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「詩客」俳句時評

隔週で俳句の時評を掲載します。

俳句時評156回 西生ゆかりとその俳句 谷村 行海 

2022年09月25日 | 日記
 街の先輩、西生ゆかりさんが今年度の角川俳句賞を受賞した。大変喜ばしいとともに大いに刺激を受ける出来事だった。
 西生さんには大変お世話になっており、池袋の女装喫茶「まほうにかけられて」に連れて行ってもらったり、西生さんが開くシーシャ句会に参加させていただいたりしていた。好奇心旺盛で無邪気。西生さんにはそのような印象がある。

ジェットコースターから柿摑めさう 『街』140号
蜜柑剝く蜜柑を口に含みつつ 『街』142号
バナナ剝く円周率を諦めて 『街』145号
舐めてをりソフトクリーム撮る前に 週刊俳句2021角川俳句賞「落選展」投句作「回りだす」
夫は知らない鏡の裏の黴 第3回新鋭俳句賞準賞「台所」

 その特長は句にも表れているように思われる。
 1句目、大人からすればこのジェットコースターは大して怖くない、郊外の遊園地にある子供向けのものなのだろう。ほとんどの大人からすれば退屈な乗り物だ。しかし、西生さんの場合にはそうではない。揺れながらジェットコースターのコース上を観察し、そこに柿を見つけると、摑めるだろうかとつい考えてしまう。退屈な時間は一切ないのだろう。そして、ひょっとするともう一度乗って実際に柿を摑んでしまいそうな雰囲気まで感じさせてしまう。
 2句目、3句目は、何も考えていなさそうな前者と、考えることを投げ出してしまう後者が対照的。何も考えずに目の前の蜜柑だけに没頭する2句目の無邪気さはもちろん、3句目についても考えているのは円周率。3.14のその先のことをずっと考えていたのだろうか。確かに、円周率は3.14の先の数字が気になってしまい、どこまでもそれを求めたくなる。しかし、頭でずっと円周率を追うのには限度があり、バナナという日常へと回帰していく。
 4句目はソフトクリームを舐めた後で、写真を撮ることを思いついたのだろう。一度舐めてしまった以上、わざわざ写真を撮らなくてもと思ってしまいはするのだが、それでも写真に収めてしまう。好奇心旺盛な人柄がにじみ出ているように思われる。
 最後の句は主婦としての自分を楽しんでいるように思える。黴を見つけたにもかかわらず、あえてそれを拭きはしない。自分だけが知っている宝物でもあるかのように黴のことを扱っている。きっと、夫が黴に気付いた時こそが黴を掃除する時なのだろう。

工場に二つの言語猫じやらし 『街』146号
入学の全てを入れる青い箱 週刊俳句2020角川俳句賞「落選展」投句作「体と遠足」
メロン来るあまり可愛くない箱で 第3回新鋭俳句賞準賞「台所」

 そして、好奇心の旺盛さ、無邪気さは時に物事を冷静に見ることにもつながる。
 1句目は、街にある工場からふと声が聞こえたとしても、傾聴しなければなかなか気づけることではない。日本語とそれ以外の言葉が飛び交う工場。その場の人間関係までもが見えてくるようだ。淡々とした詠み口には現実を冷静に見つめる真の眼差しが浮かび上がっており、決して頭のなかだけで作り上げた句ではないと思う。
 2句目はどこかシニカル。入学と聞くと、うきうきした気分が先行しがちだ。ところが、入学時に配られたものはたった1つの箱に全て収まってしまう。大きな夢を描いていても、それが現実のなかで黙殺されてしまうかのようでもあり、観察の鋭さが恐ろしさに繋がっている。
 2句目の入学と同様、メロンにも華やかで明るいイメージがつきまとう。だが、よくよく考えれば、メロンは単なる農作物。それを入れる箱は、農作物を守るという機能面に特化しがちなことだろう。メロンを貰う嬉しさの反面、目の前にあるリアルな現実の姿が浮き彫りになり、真実の世界がそこに現れる。

蟹の朱よ鮪の赤よ一人の夜 『街』147号
蛍烏賊一人になると夜が来て 週刊俳句2021角川俳句賞「落選展」投句作「回りだす」
たんぽぽや地球征服したら暇 第3回円錐新鋭作品賞白桃賞受賞作「青い万年筆の家」

 そして、物事を見つめるうちにその視点は自分自身に行きつく。
 1句目も2句目も同じ一人の夜を詠んでいる。1句目は同じ赤色であっても、その色味はものによって異なり、さらに個体差もある。自分自身にどのような赤い血が流れているのかまではわかることはないが、一人の時に人間としての自分自身のことを内省しているような句に思えてならない。また、2句目は人と別れたあとの寂しさが一気に押し寄せるような感覚がある。たとえ時間的には夜であったとしても、そこに他の人間がいる時には夜ではない。心理的な意味での夜の持つ強さが鑑賞者にも強い共感性をもたらしてくれる。
 そして、最後の句だが、地球制服のことを真剣に考えてしまったのだろう。ゲームやアニメでも謎の悪の組織が特に目的もなく地球制服を目論むが、征服した後には何があるのか。ただの無があるだけだ。そのことに気付いてしまった時、これまでしたきたことの無意味さが大きく身に降り注ぐ。何気ない妄想から入ることで一種のもの悲しさをもたらしてくれ、それと同時に西生さんらしい句のように思えた。

