なぜ仏教について語るのか

2006年02月26日 | 生きる意味

 「いのちはつながってこそいのち」と、いろいろな機会に思います。

 特に今可愛い盛りの孫娘に会うと、「ほんとうにまぎれもなくこの子と私のいのちはつながっているんだな」と感じます。

 少し離れたところに住んでいるので、たまにしか会えないのがとても残念です。

 忙しい日程を何とか調整して、2ヵ月ぶりくらいに会うことができました。

 最初は少しはずかしそうでしたが、すぐになれて、すっかり自分のじーじとばーばだとわかって甘えてくれています。

 おそらく40億年くらい前の熱い原始の海の中で一匹のバクテリア的ないのちが創発して以来、一度も途切れることなく私のところまでいのちが続いており、娘にそしてこの孫娘につながっており、私たち人類が愚かでなければ、そのいのちのつながりはさらにずっとずっと続いていきます。

 これは、思うたびに驚きと感動を新たにせざるをえないことです。

 供養仏教は、そういういのちのつながりを――神話的であり、また直系に限定されがちだったという限界はあったにせよ――自覚させるという、日本人の精神性にとって決定的に重要な役割を果たしていたのです。

 霊性仏教は、いのちでないものをも含むすべてのつながりの直観から生まれ、哲学的仏教はそのことを言葉で説明したものです。

 そして、現代科学はまさに科学的に40億年にわたるいのちのつながり、137億年にわたる宇宙における万物のつながりを明らかにしてくれました。

 現代の日本人――若者だけでなくお年寄りまであらゆる世代、そして都市部だけでなく地方の隅々まで――が「いのちの意味」を再認識し、新たな合意を得ていく上で、それらのすべてが統合的に捉えられる必要がある、というのが、筆者が繰り返し主張-提案してきたことです。

 「伝えたい! いのちの意味」というタイトルのブログで、なぜ仏教という特定宗教にこだわっていると思われかねない記事を書き続けているのか、その理由をまた少し書いておきたいと思いました。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする