般若経典のエッセンスを語る49――大乗における瞑想の深まり1

2023年10月30日 | 仏教・宗教
 *筆者の体調のため、なかなか連載を続けることができてきませんでしたが、ずっと待っていてくださる読者もいるようなので、推敲不十分ですがとりあえず読んでいただける程度の文でも、断続的に少しずつ掲載することにしました。
 なお、元の講義はDVDまたはyoutube で視聴していただけます。サングラハ教育・心理研究所のHPの案内をご覧ください。


 『摩訶般若波羅蜜経』「広乗品第十九」に以下のような個所がある。

 復次に須菩提、菩薩・摩訶薩の摩訶衍(まかえん)とは、所謂三三昧(さんざんまい)なり。何等をか三となす、有覚有観(うかくうかん)三昧、無覚有観(むかくうかん)三昧、無覚無観(むかくむかん)三昧なり。云何が有覚有観三昧と名くるや。諸欲を離れ悪不善法を離れ、有覚有観、離生喜楽、初禅に入る。是を有覚有観三昧と名く。云何が無覚有観三昧と名くるや。初禅、二禅の中間、是を無覚有観三昧と名く。云何が無覚無観三昧と名くるや。二禅より乃至非有想非無想定、是を無覚無観三昧と名く。須菩提、是を菩薩・摩訶薩の摩訶衍と名く、不可得を以ての故に。

 三昧とは禅定である。「菩薩・摩訶薩の摩訶衍」、つまり大乗仏教の根幹にあるのは三種類の三昧、すなわち瞑想・禅定だ、と。

 三種類の最初は「有覚有観三昧」という。これは、自他の分離的な意識が「覚」、「観」は思考で、いわば瞑想的ではあるけれどもやはり思考ということである。だから、いちおう自我意識が残っており、それから理論的に考えるということも残っている、それでもある種禅定状態にある。

 それから「無覚有観三昧」は、自他の分離を離れながら、しかし例えば縁起や無常などをある種瞑想的に洞察する。

 そしてそういうことをすべて離れてしまって、自他分離の意識も、それから瞑想的ではあっても思考をするということもやめてしまうのが「無覚無観三昧」である。

 これが、それ以前から言うと、禅定の最初の段階・「初禅」という。とにかくまず四段階ある。それから、その四段階の上にさらに何段階も瞑想の深まりがあることになっている。すなわち、大乗以前の仏教もこういう瞑想を行なっていたのである。

 ところが最後のほうに、「二禅より乃至非有想非無想定、是を無覚無観三昧と名く」とある。「思うでもなく思わないでもない」という、言葉で表現しにくい深い瞑想の状態のことをあえて言葉にしたので、言葉で勉強しただけではわからない。

 私たちがやっと「ひとー、つー」と呼吸に集中できると、なかなか爽やかな気持ちが生まれてくるのだが、それは「離生喜楽、初禅に入る」ということである。そうした、俗世間の生活から離れてさわやかな喜びが心に生まれてくるという段階を、禅定の最初の段階・初禅という。

 しかし、二禅になると次第に爽やかかどうかなども関わりがないという境地になっていくことになっている。

 私は、古典的な瞑想の深まりの段階論に「初禅・二禅・三禅・四禅」、その上に「非想非非想」等々とあるのを、かつては「こんなに細かい分類をしてなんの意味があるのか」という感じに受け取っていたが、自分自身で禅定を続けていくうちに、「やはりこれにはちゃんとした禅定の深まりの根拠、体験的根拠があるのだ」と感じるようになり、そして、まだこの先があるのだろうと思うようなっている。

 ともかく、こうして瞑想がきわめて深いところまで達した時に大乗の瞑想の境地が出てきたのではないかと推測される。

 それを示しているのが、「菩薩・摩訶薩の摩訶衍とは」、つまり菩薩大士の大乗とはどういうものかというと、いちばん根本は三三昧だ、と。ところがこの三は違っていて、「空・無相・無作(くう・むそう・むさ)三昧」という。これはそれ以前の仏教には見当たらない瞑想の名前である。

 「空三昧」、これは「空三昧とは諸法の自相空なるに名く」と書いてある。私たちが個々のいろいろな実体的なものがあると思っている、それが「諸法」である。ところがそのいろいろなもの・すべてのもののほんとうの姿・自相について、例えば時間経過をずっと見ていくと、それは「無常」であるということが見えてくる。それから、その時間経過の中でよく考えてみると、他との関係でできたのだ・「縁起」ということが見えてくる。

 よく上げる例だが、ここに「湯飲み」がある。この湯飲みについて、私たちは「ここに湯飲みそのものとしてある」と思ってしまうが、よく考えると、製造者が土を持ってきて型に入れて焼いて……というふうにして出来上がり、使われ、そして用がなくなり行き所がなくなったら捨てられ、ゴミとして割られて処分されたりして、もう「湯飲み」ではなくなってしまう。

 そういうふうに、関係の中で出来、関係の中で壊れていく、つまり無常であるということを考えると、それ自体で存在でき、それ自体の変わらない本性を持っていて、そしていつまでも存在できるという、実体としての本性を持っていない。その実体ではない・「非実体」ということが空なのであるが、空三昧とはその空ということをとことん洞察をしていくという瞑想である。

 空を洞察するという場合、まだ「洞察する」「考える」ということが残っているが、さらに、「これは空なのだから、私たちが見ている姿というのは、実体的な姿ではないのだ」ということ、すなわち「無相」ということについて、次のように語られている。

 諸法の相を壊(え)し、憶せず、念ぜざるに名く、

 「この見えている形、これは本質的な実体の形ではないのだ」と言って否定してしまうだけでなく、形としてそのことを憶えておいたり、それに今気づいているということをもやめてしまって、すべての形を離れていくという瞑想をする。これが「無相三昧」である。

 それから、空ということを洞察し、そしてその洞察も離れて形を見るということをすべてやめてしまうという瞑想に深まると、今度はいろいろなものに対して「あれが欲しい」とか「これが欲しい」と何かを求める・願望するということがなくなる。ものを特定の相・すがたで見るから欲しくなるわけで、相が消えてしまうとそれに対する願望がまったくなくなってしまう。それが「無作」である。「無願」と訳されることもある。

 そのように大乗では、空・無相・無作というところに瞑想が深まっていくとされている。
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