 西生さん本人のTwitterによると、受賞が決まった時、「本当ですか?あなた本当に角川の方ですか?」と聞いてしまったとのことだが、それも確実に事実なのだろう。西生さんにはそのような強さがある。

俳句評 昭和の鎮魂碑 ~黒田杏子聞き手・編者『証言・昭和の俳句』を読む 森川 雅美

2022年09月23日 | 日記
 刊行されたのは19年前の、2002(平成14)年、1999から2000年までの1年半「俳句」(角川書店)に連載された、世紀を跨ぐ企画だった。当時「『昭和俳句史』を語るためには、欠かせない名著」と絶賛されたが、ここしばらく絶版となっていて、まさに待望の増補復刊といえる。
本書の証言者の13人は、大正に生まれ、昭和俳句の第一線を生き抜き、平成、1人だけ令和、に亡くなった俳人であり、昭和俳句を語る上の一級史料だ。しかも、語られる出来事が、「京大俳句事件」などの俳句弾圧、「現代俳句協会」から「俳人協会」の分裂、「俳句文学館」の建設など、昭和俳句に欠かせない事件ばかり。語られる人物も高浜虚子、山口誓子、加藤楸邨、中村草田男、西東三鬼など、俳句に詳しくなくとも聞いたことのある、現代の俳句をつくってきた人物が揃う。聞き手の黒田は、このような事件や人物を丁寧に聞き出し、一方向ではなく多方向からの同時代の声として提示する。しかも、今年亡くなった深見けん二を最後に、証言者の全てが鬼籍であるだけでなく、黒田自身も旧版「あとがき」に記しているが、雑誌掲載から書籍刊行の2年ほどの間に、5人が亡くなっている。さらに、旧版の刊行年に2人亡くなり、最後のギリギリで形になった、奇跡の証言集といっても良い。
 もちろん、本書を楽しめるのは俳句に興味がある読者だけではない。読後に残るのは、大河連作小説を読んだ後に似た充実感。まず何といっても登場する人物が、実に個性があり魅力的、今の言葉でいうならばキャラが立っている。それぞれが信念を持ち自分で考え時代を精一杯生き、ステレオタイプの善人や悪人ではなく、ひと癖もふた癖もあり生々しいほど人間臭い。(語り手が溺れかけた後)「のんきなお顔で「遠くまで行きましたねえ」と言うておられる」山口誓子(津田清子)、(未亡人である語り手のところに)「突然、やっていらっしゃる。うちにソファベッドがありましてね。三鬼さんはベッドでないと駄目でしたから、そのソファベットをご自分でベッドに直すと、お洋服にブラシをかけて、ちゃんとハンガーに吊るされる」西東三鬼(中村苑子)など、実に生き生きと語られている。扱われる出来事にしても、様々な事情や人物が交差するため、次が知りたく夢中でページをめくってしまう。俳句弾圧は、時代への鎮魂を孕んだ青春劇のように、「現代俳句協会」の分裂や、「俳句文学館」の建設は、様々な思惑が交差するサスペンスのように読むこともできる。そして、その背景には、戦争で死んだ、病などのため志半ばで亡くなった、多くの俳人の魂も息づいている。「第一句集の『雪白ゆきしろ』は形見みたいなもの」(沢木欣一)。無念のうちに死んでいった俳人が何人いたのだろう。
 それだけでなく、昭和を生きた人間の記録としても、鮮やかに目に浮かぶように語られている。例えば、空襲について「うちの庭には樹木がわりにあったんですが、それが全部ばーっと燃えてきて、私が玄関まで出たとたん、うしろにバサーッと火が落ちた」(桂信子)。学徒出陣は、「いよいよ学徒出陣になるというので家内が、いや、まだ家内じゃないわけですが、弟を連れて駅まで送りに来ました。しかし、ガダルカナルの死闘が終わって日本軍の敗戦が我々大学生もすでによくわかっていましたから、生きて帰るということは到底考えられなかった。だからそのとき、女房になる人に対して何も言えなかった。」(古舘曹人)。俳人だけでなく、同時代を生きた多くの人に共通した市井の意識が、本書と、本書で語られる昭和俳句を支えている。「戦争に対する志も何ももたないで引っ張って来られた大勢の兵隊や工員たちが、食い物がなくなって飢え死にする。しかもアメリカというのは神経質で、毎日やって来て爆撃したり銃撃したりする。それによって死ぬ。そういう人たちを見ていて、この人たちのために、つまりこういう人たちが出ないような世の中にしなければいけない、と考えるようになったんです」(金子兜太)。「その後、生き残りの私の句を戦死したり戦病死した友達が現在読んでくれるとしたらどう思うかと常に考える」(三橋敏雄)。このような証言を読むと本書と戦後の昭和俳句が、無念のうちに亡くなった数多の死者のために、書かれてきたことが見えてくる。黒田も「あとがき」で、「二十世紀の末に俳人によって語られたかけがえのない予言集が地球上の多くの人々と出会うことを希っております」と記している。本書と昭和俳句は昭和の鎮魂碑であり、未来へのメッセージでもあるのだ。(2021年・コールサック社)
初出 「脱原発社会をめざす文学者の会 会報」第25号(2021年12月刊行)


