般若経典のエッセンスを語る51――大乗における瞑想の深まり3

2023年11月03日 | 仏教・宗教

 ここで重要なのは次の説明である。

 何を以ての故に。舎利弗、但だ名字有るが故に菩提たりと謂ふ。但だ名字有るが故に菩薩たりと謂ふ、但だ名字有るが故に空たりと謂ふ。所以は何ん、

 「どうしてかというと、シャーリプトラよ、覚りという名前や文字、すなわち言葉があるので、言葉で覚りという言葉を言っているだけなのだ。ただ言葉があって、それで菩薩というふうに言う。空というのも同じで、空という言葉があるだけなのだ。なぜそう言えるかというと」

 諸法の実性は生無く滅無く垢無く浄無きが故に

 さまざまに区別できる存在の本性は、実はすべてが縁起の理法でつながっているということである。つながりがぜんぶつながっているとしたら結局は一体である。結局は一体のものには個別的な発生や消滅というのはない。
 分離していると「これは清らかだが、あれは汚れている」という差別的な判断が生じるが、一体だともう汚れているとか清らかということがない。つまり諸法の実性は一体なので、発生も消滅も、清浄とか汚染ということもない。

 だから空を実践するということは、実はすべてのものの一体性を自覚するということでもあって、そのことを徹底的にやって、「個別のものは名前を付けているからあるように見え、それが実体であるように見えてくるだけなので、分離した実体などというものは実際にはない」ということを瞑想する。それが般若波羅蜜を行ずるということである。

 菩薩・摩訶薩是の如く行じて、亦生を見ず亦滅を見ず亦垢を見ず亦浄を見ず。

 要するに分離的な思考を一切やめていくということである。しかし、私たちの心は普段すべて分離的な思考で動いているから、「(私は)分離的思考をやめよう」と分離的思考をしてしまう。私がいて分離的思考があって、その私が分離的思考をコントロールしてやめる、と。それはもうそれ自体が分離的思考なのである。

 では、それをどうしたらいいのか。瞑想家たちはいろいろな工夫をしている。
  
 その一つは、心の中でいったんなるべくシンプルな言葉を使う。例えば「ひとー、つー」と。「ひとー、つー」と呼吸をすることを合わせてやっていると、だんだん他のことを考えなくなる。集中すると他のことが考えられなくなるわけである。

 それから例えば、もっと進むと「む(無)ー」という一言だけにする。「むー」と吐いて「むー」と吸う、「むー」と吐いて「むー」と吸う、と集中してしまうと、もう「むー」しかなくなる。

 言葉というのは「あ」「い」「う」「え」「お」というふうに分節しているから言葉になるので、一定時間「むー」と言っていると「無」という言葉の意味は頭の中でなくなって、ただの音になる。「む」と例えば「ま」がどう違うかということももう意識になくなる。だから「むー」と言うことを通じて思考を無くし、分離思考を無くする。

 もっといくとそれもやめて、ただ呼吸が出入りしているのを静かに見つめているだけになる。呼吸を見つめるというのもまだ「見つめる」ということがあるので、それさえもやめると、もうただ存在しているだけという意識のあり方になる。しかし、眠っていないし、陶酔していないし、ボーッとしているのでもなく、しっかり目覚めていなければ覚りにならない。つまり、しっかり目覚めていながら何も考えていないという状態になっていくこと、それが般若波羅蜜を行ずるということだ、とひとまず言葉で理解しておけばいいだろう。


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