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般若経典のエッセンスを語る14

2020年10月11日 | 仏教・宗教

 「南無一切三宝」の「三宝」は仏教におけるもっとも大切な三つのことという意味で、仏教の縁起-空ということを伝えるための人々の集まりを「サンガ」、音訳で「僧伽(そうぎゃ)」、略して「僧」という。それから、その人たちが伝えている真理の教え「法」という。それは結局真理としての「仏」を示す、あるいは「そもそもあなたが仏なのだ」ということを知らしめる。この仏・法・僧を「三宝」という。

 三宝という場合、「諸仏」という言葉があるように仏さまもたくさんいて、さまざまな経典があり、もちろん僧団はたくさんあるので、「一切三宝」とされているのだろう。

 「南無」とは、「ナーム」というサンスクリットの音訳で、「帰依する」という意味である。

 つまり、「一切の三宝・仏法僧に帰依する」「仏法僧を私の生き方の根拠、存在の拠り所にする」ということである。

 私たちは「南無=帰依する」というと「依りすがる」という意味に理解しがちであるし、依りすがってもいいのだが、ほんとうは「私の存在の根底であることを認める」というのが南無・ナームということの本質だ、と筆者は理解している。「仏法僧が私の存在の根拠だということを、私は認める」というのが「南無一切三宝」ということなのである。

 「無量広大」とあるように、般若の智慧そして三宝は、量り切れないほど広く大きい、宇宙大に大きいという。

 「発(ほつ)」は「覚りたいという気持ちを起こす」こと、発心(ほっしん)の「発」で、「阿耨多羅三藐三菩提」は、「この上なく等しいもののない正しい覚り」ということである。般若の智慧、空ということが書いてある経典を唱えながら、「私はこの上なく等しいもののない正しい覚りを得たいという気持ち・求道心を起こします」というのである。

 だから、この唱文を唱えるときには、ほんとうは求道心で覚りたいと思うのがふさわしいのであって、「ご利益を得たい」というだけでは不十分なのである。

 しかし繰り返すと、そういう信心でこの精神的遺産が千数百年保たれてきたのだから、それはとてもいいことだったともいえる。そして現代においては、その意味をちゃんと理解して役立てながら、これからも大切に保っていくことができるといいだろう。それができれば、日本にあるどんな世界遺産よりも、般若経典ー『大般若経』が日本の精神的世界遺産になるのではないだろうか。

 しかし、その全体はあまりにも長くて、学ぶことが難しいので、本書ではごくエッセンスに絞ることにするが、エッセンスのところはまちがいなくお伝えできると思っている。

 とはいえ、文献・テキストの読み取り方は、読む人があらかじめ持っている考え方の流れ――それを文脈・コンテクストという――によってまるでといっていいくらい変わるものである。

 般若経典もまたテキストである。こう読もうと思ったらこう読めてしまう。読もうと思う文脈しだいでそうも読めてしまうのがテキストというものの本質であり、したがって、唯一絶対に正しい解釈というものがあるとは考えないほうがいいようだ。

 もちろん比較的妥当な解釈とそうでないものという違いも厳然とあると思われるが、しかしその妥当性も、それぞれ読者がご自分のコンテクストで判断していただくしかない。以下は「私の文脈による解釈では」ということであることを、最初にお断りしておきたい。

 


般若経典のエッセンスを語る13

2020年10月09日 | 仏教・宗教

 次に、「無所得故畢竟空」、つまり「実体として把握できないので、これは究極的には空というべきだ」という。

 すなわち空とはまさに実体ではない・非実体という意味である。

 実体なら掴むことができる。しかし実体ではないから掴むことができない。掴むことができないということは、逆に言えばそれは実体ではない・空ということである。

 そして、「畢竟空故是名般若波羅蜜」、すなわち「究極は空なので、そのことをあえて言葉で表現すれば『分別を超えた智慧』となる」という。

 すべてを分離した実体として存在すると捉える知恵を「分別知(ふんべつち)」、サンスクリットでは「ヴィカルパ」または「ヴィジュニャーナ」といい、それに対して、分別知を超えた智慧を「プラジュニャー」、パーリ語では「パンニャー」という。漢訳ではたいていサンスクリット語の音が写される(音訳)のだが、なぜかこの場合は「パンニャー」というパーリ語の音から「般若」と音訳されたらしい。

 いずれにせよ、般若とは「分別・分離的な認識を超えた智慧」という意味である。空を覚るのは分別を超えた智慧である、般若波羅蜜によって覚られるのだ、と。

 以上のように、この唱文には非常に深い般若経典の要点が述べられているのだが、残念なことにふつう般若会などで解説はされていないようだ。

 


般若経典のエッセンスを語る12

2020年10月08日 | 仏教・宗教

 「無去来故無所得」とは、実体としての私が他のものと分離して存在し、他のものに対する場合は、得るとか得ないということがありえるが、すべてが一体だとすると、そもそも得るとか得ないという話にはならないということである。