俳句時評155回 多行俳句時評(4) 多行形式試論(2)──改行、断絶、遁走 漆 拾晶

2022年08月27日 | 日記
 アールケーさん、そちらではいかがお過ごしでしょうか。あなたが去ってしまってから、こちらではあまりにもいろいろなことが起こりました。書き始めたらきりがないのですが、たとえば、精神科での拡大焼身自殺、観測史上最大規模の降雪、終わりの見えない経済戦争と物価高騰、観測史上最悪の熱波と豪雨、元内閣総理大臣銃殺、政権与党のカルト癒着露呈、既定路線にされる原発増設と老朽原発再稼働と核汚染水放出と軍拡と国葬、棄民政策による医療崩壊と数千万人規模の感染と数百万人に残る後遺症と数万人の死。この死は公称値だけでも伊勢湾台風と阪神淡路大震災と東日本大震災を合わせた死者数より多くなってしまいました。加速する気候崩壊とともに、疫病の波はこれから何度も襲って来るだろうし、財政破綻と食糧危機、世界大戦の風聞も目にします。

 人口動態予測によれば、何事も無くとも今世紀中に日本社会は崩壊する予定でしたが、それが数十年早まったかのようです。もはや出ていくべき社会など存在しないので、終末を信じて七年引きこもりたい気分になります。それでも悪い事ばかりではなくて、あなたの趣味にも合いそうな新しいアニメがいくつか放送されましたし、あなたに披露したくなる珍しい古書を手に入れたりもしました。国会図書館の絶版本データベースがネットに公開されて、あなたがいつか俳句文学館で閲覧したと言っていた大原テルカズの稀覯句集まで読めるようにもなったんですよ。そちらにもネット環境が整えばいいのにといつも思います。

 今となってはあなたが、卒論で大道寺将司と東アジア反日武装戦線について書いたこと、俳句表現において多行形式を選んだこと、そして早々にこの地を見限ったこと、これらはすべて繫がっていたように思えます。大道寺将司の句に導かれて俳道に踏み入ったあなたは、大道寺の思想や直接行動を全面的には肯定しなかったとしても、大道寺はいまこそいてほしい人で、彼が亡くなった日を境に日本は坂道を転がり落ちるように悪くなったと言っていた。この国の嘘の底知れなさが毎日のように伝わってくるとも。その「嘘」の張本人は、たった一人の直接行動によって葬られ、これまで隠されていた底知れぬ「嘘」の数々が、たった一人の死によって暴かれようとしています。この光景をあなたにも見てほしかったと思うと同時に、あなたの決断は賢明だったとも思ってしまう。

 ところで、今回の件によって我々は加藤郁乎という人物を擁護しきれなくなったのではないでしょうか。たしかに彼の『球体感覚』や『えくとぷらすま』のような初期句集は前衛俳句の一つの到達点と言えます。作品と作者は切り分けて考えるべきであるとも考えています。しかし残念ながら彼の前衛期は70年代の前半には終わり、以降は江戸俳諧のような「伝統」へ回帰していきます。そして1980年には某雑誌の特集「俳人とその職業」で加藤郁乎が女性に「手かざし」をしている写真が載りました。彼の職業はいつの間にか宗教者になっていたのです。この手かざし教団が法人として設立されたのは1978年のことらしく、ちょうど彼が前衛文学を離れた後の時期と一致します。この教団が1999年に建てた博物館の館長に後ほど就任しているぐらいなので最終的な地位は幹部クラスだったのではないでしょうか。この豪奢な博物館を建てるのにどれほどの信者による献金が行われたのかは想像もつきませんが、今回の件のような宗教二世の被害者もいるのでは。この教団は国内最大の右翼組織と深い繋がりがあるようで、なにしろ銃殺された元首相もこの新宗教を信仰していたようだし、2001年に反セクト法を制定したフランスはこの教団をカルト認定しています。

 件の教会については、公共放送局や文部科学省との関係も取り沙汰されています。これは文学界隈の人間も避けては通れない問題でしょう。本邦の伝統文化なるものはカルト教団の霊感商法による収奪の上に成り立ってきたかもしれないのだから。今やあらゆる権威を疑わざるを得ない。カルトとは関係ないのですが、今年行われたある俳句新人賞の最終選考会はウェブ会議形式によるライブ中継で配信され、そこでの選考委員から特定応募者に対する侮辱的な発言により、侮辱された応募者が受賞を辞退することになりました。その応募者はあなたも知っている人物です。今回はウェブ上の配信だったので録音されており、問題発言の証拠を押さえられたわけですが、閉鎖的な選考会ではこれまで一体どれだけの応募者に対する侮辱が行われてきたんでしょうね。

 俳句新人賞は一行の俳句を前提としています。そのため俳句を意識的に改行するという行為はそれだけで、権威主義への抵抗を体現する。私にはそう思えてくるのです。多行形式で書かれた俳句が俳句として読まれるべき理由もそこにある。高柳重信は加藤郁乎の初期作品を大いに評価していましたが、加藤郁乎が多行形式で俳句を書くことはついにありませんでした。父も名のある俳人であり結局保守勢力に取り込まれることになった加藤郁乎とは違って、高柳重信の「改行」とは江戸俳諧から聖戦俳句にまで連なる戦前の伝統から「切れ」るための試みだったのではないか。

 「切れ」といえば先日刊行された堀田季何さん主宰の楽園俳句会会誌合併号※には、「切れ」についての論考が載せられていました。そこでは多行形式にも言及されています。

 一般に俳句は一行で認識の瞬間を詠みますが、多行ではその瞬間性が消えてしまいます。逆に言えば、改行することによって断絶を生み出すことができます。つまり、改行によって時間のコントロールが可能となるのです。
 多行の俳句では、もし四行であれば、音楽の四楽章のように、四つの小さな時間のまとまりが存在しています。そのうちの一行に文字がない場合でも、行は行として存在し、読者はそれを味わいます。

(堀田季何「日本の切れ、世界の切れ」『楽園』第一巻湊合版 p.56)


 つまり多行形式は、改行によって瞬間性を喪失させ、断絶を生み出すことで時間を分裂させているということになる。同論考では切れとは切断ではなく、イメージ喚起に関わる技法であるとされています。「改行による断絶」と「切れ」は別個に作用するものである。著者はまた、日本の俳句は切れが無くとも成立するが、歴史と季語を持たない外国語で書かれた俳句には切れが無くてはならないとしています。行数は固定されるべきではなく、「切れが働く改行を作者自身が選ぶべき」であるとも。ということは、外国語で俳句を書くときは効果的な切れと意識的な改行の二つがほぼ前提となる。

 あなたには読んでもらっていないかもしれませんが、この連載の第一回で、私は多行形式の持つ、人工知能に対する優位性を書きました。「俳句時評149回 多行俳句時評(3) 多行形式試論(1)──前衛俳句、定型論争、人工知能 漆拾晶」 日本の俳句がやがて迎える歴史の終焉についても。私たちはすでに、外国語を書くように日本語を書くべき段階に入っているのではないでしょうか。それは日本の伝統から断絶し、逃走するということ、俳句における亡命とも言えるのかもしれません。


※楽園俳句会会誌『楽園』第一巻湊合版は堀田季何さんよりご恵贈いただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

俳句時評154回 川柳時評(4) 「高尚」な使命と創作の現場 湊 圭伍

2022年08月25日 | 日記
 先々月のことなので時評というには過去のことになってしまうが、俳句をユネスコ無形文化遺産として登録しようとする動きについて、Twitterでフォローしている俳句関連の人たちが否定的な立場から様々にツイートしていた。EUの初代大統領でベルギーの俳人が来日して講演したというニュースに反応したものらしい。
 そのニュースを辿っていくと、「俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会」のウェブサイト(https://unesco.haiku-hia.com/)に行きつく。そこには俳句が世界平和や環境問題解決に直結するという薄っぺらいアイデアが、誰が文責なのかまったく顔が見えないかたちで書かれている。俳人の言葉は見当たらないのにメニューには「各自治体首長のエッセイ」があり、さらに「俳句のユネスコ無形文化遺産への登録を目指す議員連盟」のページで発起人の筆頭に上がっているのは現日本国首相・岸田文雄。やばい、やばい。現在の基準として、「世界の調和」といった言葉が躍る場所に政治家が出ている、その時点でこりゃやばいねと思ってしまうのはしょうがないですよね。
 どうやら運動の本体はぽつんと一つだけリンクのあるHIA国際俳句交流協会(https://www.haiku-hia.com/)で、そちらのページには「国際俳句交流協会(Haiku International Association)は、1989年に俳人協会、現代俳句協会、日本伝統俳句協会の支援を受けて設立され」とあるので、そこまで行くと私も知っているような俳人の顔がようやくおぼろげに見えてくる。が、その見えた顔の人たちの反応が最初に述べたように否定的な、「むかし聞いてイヤだなと感じて、その後、立ち消えになったと思ってたけど、えー、まだやってたの? ホントに?」的なものなので、いったいどこで進んでいる話なのでしょうね、とふたたび実態は藪の中。俳人協会、現代俳句協会、日本伝統俳句協会の支援はまだ続いているのかしら、各協会員たちはどの程度この運動を認知しているのだろう?
 真面目に論評すると、「俳句ユネスコ無形文化遺産登録推進協議会」のウェブサイトには、世界に俳句が広まっていますといった大雑把な言葉はあるのだが、実際にいま世界各国で作られているhaikuの多彩さや詩的豊穣さについて理解しているヒントさえない。そこがいちばんツラいと思う。件のEUの初代大統領でベルギーの俳人、ヘルマン・ファン・ロンパイ氏の俳句を新聞記事(「俳句愛好家の初代EU大統領が千葉・御宿、勝浦に」産経新聞2022/7/15 https://www.sankei.com/article/20220715-ZONGDHIVTFJYHK5DGV7T7CDEG4/)から引いてみると、

The two shores of the Pacific
Joined by generosity
an ocean of peace
Herman Van Rompuy

 とある。この句の引用につづけて、産経新聞は「平和な太平洋のふたつの浜辺をつなげるのは、寛容さであることを詠んだものだという。」と書いているが・・・もう、そのまんまですやん!? これはさすがに俳句ではなく標語ですね、と誰かツッコまなくてよいのだろうか。ファン・ロンパイ氏も別にこんな句ばかり書いているわけではないだろうが、この作品のレベルで世界でも俳句はスゴい、というのはさすがに無理だろう。「高尚」な目的が文芸の価値より優先されるというのは文芸にとっていちばんの不幸である。

 さて、川柳に関してはそうした「高尚」にして胡散臭い話は無いようである(幸か不幸か、たぶん、幸)。ただし、何か社会的な問題があると「川柳は庶民の権力に対する抵抗の詩で~」みたいな発言が普段川柳なんかには何の興味がない人たちから(おそらく本人たちは好意的な意図で)出てくるのが、非常にめんどうくさい。先々月にそういった事件があったのは、みなさん、おぼろげに記憶していると推察する(どうせしばらくするとすっかり忘れられるので、その個別の事象自体はとりあげません)。その際も著名人から「(時事)川柳は市民による権力への抵抗!」といった「エール」が送られていた。弱りましたね。
 まあ、私個人は現代の川柳ではどちらかというと「権力に対する抵抗」的なものをうっかり書いてしまうほうだが、それは個人の資質と現在の個々の状況からそうしているのであって、川柳の本質とはまったく関係がない。『誹風柳多留』を読めば権力に対する抵抗なんてものがそこにないのはすぐに分かる。よく知られている「役人の子はにぎにぎをよく覚え」も当時の江戸の風俗の一端を切り取っただけで、書いた本人には社会批評的意識は薄かったはずだ。そして、その程度の社会批評意識でさえ古川柳には珍しいのは社会的な常識になってほしい。
 川柳の社会批評の起源は、新聞と川柳(を含む日本語短詩)が明治よりとりもった関係と、井上剣花坊・信子夫妻、また彼らに庇護を受けた鶴彬に発している。正岡子規の短詩改革の舞台となった新聞『日本』で、編集長・古島一雄が川柳を政府批判に使えないかと考えて、まず阪井久良伎、次に井上剣花坊(実は彼らの前に他にひとりいたみたいなんですが重要ではないので飛ばします)に川柳欄を担当させた。ここが江戸期から続いてきた狂句から「新川柳」(のちに「新」が落ちて「川柳」となる)への重要な転回点というのはさておき、権力批判の道具といった古島の思惑が外れるかたちで、近代の川柳ジャンルが起ち上がっていったということで歴史としては間違いがないだろう。
 剣花坊~鶴彬のラインにある腰の入った権力批判は彼らの資質とイデオロギー的選択(剣花坊にとっては天皇の元での平等主義、鶴彬にとってはプロレタリアニズム)によるもので、〈川柳=庶民の抵抗〉というジャンル丸ごとの等式はない。のちの時代に目を移せば、川柳に批判性を強く望む見解の源としては、第二次世界大戦前・戦中において川柳界の大勢が「大政翼賛」に傾いたことへの戦後における反省というのも加えてもいいかもしれない。が、この点、あまり私は信用していない(それは川上三太郎ら戦前から戦後にかけて川柳界を主導した人物たちが見せたご都合主義的な「転向」による)。実際に現在の川柳誌を読めば、川柳をやっていれば批評性があるというのは怪しい意見であることは明らかである。
 現在において川柳(あるいは文芸一般)の社会批評性をあえて言うなら、以上のような歴史的展開を知ったうえで、現在においては「庶民」なんてものは存在しないことをしっかりと認識する必要がある。朝日川柳の事件(あ、言っちゃった)は、単に別々のバブルのなかにいる人たちが「庶民」の立場を代表していると考えて、自分たちの意見を投げつけあったということでしかない。剣花坊の時代に成立した近代日本のナショナリズムと新聞メディアの結びつきによって形成された「庶民」のイメージは、私の見立てによれば1970年代に失効していき、「サラリーマン川柳」という特定のタイプの人々(終身雇用の職を得、妻子もちでマイホームを建て、家庭内で邪険に扱われたりする男性=「サラリーマン」)を主人公にしたジャンルの成立はその失効を如実に示している。それまでの(それもあくまで男性中心主義であり、一種のフィクションだが)ある程度の幅の人々を「庶民」として共感の基盤に出来た時代の終わりである。
 それからまた数十年を経た現在は、第一生命主催の「サラリーマン川柳」がちょうどこの2022年9月より、「サラっと一句!わたしの川柳コンクール」に改名されたことに象徴的なように、「庶民」の一部をグロテスクに誇張した「サラリーマン」像も失効した時代である。そう確認した上で再度、川柳というジャンルが「社会的批評、権力批判を庶民の立場から行わなければならない」という思い込みには根拠がないことをもう一度強調しておく。現在の川柳は別に「庶民」のものでも「庶民」のイメージを描くのでもないし、ましてや「庶民」の立場から「お上」を批判する役割を背負っているわけでもない。
(こうしたこととは別に、時実新子が「危機感」を川柳の特徴の一番目にあげた(『新子流川柳入門』ネスコ、1995年)ように、文芸が時代に対する個人の「危機意識」を核とするというのは真っ当である。しかし、こうした視点も、どうしても妙に「高尚」な使命を文芸に呼び寄せてしまう傾向がある。「高尚」な使命は文芸の不倶戴天の敵というべきで、そうしたものが寄ってくることにも「危機感」を働かせておく必要がある、というか、そうした「危機感」を自然に野がもつのが真っ当な書き手だろう。)

