今月七月号の『俳句』(KADOKAWA)で、板倉ケンタが田中裕明賞についての論評を書いていた。そこでは、田中裕明賞が選考委員の交代にともなって賞の性格が教育的方向にピポットしているという指摘がされている。
この論評は、あくまで賞の性質が主題にあたるため、言外に滲ませてはいるが直接的に受賞作について評価を下してはいない。ただ、私としては、賞の前に作品があるのだから作品の鑑賞なしに賞の性質を論じるのは、一段飛ばしで階段を上っているように感じた。なので、本稿で受賞句集の、主に物足りなさについて書こうと思う。
まずは、浅川芳直『夜景の奥』(東京四季出版)である。編年体の句集である。
砂溜る破船の中や南吹く
本句集では、もっとも良いと感じた。漠々とした雰囲気を醸し出しながら、描写されているのは、破船の中の小さな細部である。南風によって、破船の中の砂粒が震えている。
ただ、全体として、安定してはいるが、物足りないところもあった。俳句の骨組みはあるが、それで成り立っているような印象も受ける。特に、編年体とはいえ、第一章の「春ひとつ」には、作品の改作が必要なのではないかと感じた。
〈剣道大会〉
一瞬の面に短き夏終る
約束はいつも待つ側春隣
などの句は、私ならば収録しないように思う。編年体とは言っても、発表当時のものと一言一句同じものにする必要はなく、改変や脚色をしてもいいと思うのだが、おそらくは、そのまま発表している。編年体が句集全体の完成度にあまり貢献していないようにも思えた。むしろ完成度をあえて抑制しており、そこが物足りなさに繋がる。
ただ、だからこそ、「受賞をきっかけに作者の成長を期待する」という評価につながっているとも、同時に思う。私としては、本句集は編年体をとることによって、完成度とバーターに作者の成長性を演出したように感じられた。
次に、南十二国『日々未来』(ふらんす堂)。
たんぽぽに小さき虻ゐる頑張らう
蟹がゐてだれのものでもなき世界
本句集では、世界・宇宙・地球などを詠み込み、大きな枠組みを感じさせる一方で、「たんぽぽに小さき虻ゐる頑張らう」など、一人の生活者を感じさせる句も同時に詠んでいる。この句集の作中主体は、世界という枠組みと、今存在する自分という枠組みの対比を常に意識しているのだと思う。そのため、全体的に句の世界が広い。
こちらも編年体の句集であるが、ただ、こちらについては、序盤と終盤であまり差異が見られず、良くも悪くもずっと同じように書いているように感じた。
新鮮な瞬間が多く描かれているが、その手法の安定性については、むしろ物足りなさがある。
息白き「おはよ」と「おはよ」ならびけり
「寝よつか」と言へば「寝よつ」と夜の秋
たとえば、この二句を並べてみると、全く同じ手法で作られていることが分かる。そうした点で、作風は深化し、手法は変化させていくのが良いのかも知れない。
ただ、長期間、作風を変えずに詠むというのは、それだけでも大変なことだ。自分の作風に自分で飽きる段階を通り抜け、それでも自分を貫いている点で、『日々未来』には好感を抱いた。
最後に、本稿では『夜景の奥』と『日々未来』の物足りなさについて書いたが、一読者として全く楽しめなかったかと言えば、そうではなかったと付け加えておきたい。両句集とも、佳句は多く収録されていたと思う。田中裕明賞をとってもとらなくても、作品自体の質は変わらない(取り上げられる機会はもちろん増えるが)。そう考えると「田中裕明賞受賞」という経歴は単なる付箋であって、読者側が剥がして読めばそれでいいのだと思う。
この論評は、あくまで賞の性質が主題にあたるため、言外に滲ませてはいるが直接的に受賞作について評価を下してはいない。ただ、私としては、賞の前に作品があるのだから作品の鑑賞なしに賞の性質を論じるのは、一段飛ばしで階段を上っているように感じた。なので、本稿で受賞句集の、主に物足りなさについて書こうと思う。
まずは、浅川芳直『夜景の奥』(東京四季出版)である。編年体の句集である。
砂溜る破船の中や南吹く
本句集では、もっとも良いと感じた。漠々とした雰囲気を醸し出しながら、描写されているのは、破船の中の小さな細部である。南風によって、破船の中の砂粒が震えている。
ただ、全体として、安定してはいるが、物足りないところもあった。俳句の骨組みはあるが、それで成り立っているような印象も受ける。特に、編年体とはいえ、第一章の「春ひとつ」には、作品の改作が必要なのではないかと感じた。
〈剣道大会〉
一瞬の面に短き夏終る
約束はいつも待つ側春隣
などの句は、私ならば収録しないように思う。編年体とは言っても、発表当時のものと一言一句同じものにする必要はなく、改変や脚色をしてもいいと思うのだが、おそらくは、そのまま発表している。編年体が句集全体の完成度にあまり貢献していないようにも思えた。むしろ完成度をあえて抑制しており、そこが物足りなさに繋がる。
ただ、だからこそ、「受賞をきっかけに作者の成長を期待する」という評価につながっているとも、同時に思う。私としては、本句集は編年体をとることによって、完成度とバーターに作者の成長性を演出したように感じられた。
次に、南十二国『日々未来』(ふらんす堂)。
たんぽぽに小さき虻ゐる頑張らう
蟹がゐてだれのものでもなき世界
本句集では、世界・宇宙・地球などを詠み込み、大きな枠組みを感じさせる一方で、「たんぽぽに小さき虻ゐる頑張らう」など、一人の生活者を感じさせる句も同時に詠んでいる。この句集の作中主体は、世界という枠組みと、今存在する自分という枠組みの対比を常に意識しているのだと思う。そのため、全体的に句の世界が広い。
こちらも編年体の句集であるが、ただ、こちらについては、序盤と終盤であまり差異が見られず、良くも悪くもずっと同じように書いているように感じた。
新鮮な瞬間が多く描かれているが、その手法の安定性については、むしろ物足りなさがある。
息白き「おはよ」と「おはよ」ならびけり
「寝よつか」と言へば「寝よつ」と夜の秋
たとえば、この二句を並べてみると、全く同じ手法で作られていることが分かる。そうした点で、作風は深化し、手法は変化させていくのが良いのかも知れない。
ただ、長期間、作風を変えずに詠むというのは、それだけでも大変なことだ。自分の作風に自分で飽きる段階を通り抜け、それでも自分を貫いている点で、『日々未来』には好感を抱いた。
最後に、本稿では『夜景の奥』と『日々未来』の物足りなさについて書いたが、一読者として全く楽しめなかったかと言えば、そうではなかったと付け加えておきたい。両句集とも、佳句は多く収録されていたと思う。田中裕明賞をとってもとらなくても、作品自体の質は変わらない(取り上げられる機会はもちろん増えるが)。そう考えると「田中裕明賞受賞」という経歴は単なる付箋であって、読者側が剥がして読めばそれでいいのだと思う。
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