 譬えると、海が海の水を得たとか得ないという話はないようなものである。世界の海はすべてつながっていて一つであり、海の水はあちらからこちらへと海流として流れる。しかしそれは、海そのものが行ったり来たりすることではないし、例えば日本海が太平洋から水を得たとか、太平洋がインド洋から水を得たという話ではない。

 そういう意味で、一体のもののなかでは得るということは成り立たない・「無所得」なのである。

 ここで、解説からやや発展して、内容の本質に関わることを少し述べたい。

 現在の日本も含む世界は、欧米型であれ中国型であれ、「所得」があることが大前提で営まれている経済社会である。

 しかし、それは仏教の眼から見ると、「無所得」ということを見ていない無明そのもののシステムであり、したがってうまくいくわけがない、と筆者には見える。

 所得や利益ということを大前提に得した・損したと競争をやっているような世界のあり方は、決してうまく行くことはないどころか、さまざまな問題をたくさん引き起こしており、人類はこのあたりで「無去来故無所得」・所得などということはそもそもないことに目覚めて、そこから新しい経済システムを再構築しないと、遠くない先に人類は致命的に行き詰まるのではないかと思う。

 逆に言えば、しっかりと目覚めると、そこからほんとうに持続可能な世界が構想される、と筆者は考えている。

 そして、まさにそのことを教えている般若経典が日本に伝わっていることは、日本の精神的遺産であり、これから日本がほんとうの意味での再生を遂げるのは、この般若経典の「無所得」という世界に戻り再発見することによってこそ可能になるだろう。

 「人間はぜんぶつながっていて、そして宇宙というレベルで見ると一体なのだ。だから、誰が損したとか誰が得したなどということは、ほんとうにはないのだ」と、まず日本国民の多数が思い、そのような形でみんなが幸せになる日本経済を、日本の特に政治と経済のリーダーたちが実行したら、それは当然誰もが幸せになるし、とてもうまくいくだろう。

 さらには、それが人類社会に広がっていくならば、持続可能な世界秩序が実現できるだろう。

 そうシミュレーションはできる。もちろん実行はきわめて困難であるに違いなく、実行できるかどうかは日本人そして人類総体がそうした智慧を得ることができるかどうかの問題だろう。

 しかしともかく、智慧の源泉はこうして遺産として残されている。そういう意味では、日本はすばらしい国だと思う。

 仏教は、インドでは基本的には残っていない。それから中国に伝わったわけだが、今中国には若干残っているが、日本のような形では残っていないようだ。

 ある意味で日本より仏教がしっかりと生きているのは台湾である。

 それから東南アジアには上座部仏教が非常によく生きていて、とても意味があると思うが、これは大乗ではない。

 かつてはチベットに大乗仏教がしっかりと残っていたが、今は独立した国としては存在しない。

 そういう意味で、この大乗仏教の経典である般若経典がしっかり残っている国・文化というのは、世界の中でもきわめて少ないのである。

 だが、日本で実際に行なわれているのは、主に呪術的・神話的な儀式などである。

 もちろんそれによって残ったのだから、それはとてもいいことである。残ったものを今再発見・再理解すると、日本の精神文化が再生する。精神文化が再生すれば文化全体が再生する。大筋を言うと、そういうことがあると思っている。

 日本の精神的な遺産の中核ということでは、筆者はこれまで唯識を強調してきたが、加えて般若経典が残っているということは、日本人にとって大変幸せなことだと思うようになり、多くの日本人にその思いを共有してもらいたいというのが、繰り返すと、元になった講義と本書の動機である。

 


般若経典のエッセンスを語る11

2020年10月07日 | 仏教・宗教

 この『転読大般若中唱文』には、「非実体=空」の定義の③「永遠には存在しない・無常」ということに関する言葉は出てこない。それも含めて説明したほうが「空」とは何かが理解しやすいのだが、話の流れで解説は後にしよう。

 次には、「無自性故無去来」とある。つまり本性があるならばそれが変化するとか変化しないということになるが、「そもそも本性がないので、去るとか来るなどということもない」と述べられている。

 この「無去来」は『般若心経』でいえば「不生不滅」と同じことである。

 これは、「水と波の譬え」を使うと理解しやすいだろう。波に着目すると、起こったり消えたりする、つまり来たり去ったりするが、水に着目すると、水そのものは去りも来もせず、ずっと水のままである。現象としての個々の波は現われたり消えたりするけれども、その元になる水そのものは変化することなく一体の水のままである。

 これも、後で詳しく述べるように、空とは多くの誤解された印象と違って、実は「何もない」という意味ではなく、「つながっていないようなものは、何もない」、すべてが縁起、つまり「つながって起こっている」という意味であり、すべてがつながっているということはさらに言うと「すべては一体である」ということでもあり、そのことを「如」あるいは「一如」という。

 すなわち、「空・何もない」とは、「一体でないようなものは、何もない」という意味も含んでいて、「空」と「一如」は同じ事柄を別の言葉で言い表わした、いわば同義語だといってもいい、と筆者は解釈している。

 後で、それを裏付ける般若経典の言葉も引用するつもりである。

 