 さて、そういうどうでもいいことはさておいて、大事なことは、さまざまな作品が生まれてくる自由な場をいかに確保していくのかということだ。前回の記事であげさせた川柳界隈での様々な試みはすべて、そうしたまさに文芸の本質にかかわるものなのだが、それがDIY的に生じているのが、いま川柳が面白い一番の理由といえるのではないか。
 私個人に関わることをあげさせてもらうと、この8月18日に、「〈盆ダンス〉オンラインライブ句会」なるイベントを、「川柳句会ビー面」を主催されているササキリユウイチさんと共同で、オンライン会議ツールのZoomを利用して開いてみた。川柳の世界で主流として行われてきた選者選の形式の句会を遠隔で行う試みで、まだそれほど試されていないと思う。また、幸いにも、従来の川柳句会を体験した人、体験したことがない人、川柳を書き始めたばかりの人、さまざまな層が参加してくれたので、これまでの川柳句会にはない雰囲気のイベントになった。また、Zoomの投票機能を取り入れた席題(即吟)も試してみた。こちらは作業の手間を私が見誤っていたため中途半端になってしまったが、工夫次第で選者選とも互選とも違ったものになりうる可能性はあると感じた。句会結果はnote記事にまとめる予定なので、興味のある方はhttps://note.com/umiumasenryu/ をチェックしていただきたい。こちらでは、選者選最後の雑詠の結果のみを載せておく。

雑詠(雨月茄子春選)
母さんはスピノザ茹でたら出掛けます              藤井皐
辻斬りの夕餉に食べたきなこ餅                 下城陽介
きらいだの形で潰れている蝉                  竹井紫乙
眼孔にワイキキビーチ作ろうね                 榊陽子
溢れでるYouTubeの音from肺                  スズキ皐月
ダイイングメッセージから音が出る               暮田真名
宇宙はきっと絵に描いた中村                  西脇祥貴
小一で学んだはずの護身術                   金瀬達雄
握手の中で潰れてる鍵                     嘔吐彗星
知恵の環をくわしく叫ぶ柔道家                 川合大祐
ダークマターのぬいぐるみだね                 水城鉄茶
自主的に染色体がもっちもち                  今田健太郎
エジソンの脳を見る目が変わりそう               暮田真名
頭から生えた欅が身に余る                   下城陽介
ひどくねぢれた吊り橋をいちにち噛んでた            湊圭伍
法律を持ち出す大好きな森で                  榊陽子 秀句
デビルバットゴースト*覚えていてほしい*デビルバットダイブ   軸吟
 
 個別の句会はさておいて、オンライン・対面を問わず、また様々な形式で、川柳句会を開いてみようという人たちが出てくるといいな、というのが私の一番の希望である(できれば、誰かが開いてくれて、投句や選者だけでああだこうだ言えるようになったらありがたい)。オンラインライブ川柳句会のやり方の一例を、これもnote記事にまとめてみたのでご参照いただき、どんどんアレンジして試していただければ嬉しい。
 「Googleフォームを利用した川柳オンラインライブ句会の方式について(メモ)」
https://note.com/umiumasenryu/n/ne9ef7f771c87

俳句時評153回 令和の食俳句鑑賞 三倉 十月

2022年08月03日 | 日記
 今回は食べもの、あるいは食べるという行為に関連した俳句を鑑賞してみたい。繰り返しになるが、私は俳句を詠むのも読むのも入口の門をくぐったばかりの初心者であるが、門の前で足踏みをしている、或いは、少し離れたところからこちらを見ている友人知人家族がいる。俳句を読み(not詠み)慣れない人や、俳句にあまり縁がない人にとっても「食」は、わかりやすく、取っ掛かりやすいテーマなので、興味を持つきっかけになったらいいなと思っている。

