八識4:マナ識に潜む根本煩悩②

2006年02月19日 | 心の教育

 「無明」とか「我癡」とか「根本煩悩」といった言葉を聞くと、何か難解で抽象的で私たちの日常生活の現実とは関係のない話のような感じを受けるかもしれません。

 しかし、よく考えていくと、私たちの日常に起こる大小さまざまなトラブルから犯罪、そして戦争や環境破壊に到るまで、ほとんどすべてがエゴイズムに関わっています。

 日常的ないろいろなトラブルは、結局のところエゴとエゴとの衝突です。

 犯罪は、いうまでもなく「社会の法律がどうだろうと、オレはオレの好き勝手にやりたい」という犯罪者のエゴイズムから生まれます。

 例えば、今ニュースになっている、我が子がダメにされると思い込んで人の子を殺したという事件も、母親の病的なまでになったあまりにも悲しく愚かなエゴイズムから起こったことでしょう(ほんとうに悲しいことです)。

 戦争は、「自分たちの利益や名誉や理念こそ絶対に重要だ」という集団エゴから生まれます。

 環境破壊は、人間のエゴイズムが人間以外の自然を破壊しているということです。

 それらの言葉は、そういう現実に起こっていることの原因になっている、「諸悪の根源」ともいうべきエゴイズムの根っこを明らかにしているという意味で、実は人間社会で毎日起こっている現実をはっきりと理解するためのカギ、「キー・コンセプト」だといってもいいでしょう。

 「我癡」そしてそれに続く「我見(がけん)」、「我慢(がまん)」、「我愛(があい)」というコンセプトの意味がわかってくると、現実――の特に醜い面の訳――がわかってきます。

 唯識は、ふつうの人間つまり「凡夫」がただ無知であるというだけでなく、さらに厄介なことに、実体(我)がある、特に実体としての自我があるという強固な見解・思い込みを持っていることを洞察しました。それを「我見(がけん)」といいます。

 真理を知らないだけではなく、まちがったことを信じ込んでいるのです。

 これでは、現実生活が、自分に関しても社会全体に関してもうまくいかないのは、ある意味では当たり前でしょう。

 人間の現実は、人間をも含みながら人間を超えている大きなコスモスの現実に反した勝手な思い込みで営まれているのですから。

 「何のお陰もこうむらない、私そのものというものが、いつまでもいる」ような思い込みが、どんなにおかしなものか、この授業では繰り返しお話ししてきました。

 しかし、そういう話を聞く以前はもちろんですが、聞いた後でも、なかなか心の底からつながりと一体性を感じるというふうにはなれませんよね?(私の場合はそうです。)

 けれども、四諦の場合、苦諦や集諦で話が終わりでないのと同じく、ここで話は終わりではありません。

 心の深い病の原因の説明はもうしばらく続きますが、やがて、「でも、ちゃんと手順を踏んで治療すれば治りますよ」という話になっていきます。


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コメント (1)
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