般若経典のエッセンスを語る10

2020年10月06日 | 仏教・宗教

 しかし、儀式で唱えられている文章にこうした意味があることは、これまで檀信徒にはほとんど説明されてこなかったのではないだろうか。

 奈良時代や平安、鎌倉から江戸時代までなら、それでもよかったのかもしれない。あるいは戦前もそれでよかったかもしれない。

 けれども、戦後の教育を受けた檀信徒には、「『大般若経』のエッセンスの経文を唱えますが、それにはこういうとても深い意味があるのです」と伝えたほうがいいのではないだろうか。

 そしてわかった上で唱え、さらに唱えながら瞑想状態になったらいったん意味は忘れていいのだが、しかし唱えた後でまた「ああ、こういう意味なのだ」「ああいう深い意味なのだ」というふうに、理解することと瞑想状態に入ること、そしてまた理解することを繰り返すと深まるだろう。

 そこで、筆者は大般若会を行なっているお寺さんとご縁があった時には、「ぜひ、唱える文章の意味を檀信徒のみなさんに解説してください。そして一緒に唱えてください。そうすると単なる習慣的儀式以上の深い意味があると思います」というお勧めをしている。

 さて、次の「因縁生故無自性」という句は、②に関わっていて、すべてのものは縁起の理法で成り立っているので、それ独自の変わることのない「本体(ほんたい)・本性(ほんせい)」というものを持っていない、という意味である。

 ちなみに、状況によってあるなしまで変わるような性質は「属性」という。

 身近な例をあげれば、夏の冷房の温度について、暑がりの人は「暑過ぎる。もっと冷房を効かせほしい」と思い、しかし寒がりの人は「効き過ぎだ。もっと温度を上げてほしい」と思うかもしれない。

 では、室温は高いのか? 低いのか? それには固定的な本性・自性はない。感じる人の体質との関係で、今の室温は高いことにも低いことにもなるのである。

 もう一つ人を例に挙げると、ある人の姿形、話すことや声、やることなど、いろいろなことが性に合う人は、「いい人」と思うだろう。しかし、性に合わない人は「嫌なヤツ」と思うかもしれない。

 では、その人はいい人なのか? 嫌な人間なのか? どちらかの変わることのない自性・本性があるかというと、それはないのであって、ある人にとってはいい人、ある人にとって嫌な人ということにすぎない。

 そのように、私たちはすべてのものに何かそれ自体の本性があると思いがちだが、よく考えてみるとすべては関係で成り立っているから、関係が変われば性格も変わる。

 つまり、関係によって変化するような「属性」はあっても、変わることのない「本性」すなわち「自性」はない。つまり「無自性」である。それがすべての存在の本質であるという。

 


般若経典のエッセンスを語る9

2020年10月05日 | 仏教・宗教

 ということは、「空=非実体」とは何かがわかれば、般若経典のエッセンスのエッセンスがわかるということである。

 詳しくは徐々に述べていくが、まず要点だけ言っておくと、「空」とは字の印象で誤解されがちなのと違って「空しい」「空っぽ」という意味ではない。また単純に「何もない」と言っているのでもない。

 微妙な違いだが、ただ「何もない」のではなく、「実体と呼べるようなものは、何もない」ということである。

 「実体」には、東西の思想に共通の以下三つ定義がある。①それ自体で存在できる、②それ自体の変わることのない本性・本体がある、③永遠に存在する、である。

 その反対の①それ自体では存在できない、②変わることのない本性はない、③永遠には存在しない、という三つの性質があれば、それを「非実体」という。

 そして、般若経典は、すべてのものには右のような三つの性質があり、したがって「非実体=空」であると説いている。

 「諸法皆是因縁生」という句は、①の性質を表現しており、「すべての存在は、縁起の理法・関係性によって生じる」ということである。

 「法」という言葉には何種類もの意味があるが、ここでは存在という意味で、「諸法」は「すべての存在」である。

 「因縁」とは、直接的原因が「因」、間接的な原因が「縁」で、一言にまとめると「因縁」となり、「縁起」と同じことを意味している。

 つまり、ゴータマ・ブッダの教えから般若経典に至るまで一貫して語られてきた「一切の存在は関わりの中で存在している・生じている」という縁起の理法が、最初の句でしっかりと押さえてある。

 そしてそれを否定的な言い方に換えると「一切の存在は関わりなしには存在しない」つまり「それ自体では存在できない」ということになる。

 大乗仏教の三大論師(仏教の理論家)といわれるナーガールジュナ・龍樹に「縁起だから空である」という言葉があるとおりである。

 「一切の存在」というのだから、当然、私も含まれていて、ふだん忘れがちだが、私は私だけで生まれてきたわけでも、生きていられるわけでもない。私は、私でない両親から生まれ、私でない様々なもの(者と物)のおかげで生きている。

 これは仏教で説かれるかどうかに関わりない事実であり、その事実を「縁起」「縁起の理法」という言葉で表現しているのだ、と筆者は解釈している。

 


般若経典のエッセンスを語る8

2020年10月04日 | 仏教・宗教

 

 『大般若経』転読の式文

 