 そもそも歳時記には美味しそうな季語が溢れている。これからの季節は「新米」「松茸」「栗飯」「秋刀魚」が楽しみだし、「大根」「白菜」「トマト」などの野菜、「苺」「さくらんぼ」「梨」「西瓜」などの果物はもちろん「アイスクリーム」「蜜豆」「白玉」「桜餅」などスイーツもある。「おでん」「素麺」「冷やし中華」「鍋焼きうどん」「豆ごはん」など、旬の美味しい料理がいっぱいだ。「ビール」「熱燗」「鰭酒」「濁酒」などの酒も気になるし「アイスコーヒー」「ソーダ水」「ラムネ」「レモネード」「薄荷水」「蜜柑水」「甘酒」などのドリンクも好きな季語である。「伊勢海老」「雑煮」「栗きんとん」もちろん、お正月にもばっちりだ。このように各季節の「生活」「植物」「動物」の項目には、食べ物(食べうるもの)が並んでいる。

 食に関連した名句は枚挙に暇がないが、今回は私が所有している句集や、最近読んだ雑誌から面白いと感じた句(比較的最近の句、あるいは、若手俳人の句)を中心に選ばせて頂いた。

どこへでも行けるアスパラガス茹でる 神野紗希

 スーパーで並んでいる時は少しくすんだ緑のアスパラガスも、茹でるにつれて鮮やかで美しい緑に変わる。まっすぐな長さはそのままに、硬さは消えてしなやかになり、香りが立つ。狭いキッチンから、どこまでも広がる外の世界と、その一部である己(=作中主体)の、瑞々しい可能性を軽やかに信じる、やさしい一句。

牡蛎グラタンほぼマカロニや三十歳  神野紗希

 この句を読んだ時、自分が三十歳になった時の手ごたえのなさを思い出した。やたらと身構えていたにも関わらず「なんだ、こんなものか」と、あっけなく訪れた三十歳、三十代。その拍子抜けをした感じが、マカロニばかりの牡蛎グラタンから伝わる。(素人っぽい読みかもしれないが、この句の切れ字の「や」はちょっと関西弁のツッコミのような面白みもある)

アイスキャンデー舐めて人間保つなり 神野紗希

 句集の並びから推測して、初めての育児の中での一句と読んだ。夏の暑さで溶けそうになる、ということも大いにあるが、それ以上に、まだ首が座らないような小さな赤ちゃんとの生活の中で、それまでの人生で築いてきた「己」という人間の輪郭を何度も何度も見失いそうになったことを実体験として思い出した。子がやっと寝てくれた後で食べるアイスキャンディーは、そうした輪郭までもはっと繋ぎ止めてくれる。

海鼠食ふ海まつくらに暮れてきし   大石悦子

 冬の夜の海の、圧倒的な暗さと重さ。目の前の鉢には、そこから来た海鼠がある。沈黙の生物である海鼠を、静かに噛み締める。命を頂いているのだが、その大きく深い、暗い海そのものを頂いているような気持ちになる一句。

鶯やご飯の炊ける匂いして      大石悦子

 こちらはささやかながら、温かい喜びに満ちた柔らかな一句。春の到来も嬉しいし、ごはんが炊けたのも嬉しい。鶯の声やお米が炊ける匂いを感じられるくらい、平和な気持ちでいることも良い。今から家族団らんの食事が始まる予感。

林檎食ひながら林檎に飽きてゐる   松本てふこ

 こちらは食の喜びとはまた少し違う感じが面白い一句。決してこの林檎が不味いわけではないのだ。食べ続けているのだから。それでも、飽きている。なんなら、一口目から飽きているかもしれない。林檎は美味しいし健康にも良いが、あえて言うなら咀嚼に労力を使う。切り分けたならともかく、丸かじりでもしていたら途中で止めることもしにくい。ぼんやりと他のことを考えながら、何となく惰性で食べている。

立ち食いの何でも旨き獺祭忌     松本てふこ

 一方で、この句の「何でも旨き」には無邪気な高揚を感じて楽しい。食べものそのものより、立ち食いというのが良いのだろう。(縁日などの)非日常感が手伝うのか、あるいは、(立ち食い蕎麦のように)じっくり味わって食べる時間がないからなのか、それとも、行儀の悪さという背徳感がスパイスになるのか。何にしても楽しい。その楽しさが、子規の天衣無縫なイメージと重なる。

何味か分からぬ飴や下萌ゆる     松本てふこ

 これもまたどこか可笑しみのある食べものの一句。こういう飴、けっこうある。韓国料理屋さんのレジでもらう白い飴。大昔にディズニーランドで売っていた巨大なぺろぺろキャンディー。子供の頃好きだった春日井製菓の名作「花のくちづけ」も、何味なのか記憶にない(調べたらミルクすもも味でした)。どちらにしても甘いし口が潤うので良いのだけれど、食べている最中なのにあまり五感を使わない感じが、知らず知らずのうちに芽吹き始めている「下萌え」と合っている気がする。

同じ味して七色のゼリーかな     津川絵理子

 かき氷のシロップは、色と香料が違うだけで基本は全部同じ味だという話を思い出す。七色、虹色に光を透かすゼリーはきらきらと美しくて、心のときめきが満たされるからこそ、味は残らないくらいがちょうどいいのかもしれない。ただただ、美しい記憶だけが残るのだ。もはや七色ゼリーを食べなくても、この一句だけでいいかもしれない。

