私たちは、事実としてつながりの世界に生きています。
ですから、誰ともつながり・かかわりのない一人ぽっちの人は、気分としてはたくさんいても、事実としては一人もいない、のでした。
無数の私ではない、しかし私の依りどころとなってくれているもの(者・物)が存在しています。
それどころか、私でないものと私はさまざまな意味でつながっていて、結局は一体です。
すべては究極のレベルでいうと一体であるというのが真実の世界のすがたです。
そのことを、唯識では「真実性」といいます。一つの世界、一つの世界を見る見方ですね。
私の存在の前に、すべてがつながって一体であるコスモスがあったのです。*
そして、瞑想的直観と現代科学*は、すべてのものがそれぞれのかたちを持って現われるよりも前に、まず一体のコスモスがあった、といっています。
どうも、それがほんとうのこと、真実の世界であるようです。
唯識に先立つ中観の思想では、そういう真実の世界を「空」と表現しました。
先にお話ししたように、そこには深い意味が含まれているのですが、「空」という言葉の印象のせいで、聞く人に誤解を与えがちでした。*
そこで唯識学派の人々は、空の世界を「真実性」、玄奘の訳では「円成実性(えんじょうじっしょう)」と表現しなおしたわけです。
一切の分離のない一体の世界を見ること、一つを見る見方とは、ゴータマ・ブッダ以来の言葉を使えば「覚り」ということです。
すでにつながり‐かさなりコスモロジー*と空の思想*について学んできたみなさんには、「コスモスは一つ」、「コスモスと私は一つ」ということについて、これ以上くわしく説明する必要はないでしょう。
それにしても、始めて気づいた時から今に到るまで、これはほんとうに不思議なことだなあ、と私は繰り返し感じます。
「空・一」は、分別知-言葉では思うことも議論することもできないのですから、不思議に思うのが当たり前かもしれませんね。
レイチェル・カースンさんの言葉を借用すると、「センス・オヴ・ワンダー」です。
コスモスのおかげでいまここに私が存在することができている、コスモスとこの地球とすべての生き物と人類と私が一体、というのは、とても不思議で、とてもすばらしいことですね。
What a wonderful world !
……と、ここまで学んでいただけたら、仏教が楽しく生きるための理論と方法であることを納得していただけるようになってきたのではないでしょうか。
ゴータマ・ブッダの言葉をもう一度引用させてください。
「悩める人々のあいだにあって、悩み無く、大いに楽しく生きよう。悩める人々のあいだにあって、悩み無く暮らそう。」*
*写真は去年の鎌倉の梅の花です。もうすぐまた咲きますね。
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