 以下、エッセンスについて述べる導入として、大般若会の儀式で唱えられる『転読大般若中唱文(てんどくだいはんにゃちゅうしょうもん)』という短い文章を紹介しておこう。

 先に言ったとおり、すべてを唱えて読むには時間がかかりすぎるので、短い文章を唱えながら経巻を開いて閉じる転読を行なうのだが、内容を読んでみると、かなりエッセンスを掴まえていると思われたので、まず見ておきたい。

 

 諸法皆是因縁生(しょほうかいぜいんねんしょう)

 因縁生故無自性(いんねんしょうこむじしょう)

 無自性故無去来(むじしょうこむこらい)

 無去来故無所得(むこらいこむしょとく)

 無所得故畢竟空(むしょとくこひっきょうくう)

 畢竟空故是名般若波羅蜜(ひっきょうくうこぜみょうはんにゃはらみつ)

 南無一切三宝(なむいっさいさんぼう)

 無量広大(むりょうこうだい)

 発阿耨多羅三藐三菩提(ほつあのくたらさんみゃくさんぼだい)

 

と唱え、さらに密教系では、

 

 納慕簿伽筏帝。鉢刺壞波羅弭多曳。怛弭他。室姪曳。室曬曳。室曬曳室曬曳。細。莎婆訶。

(ノウボバギャバテイ。ハラジャハラミタエイ。タニャタ。シレイ。シレイ。シレイシレイ。エイサイ。ソワカ)

 

…と、聞いても意味のわからない呪文を唱え、しかしわからないからこそ有り難いという印象を生み出す。

 その後に「内空。外空。内外空。空空…」と、空について二十項目を述べた経文も唱えるが、これは般若経典の中に出てくるので、後に解説をしたい。

 こうしたものを唱えながら、六百巻を何人かで分担して開いて閉じ、終わったら短い般若経典である『般若心経』を唱える、といった儀式を行なうのだが、この『転読大般若中唱文』に、『大般若経』のエッセンスとして挙げられているところを見ていこう。

 なるべくわかりやすく説明するために、最初の句の「諸法」と四番目の「畢竟空」からいこう。

 「諸法」は「すべての存在」、「畢竟」とは「究極のところ」、「空」とは「実体ではない・非実体」という意味で、つまり「すべてのものは究極のところ非実体である」というのがこの文章の結論であり、般若経典全体の説くところである。よく知られた『般若心経』の言葉でいえば「諸法空相(しょほうくうそう)」である。

 


般若経典のエッセンスを語る7

2020年10月03日 | 仏教・宗教

 筆者を含め、戦後、高校までの日本史を左翼的な進歩主義の歴史観で習ってきた方がきわめて多いと思われる。

 そして、「奈良仏教は鎮護国家=天皇の権力を護るための呪術的宗教であって、鎌倉仏教のような民衆の宗教、民衆の救いではなかった」といった否定的な評価を先入見的に教え込まれたのではないだろうか。

(「古代日本仏教への否定的見解:家永三郎氏の場合」古代日本の天皇と仏教:従来の左翼進歩派的評価への反論」、参照)

 しかし、筆者は幸いにしていろいろな経過があって左と右の先入見とは別に、自らの視点で『日本書紀』や『続日本紀』『日本後紀』といったその時代の文献を読むようになった。

 すると、とりわけ聖武天皇における「鎮護国家」とは、単に迷信的な呪術によって自分たちの権力の維持を図るというだけのことではなく、むしろ「人民すべて、さらには生きとし生けるものすべてが幸せに暮らせる国になるように」と祈り願うことだった、と読めてきた。

 すなわち、この時代の仏教は、まだ「民衆が信じて救われる仏教」にはなっていなかったとしても、「リーダーが民衆の幸せを祈る仏教」ではあったのだ。

 国のリーダーが心を込めて民衆の幸せを祈るというのは、それはやはりすばらしいことなのではないだろうか。

 しかも、それは単に観念的あるいは心情的なことだけではなく、これまで十分に語られてこなかったと思われるが、文献そのものをよく読んでいくと、天武天皇から聖武天皇に到る歴代の天皇たちは、時代の制約の中では精いっぱいといっていいほど、民たちの幸せのためにいわば福祉政策を実践しているのである。

 さらに最近の日本仏教史の研究の進展によって、かつての奈良の国家仏教と鎌倉の民衆仏教という図式的な捉え方は、史料に基づいて批判され、奈良時代すでに仏教は呪術的面ではかなりの程度民衆のものになっていたことも明らかになってきているが(例えば吉田一彦『古代仏教をよみなおす』(吉川弘文館、二〇〇六年)など)、本書ではそうした面については触れない。

 繰り返すと、筆者は、直に歴史資料を読むことによって、当時の日本のリーダーたちは、本気で日本を人々すべてが幸せないい国にしたいと思っており、古代という限界のなかで可能な限りの努力・実行をしていたのだ、と解釈するようになった。

 (このあたりのことについては、筆者の研究所の機関紙『サングラハ』九一号以降に「日本の心と仏教」という記事を三度にわたって書き、また何度もそれに関わる講義も行なってきたし、現在も進行中であり、やがて本稿に続いて書籍のかたちにまとめたいと思っている)。