ブルーチーズの後味消えぬ終戦日    三輪初子

 こちらは逆に、忘れられない味と昏い記憶の一句。はっきりと、じっとりと、それだとわかる後味が残るブルーチーズと、8月15日、終戦記念日の取り合わせだ。近年の味であるブルーチーズと太平洋戦争は遠いようだが、終戦記念日は毎年やってくる。ワインとブルーチーズで一杯やっている最中でも、それはこれからも毎年やってくるのだ。

溺れゐるごとくに西瓜食べてゐる    阪西敦子

 食にまつわる感覚は味だけではない。例えば西瓜は、この句にあるようにとにかく水分である。大きく切った一切れに顔を埋めて、夢中で食べれている様子が目に浮かぶ。勢いがあって気持ちが良い一句。

西瓜喰む胃袋にぽつかりと海      山田牧

 こちらも西瓜。少し食べ過ぎてしまったのかもしれない。水分でおなかが満ちたことを、海と表現すると途端に詩的になるから不思議だ。塩をかけて食べたのかもしれない。水分が体に満ちていくのを感じる。

サイレンとカレーの混ざり合ふ朧    山下つばさ

 料理メニューが入った、食事の句も見てみたい。救急車か、パトカーか、食事中に外からサイレンが聞こえてくる。混ざり合うのは、ハヤシライスでもシチューでもミネストローネでもうどんでもダメで、カレーの素っ気なさがちょうどいいなと思う。どこか夢の中のような、ぼんやりとした春の夜の食事だ。

海老フライの尻尾の積まれ小春かな   小野あらた

 こちらは海老フライの句。勝手なイメージだけど、きっとレストランで出てくる立派な海老フライではなくで、もう少し小さめの、家庭で作るようなブラックタイガーの海老フライなのではないか。小さいからこそ、大皿に積み上げられていく。家族でそれを平らげていく。それぞれのお皿に海老の痕跡が積みあがる、良い冬の日である。

海老の足きれいにもげる淑気かな    小野あらた

 こちらも小野さんによる海老の句。海老側からすると悲惨な景だが、食べる側からすると、お正月から足がきれいに捥げるのは気持ちが良いし、幸先の良さを感じる。尻尾や、足など、主たる可食部である身以外を詠んでいるのが面白い。

串を離れて焼き鳥の静かなり      野口る理

 手持ちの歳時記には載っていなかった為、焼き鳥が冬の季語だということを今回初めて知った。こちらの句はどこか厳かさを装ったユーモアがあってとても好きだ。焼き鳥が最もうるさい瞬間、つまりシズル感に溢れているのは炭火で焼かれている時だろう。その熱を持って席に運ばれてきた時までは元気だが、そこから気の利いた人(あるいはそのような同調圧力)により串から外されると、スン……と静かになってしまう姿を、もう何度も見た気がする。その肉も直ぐに食べられるならまだ良い。そこに三人以上がいたならば、大体遠慮の一切れが残る。串から外されては、もはや焼き鳥としての体裁も保てず、ひたすら沈黙するばかりである。

 そんな焼き鳥は、ある意味国民食と言って良いほど人気がある。夕食のメニューに悩んだ時、スーパーの総菜コーナーの焼き鳥は救世主だし、格安の大人気焼き鳥チェーンもある。なんせ鶏肉は安い。羽と羽毛以外のほとんどの部位を食することができるし、豚肉や牛肉に比べて健康に良さそうなイメージもある。ちなみに飼育に際してカロリーあたりの二酸化炭素排出量も他の食肉に比べると少ないらしい。そう考えると、焼き鳥は良いことしかない。もちろん、人間側から見たら。

焼き鳥を食ひ全部位や次毟る      堀田季何

 そんなのんきな発想をバリバリと食い破るような鮮明で怖い一句。もも、ささみ、手羽先、軟骨、砂肝、レバー、ハツ、ぼんじり……食べつくし、そして食べ終えれば「はい、次」と、次の鳥に手を伸ばす。そしてそのまま毟る。羽と羽毛は食べられないから……ホラーめいていてな恐ろしい景だが、これもまごうことなき現実世界でもある。

 雑食の我らの春の眠きこと      岡田由季

 最後はこの大きくて、優しい一句。アイスキャンディーも海鼠も林檎もカレーも焼き鳥も、何でも食べる我らも『雑食』と表現してしまえば、なんてことはないこの生態系の一部であるのだ、と、はっとする。大らかな春の眠りに包まれてブロイラー鶏の夢を見るかもしれない。




出典:
句集『すみれそよぐ』神野紗希(朔出版)
句集『汗の果実』松本てふこ(邑書林)
句集『夜の水平線』津川絵理子(ふらんす堂)
句集『檸檬のかたち』三輪初子(朔出版)
句集『星屑珈琲店』山田牧(ふらんす堂)
『俳コレ』週刊俳句編集(邑書林) 「眠くなる」野口る理、「隙間」小野あらた、「森を飲む」山下つばさ、「息吐く」阪西敦子
角川俳句 2022年3月号 「温点」堀田季何
角川俳句 2022年4月号 「春へ」大石悦子、「玉ねぎ小屋」岡田由季