それで夏休みの宿題が俳句評で何をどう書けばいいのやらと打ち明けると、大阪市北区中崎西にある詩歌専門書店葉ね文庫の店主はふんふんと頷いて棚から何冊か手渡してくれた。
私には無知の盾しか持ちえていないから、既に亡くなっている人がいい。出来れば公表されている全句を把握したいという条件を満たしたのがこの句集だった。
独身時代から結婚して子どもが産まれ、やがて老年になるまでの時系列で並べられた句集なので、マトリョーシカを小さいものから一回り大きなものへ仕舞っていくようにして読んだ。入れ子を入れる前に自分の経験を吹きかけて句を親しむとノスタルジーともサウダージとも名前がつかないものが心のある部分に染み入る。
たとえば
日の光しぐれを松に片降らす
寒光の最も濃きはこの路か
二月の初頭大気が澄んで日照角が一番鋭くなる午後三時前、屋外は一丁前に冬の気温のくせに、日光はこの世を漂白してやるとばかり眩しい時間を格別に愛していたことを思い出す。タイミングがよければ西日になる一瞬前の日差しを浴びに、色を抜かれたビルの壁の温度を確かめに表へ駆け出すほど。
解釈よりも早く経験の封が解かれていくような染みこみ方だ。
今一度マトリョーシカに息をふーっと吹きかける。
シャンデリヤつたはりて死は遊びけり
およばれした御宅の吹き抜けのホールには吊り照明があり、二階から手を伸ばすと子供でも照明の鎖をさわれたので悪戯に揺らして遊んでおりました。そこの家のお姉さんが来たので物陰に隠れているとお姉さんはお化けが出たといって大騒ぎをしました。
糸引き飴のように引き出されるのは大体よその家にいる記憶だった。
全句を通してことさら夏の句が親しげに身に刺さってくるためなのか、本を開いていくつか句を拾えば今はもう無くなった親の郷里へ盆に帰省した気持ちになる。
実家では嗅がない出汁の匂いがただよう仏間で、冬は絨毯を夏はござを敷くために畳に直接とめていた画鋲をふと抜くと針が思いのほか長かったことや、ミニトマトのパックに入れていたらいつのまにか腹を浮かせていた雨蛙。
一つしか出ぬぜいたくな蟬の穴
蟻の穴の中から人の声がする
阿部青鞋は晩年の句集『ひとるたま』の随想で、
人間が生きる上に、何でもないことは先ず無い。何でもなさそうな事も、みな何でもある。全て何でもあるものが、何でもなさそうな顔をしているそのおかしさを、私は私なりのありていな言葉で言ってみたいだけだ。
と書いているので、そこに甘えさせてもらおうと思う。
だから? それで? 「オチ」は? という冷たい指摘から解き放たれた句は、その句へのレスポンスもまた自由を許されているように調子よく思う。
背にきたる矢を感じつつ靴を買う
など笑いしか漏れないし
結局は生よりも死のなれなれしさ
にはどう逆さに振ってもヤバいという言葉しか出てこないと書くと貧相な語彙が情けなく、思考停止と罵られるだろうが一貫して大らかで、感想や解釈の執着を感じない。(現代人の感想や解釈の執着と強迫観念のほうがおかしいといわれればそれまでだが)
ただ、目と口と肌と鼻と耳が捉えた対象物へのシンプルな畏れ敬いだけはずっと感じていた。思いあたるような俳句ばかりだった。
わたくしの虹にあらずとすぐ思い
くるぶしをぬらすよ海の真実が
鵙が啼く海は書物のかたちして
ですよねーと思う。この合意には共感が混じっていない。単なる頷きでしかない。コールに対するレスポンスでしかない。しかないということに対して、この句集に限っては私は貧しいとかゆるふわだとは思いたくない。
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