 そうした学びを通じて筆者は、日本に『大般若経』ほかの般若経典が奈良時代から伝わって千年以上しっかりと保存されてきたことはとても幸いなことであり、さらに今、現代の私たちがこれを読み解くことができたら、さらに幸いなことになるだろうと考えている。

 


般若経典のエッセンスを語る6

2020年10月02日 | 仏教・宗教

 ところで、唐では玄奘三蔵の訳経の完成記念の会を起源として「大般若会(だいはんにゃえ)」という儀式が行われるようになり、日本でも七〇三(大宝三)年、文武天皇の命により宮中や四大寺で転読がなされて以来、今日まで多くの寺院で特に正月などに行なわれている。

 六百巻もあり唱えるには長すぎるので、省略して経典をパラパラと開いて閉じて読んだことにするのを「転読(てんどく)」という。転読を行なうお寺は今でもたくさんあるので、ご覧になった読者もあるかもしれない。

 

興福寺で大般若経転読会 空中に広げる600巻

 

 それには経典の風入れの意味もあり、乾燥した時期にやると経典の保存にはとてもいいという。だから決して無意味ではないが、内容を読まず、一般人には理解できない言葉を唱えながら、開いて閉じてという動作を繰り返す儀式だけでは、これから述べていく内容の重要さからすると非常に惜しいと感じられてならない。

 しかし、かつての日本の善男善女はこういう儀式などを見ていて、何かとても有り難く、「国も護られる。私にもご利益がある」という気がしたのだろう。とても有り難がってきたようだ。

 特に転読した経本で頭を撫でてもらうと一年間無病息災だと説くお寺もあり、善男善女がお正月や二日などにお参りして並び、僧侶が何人も分担しながら撫でている様子が報道されることがある。

 かつて筆者自身そうだったように、近代的な理性偏重の人間はそうした呪術的な儀式を馬鹿にするかもしれない。

 しかし、よく考えてみると心理的な安心効果というのは人間にとってきわめて重要なことである。

 ある時から、そういう意味で「こうした大般若会などの儀式が、たとえわけがわからなくても、日本人の心に安らぎを与えてきたこと、今でもある程度安らぎを与えていることには意味がある」と考えるようになった。

 その結果、こうした儀式も、やはり日本の文化のかたち、いわば無形文化財として、長く残していきたいという気がしている。

 ただ、わからないで有り難がるよりは、やはりわかって有り難がったほうが、より有り難いというか、現代人にとってより意味が深いと考え、筆者の理解しえた範囲で、〈般若経典のエッセンス〉を多くの読者と分かち合いたいと思ったのが、本書とそれに先立つ講義の目的である。

 


般若経典のエッセンスを語る5

2020年10月01日 | 仏教・宗教

 日本文化と『大般若経』

 

 日本には七世紀、天武天皇の時代にすでに『般若心経』『金剛般若経』『仁王般若経』などの般若経典が入っている。

 なかでも『大般若経』は、それまでインドで書かれた膨大な般若経典群のほとんどすべての原文を玄奘三蔵が持ち帰り、最晩年に四年近くかけて訳したもので、六六三年に訳し終えたという記録が残っている。

 六六三年に訳し終えられた『大般若経』は、おそらく六六五年には日本に到来している。藤原鎌足の長男である留学僧・定恵が、玄奘三蔵のもとで学び帰国した際、持ち帰ったのではないだろうか。

 定恵は、主に唯識学を学んだのだが、もちろん中国の先進文明であった仏教全体を学び取ることも留学僧としての務めだったから、当時入手可能だった経典はすべて持ち帰ってきたのではないかと思われる。

 ただ、当時はすべて手書きで写されるので、その段階で六百巻もの写本がすべて出来ていたかという問題があり、もっと後の遣唐使で帰国した人が持ち帰ってきたのかもしれない。

 いずれにせよ、遅くとも七世紀の終わり頃には確実に日本に入ってきていたようだ。そして、いうまでもなく以後非常に重んじられてきた。

 ただし、古代日本における仏教の受容の仕方は主として呪術的なものである。

 仏教を含むほとんどすべての宗教には、さまざまな呪文を唱えたり儀式を行なうことで、何か大きな霊的な力を持ったものに影響を与え、お蔭を被ったり祟りを鎮めたりできるという考え方があり、宗教学では「呪術的宗教」と呼ばれる。

 当時、日本人の意識の平均水準はまだ全面的に呪術的な宗教の時代にあり、仏教も従来の呪術的宗教よりもっとパワーのあるものと期待されて取り入れられたと思われる。

 その場合、三つの面があった。一つは「鎮護国家」すなわち国を守る呪術、もう一つは個人一人ひとりの災いを祓い幸福や癒しなどをもたらす「招福攘災」の呪術という面、さらには「病気平癒」の呪術である。いずれにせよ、仏教はまず呪術として入ってきたものと考えてまちがいないだろう。

 加えてすでに述べたように、仏教には「輪廻」という神話的な世界観がある。世界には生命の六つの形態があって「六道」といい、さらに輪廻を超えた世界が四つあり、合わせて「十界」という。

