敵になることだ。子ども同士の連帯がズタズタになる。若者にとって最も大切なのは、同じ年齢の人びととの連帯感。それが破壊されてしまった。……

 そもそも、教育とは何か。ルソーは「教育の目的は機械を作ることではなく、人間を作ることだ」(『エミール』)と述べた。つまり、自分の頭で物事を考えるような人間に育てるということである。そして、実生活で直面するさまざまな問題を解決する能力を与えることである。そのために必要な知識を教え、知力や体力を育てることだ。それは、人間は教育されたことを土台としてしか、問題を解決できないからである。

 ところが、戦後日本の教育はどうだ。人間を作ることではなく、条件反射するネズミを作ることを目的としているではないか。……入学試験で出題される問題には、あらかじめ「正解」が用意されている。答えるべき「正解」は一つである。マークシートの上で、唯一の正解を塗り潰すことに成功したものだけが、優秀と言われエリートとして選抜される。正解に達することができなかった者は、人生の落伍者となる。……

 実生活で直面する問題に「正解」があるとは限らない。むしろほとんどの場合、「正解」が用意されていないと言ってよい。仮にあったとしても、「正解」が一つであるという保証はない。正解が一つであったとしても、求める方法がないために、近似値にしか近づけない場合もある。まさに「一寸先は闇」なのだ。その闇に果敢に立ち向かっていくための土台を築くことが本来の教育の目的なのである。

 ところが、受験勉強というプロセスの中で、問題には必ず一つの正解があるという刷込みを受ければどうなるか。正解が用意されていない問題に直面したとき、右往左往するばかりで、どう対処してよいか分からなくなるではないか。

 日本人がすぐに思考停止するのはこのためである。決して自分の頭で考えようとしない。右往左往しながら、誰かが正解を教えてくれるのを待ち望み、教えられたことだけを従順に信じこむのである。

 だから、日本人はアメリカが偉いとなったらアメリカだけ。南京大虐殺があったと教えられれば、鵜呑みにする。何が正しくて、何が正しくないかを判断する能力がなくなった。誰かが、これが絶対に正しいと言えば、盲目的についていく。その意味で象徴的だったのがオウム事件である。
 一流大学を卒業した四十代の医師が、「教祖」から地下鉄にサリンを撒けと言われたら、「ハイ」と撒く。事件の全容が次第に明らかになるにつれ、世間は「なぜ、あんな真面目で優秀な人が」と驚いた。精神に狂いが生じたわけではない、アノミーなのである。

 オーム事件は、まさに現代日本の縮図であった。なんでもアメリカ様の言うとおり。アメリカ様の言うことはすべて正しい。アメリカ様に逆らえば、地獄に落ちる……。「アメリカ」を「教祖」に置き換えれば、まったく同じ構造ではないか。
 (『日本国民に告ぐ』三一〇~三一五頁)


 自虐史観・暗黒史観を教育され、受験競争で育った子どもたちが、社会のエリートになった時、何が起こるか、それはまちがいなく日本という国家の滅亡だ、と小室氏は警告します。


 本来なら友だちとなるべき人びとを敵と見做し、アノミーを起こしながら、ひたすら暗黒史観を頭に書き込んだ連中が、拡大再生産されている。その中で暗黒史観を最もしっかり記憶した者がエリートとなって、この国の中枢に入っていく。日本よ、汝の日は数えられたり。(『日本国民に告ぐ』三三〇頁)



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