 その十界・六道という神話的な世界観をベースとして、仏教をさまざまなかたちで信じ儀式をすることで、今生でも来世でもご利益を得ることができる。特に死後、人間界でもよりよいところに生まれ変われたり、さらに天界に生まれ変われる、あるいは極楽に往生できるという。そうした神話をベースにした宗教のあり方を「神話的宗教」と呼ぶ。

 かつて日本人の心を支え救ってきたのは、呪術的・神話的な宗教としての仏教だった。

 そうした中で、『大般若経』は、大変なボリュームがあり、そのためもあって大変な呪術的パワーがあると信じられ、「護国の経典」つまり国を守る経典の一つと位置付けられていた。ちなみに他の護国の経典とされてきたものには、『法華経』、『仁王般若経』、『金光明最勝王経』があげられる。

 天平時代、七四一年、聖武天皇は、仏教を全国津々浦々に伝え日本を仏教精神を基礎としたすばらしい国にしたいという願いをもって、各国に国分寺・国分尼寺――国分寺は男の僧の、国分尼寺は尼僧の寺――を建てさせ、寺ごとに釈迦像を安置し『大般若経』を備えるよう詔を下している。

 それは、七四三年の、全国総国分寺ともいうべき東大寺、正式には「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」の建立と、大仏、正式には「盧舎那仏(るしゃなぶつ)」の造立の詔につながる施策であった。

 そのことはすなわち、聖武天皇にとって、『大般若経』は建前として日本人全体が共有すべき精神の支柱だったということを意味していると解釈していいだろう。

 それは、天皇自身がその内容をどのくらい理解していたか、ただ呪術・神話的に信奉していただけかということと関わりなく言えることだろう(筆者は相当程度理解していたと考える)。

 そして先取りして言えば、筆者自身読んでみて驚いたのだが、『大般若経』の中身は、今日でも日本人全体、そして大げさに聞こえるかもしれないが人類全体の共有すべき・できるだけの時代を超えた普遍性をもったものだと思えるのである。

 以下は、『大般若経』など般若経典の内容を紹介し多くの方と共有するための試みである。

 


般若経典のエッセンスを語る4

2020年09月30日 | 仏教・宗教

 筆者は、テーラーヴァーダ仏教も含めすべての原理主義は現代には不適切だと考えているが、本題に戻ろう。

 大乗仏教は、「ゴータマ・ブッダがほんとうに言いたかったことはこれだ。むしろ私たちのこの考え方のほうが正しいのだ」と主張し、般若経典を紀元一世紀ごろから数世紀にわたって拡大していった。

 それから少し短いものが書かれ、さらに最終段階でダイジェスト版的に『般若心経』ができている。

 日本では『般若心経』は非常によく知られており、さらにやや長めの『金剛般若経』も割に知られているが、より長い『摩訶般若波羅蜜経』(鳩摩羅什訳)や、さらにさまざまな般若経典の集大成である『大般若経』(玄奘訳)はあまり知られていないのではないだろうか。

 般若経典群の歴史的・文献的なことについてより詳しくは、コンパクトに論じているものに梶山雄一『般若経――空の世界』(中公新書)があり、さらに詳しいものとしては小峰彌彦・勝崎裕彦・渡辺章吾『般若経大全』(春秋社)があるので、関心のある方は参照していただきたい。

 本稿では、主に『摩訶般若波羅蜜経』と『大般若経』によって、「般若経典」の思想としてのエッセンスを必要最小限の分量で述べることにしたい。

 

  伝光明皇后筆大般若経

 

 特に『大般若経』は六百巻に及ぶ膨大なもので、すべてを読み通すのは困難だといわれてきたが、筆者は、初期の大乗仏教思想の全体像を理解したいという強い動機があったためにかなり時間をかけて読み通した。

 その結果、もちろん誰もがその全体を読むことは困難だし必要ないけれども、少なくともエッセンスについては、いわば「日本の精神遺産」として、多くの一般の読者にお伝えし共有していただく価値がある、むしろ必要があると感じたのである。

 そこで、まず自分の主宰する研究所で講義を行ない、ボランティアの方に文字起こしをしていただき、さらに徹底的な推敲を加えたものが本稿である。

 


般若経典のエッセンスを語る3

2020年09月29日 | 仏教・宗教

 古代インド人は「何年何月に何があった」ということにはほとんど無関心な民族だった。時が永遠に巡り果てしなく輪廻が続くといった時間感覚があり、したがって何年何月に何かあっても同じようなことが巡るわけであるから、いちいちそのことを記しておく必要はないという感じが強かったのだろうか、歴史的記録が非常に少ない。

 そのため、わずかに残っている記録などをどう解釈するかで、古代インドの歴史的な事柄の年号は百年くらいすぐに前後してしまう。

 それに対して、中国は古代から「何年何月何日に何があった」という意味での歴史にうるさく、非常に早い時期から歴史書が残っている。

 そういう意味で、中国人とインド人は精神文化・精神構造が非常に違うといわれている。

 ともかくインドはそういう国で、大乗仏教の主張が最初に書かれたのが般若経典のいちばん初期のものであるから、そのもっとも初期の般若経典が書かれた頃が大乗仏教の興った時期だと考えられ、いろいろな資料を照らし合わせて、百年くらいの幅で紀元一世紀前後だろうと推測されている。

 大乗仏教がそれ以前の仏教を「それは小乗だ」と批判し「我々は大乗だ」と主張した際のいちばん大きな強調点は、「単に覚りだけではなくて慈悲がなくてはならない」ということにあった。

 もちろんゴータマ・ブッダの教えの基本も智慧と慈悲だが、以後の仏教がどちらかというと智慧のほうに、しかも専門家として出家した人が覚り・智慧を得るところに強く焦点を当てていた。

 それに対して「自分も他者も一緒に覚り救われていく、そういう大きな乗り物としての仏教こそがほんとうの仏教なのだ。これこそがゴータマ・ブッダがほんとうに言いたかったことなのだ」と主張し、ブッダの名前を借りて般若経典が書かれている。

 そのように、ゴータマ・ブッダが説いたことになっているが歴史的にはそうではないので、今日的には偽作であり著作権法違反とも言えるが、古代のインド人にはそうした意識はなく、「自分たちが理解したこの仏教こそが、ブッダがほんとうに言いたかったことであるはずだ。したがってブッダが語ったことにしてかまわない」というのが古代インドの文献に対する考え方である。

 それに対して現代人が現代人の感覚で「文献的に、歴史的なゴータマ・ブッダが書いたものではないではないか」と批判してもあまり意味がない、と筆者は考えている。

 しかし、二十の部派仏教の中で唯一現代まで残り東南アジアに広がった「上座部・テーラーヴァーダ」の僧は、「大乗仏教はゴータマ・ブッダが説いたものではない。我々のほうこそほんとうのブッダ直伝の仏教であって、大乗仏教はほんとうの仏教ではない」と主張することが多いようである。

 最近は、テーラーヴァーダの僧でも、チベット仏教などの他派の仏教や他の宗教も学ぶうちに、自分たちだけが唯一絶対に正しいというのは狭い考えだと考えるようになった人もいるようだが、まだ原理主義的な人が多いのではないかと思われる。

 

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般若経典のエッセンスを語る2

2020年09月28日 | 仏教・宗教

 予備知識としてまず般若経典群が書かれるまでの仏教史をごく大まかに見ることから始めよう(予備知識のある読者は飛ばしていただいてもかまわない)。

 歴史学的に研究されてきたゴータマ・ブッダ自身の仏教を、仏教学上は「原始仏教」と呼ぶ。続いて、ブッダが亡くなった後、弟子たちが引き継いだ仏教を、それと区別して「初期仏教」と呼ぶことがある。

 さらにその後、ブッダの死後百年くらい経って、ブッダが言い遺した戒律の解釈の違いによって、まず大きく二つに分裂する。これを「根本分裂」という。

 基本的には、弟子たちの席順で上のほうにいたので「上座部(じょうざぶ)」と呼ばれる人々と、数が多かったので「大衆部(だいじゅぶ)」と呼ばれる人々の二つの派に分かれる。ちなみに現代語の「大衆」はここから来ている。

 以後、仏教はさらに教義の解釈の違いなどによっていくつもの派に分かれ、自分たちを「~部」と呼んだので、「部派仏教(ぶはぶっきょう)」といい、西暦紀元前後頃には二十くらいの部派に分かれていただろうと言われる。これを「枝末分裂(しまつぶんれつ)」という。

 部派は二十ほどに分かれたとはいっても、基本的にはすべて専門の僧すなわち出家のための仏教で、ふつうの社会生活から離れて戒律を守り、仏典の勉強をし、瞑想・坐禅をするということだけで暮らせる、専門の僧侶でなければ覚りが開けない・救われないというものだったという。

 信徒たちは、僧から教えを受けたりお布施・寄付をしたりすることの功徳で、次の世界・来世でいい所に生まれ変わることができ、最善の場合、人間界の上の天界に生まれ変わることができるけれども、その先の覚りには到達できないことになっていた。

 仏教の神話的な世界観では、迷いの世界の六種類を「六道(ろくどう)」といい、下から言うと、まず最低最悪で苦しみばかりの地獄(じごく)、続いて何をしても満足できない餓鬼(がき)、食欲と性欲のことしか考えられない畜生(ちくしょう)、絶えず争っている阿修羅(あしゅら)、その上が人間界である。さらに上にはきわめて幸福で長寿の天界がある。しかし天界の寿命は長いといっても限界があり、やがて下の段階に転落し輪廻することになっている。

 そして、六道の上に、輪廻することのない覚りの世界が四種類あり、六道と合わせて十の世界で「十界(じゅっかい)」という。まず、ブッダの教えの声を聞いて覚った人々、つまり弟子たちの世界があり、「声聞(しょうもん)」という。その上に「独覚(どっかく)」ないし「縁覚(えんがく)」の世界がある。すなわち、縁起の理法はブッダが説いても説かなくてもあるものであるから、自らその縁起の理法を覚ることがあるとされ、独りで覚るという意味で「独覚」、縁起を覚るという意味で「縁覚」と呼ばれる。大乗仏教では、さらにその上に「菩薩(ぼさつ)」の世界があり、いちばん上に「仏」の世界がある。これで「十界」である。

 紀元一世紀前後、それ以前の部派仏教に対し、出家をして戒律を守り禅定し仏典の勉強をすることができる僧侶しか救われない・覚れないというのは、「自分しか乗れない小さな乗り物だ」と批判し、それに対して、「我々はみんなで救われ覚ることのできる大きな乗り物だ」と主張する仏教の派が現われたといわれる。

 

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般若経典のエッセンスを語る1

2020年09月27日 | 仏教・宗教

 今、久しぶりの次の著書として、タイトル(仮)のような原稿をまとめつつあります。

 出版不況、特に人文書・思想書の不況の中で、引き受けてくれる出版社があるかどうか、まだわからないのですが、まずネット上に公開して、読者の反応を見させていただき、それから出版を検討するという方法を採って成功している著者の方もおられるようなので、筆者も試みることにしました。

もしいいと感じたら、コメントなど何らかのかたちでお知らせいただけると幸いです。

(なお、出版が決まりましたら、記事を削除することになりますので、予めご了承ください。)

 では、以下、まず第一回目の原稿です。 

 

  仏教の歴史と「般若経典」

 

 般若経典は、大乗仏教の思想が最初に表現された経典である。したがって、大乗仏教を理解するには、他のどの経典よりもまず般若経典を理解する必要があるのではないだろうか。

 そして、飛鳥時代から江戸時代まで、日本に伝来した仏教はすべて大乗仏教であった。つまり、日本の仏教は大乗仏教なのである。最近は東南アジアに伝わったテーラーヴァーダ仏教やチベット仏教も伝わってきているが、伝統的な「日本仏教」が大乗仏教であることは変わらない。

 したがって、日本人が自らの精神的な伝統の中核にあった大乗仏教を理解するには、やはりまず般若経典を理解する必要がある、と筆者は思うのである。

 本書の目的は、日本人が自らの伝統である日本仏教を理解し、自らのアイデンティティを確立または再確立するための基礎として、般若経典―大乗仏教の思想のエッセンスを紹介することである。

 古代インドにおいて紀元一世紀前後以降、それまでの部派仏教(いわゆる「小乗仏教」)を含んで超えることを目指した大乗仏教が興り、最初の大乗経典である般若経典が創作された。

 といっても『○○般若経』と呼ばれるものは一種類ではなく、きわめて多数書かれていて、学問的にはまとめて「般若経典群」と呼ばれる。

 


9月23日〜講座『正法眼蔵』「諸悪莫作」を学ぶ

2020年09月21日 | 仏教・宗教

高松】水曜講座「『正法眼蔵』とやさしい瞑想によるやすらぎの時間 続」

 9月23日 10月14日 11月18日 12月16日 (4回)

 講義の前にイス瞑想を行ない、『正法眼蔵』他、道元禅師の著作を学び味わいます。悩みの多い日常を離れ、深いやすらぎを感じることのできる時間になるでしょう。

時間:19時半―20時50分

▼講師:研究所主幹▼テキスト:随時配布。▼

▼参加費:一般=一万円、年金生活・非正規雇用・専業主婦の方=8千円、学生=4千円

▼会場:サンポートホール高松64会議室

 

 先日の講座案内では、『正法眼蔵』のどの巻を取り上げるがお知らせしていませんでしたので、改めてお知らせします。

 今回から「諸悪莫作(しょあくまくさ)」の巻を学んでいきます。

 言うまでもないようですが、そこには以下のような驚くべく深い言葉が語られています(現代語意訳)。

 できるだけわかりやすくほぐして、お伝えしたいと思っています。

 

 善悪はその時々に現象するが、時そのものは善でも悪でもない。善悪は〔個々の〕存在となっているが、存在〔そのもの〕は善でも悪でもない。存在は悪とも一体であり、存在は善とも一体なのである。……

 この諸悪を作ることなかれというのは、凡夫が初めて造り出して、そうしたものではない。覚りが説かれた教えを聞いてみると、そのように聞こえるのである。そのように聞こえるのは、無上の覚りの言葉であるのを言い表わしたものである。すでに覚りの言葉であり、それ故に語られた覚りなのである。無上の覚りが説かれて〔それが〕聞き取られていくことで転換され、諸悪莫作と願い、諸悪莫作と行なっていく。諸悪がすでになされないようになっていくところに、修行の力がたちまちに実現するのである。この実現は、全大地、全世界、全時間、全仏法を広がりとして実現するのであり、その広がりは莫作という広がりなのである。

 まさにその時、まさにその人は、諸悪のなされるような所に住んで往来し、諸悪のなされるにちがいないような機縁に遭い、諸悪をなす友と交わるようなことがあったとしても、諸悪は決してなされないのである。莫作の力量が実現しているからである。

 

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