世界を言葉にしたがゆえに言葉の隙間からその多くがすり抜けてしまいます。それでも言葉と向き合うのは、有限の命を持つ者の無限に触れたいという欲望があるからかもしれません。
上記は兜太現代俳句新人賞を受賞した小田島渚の句集『羽化の街』のあとがきによる。「言葉の隙間からその多くがすり抜けてしま」うとあるが、この句集を一読した際、そのすり抜けは良いベクトルへと向かっている印象を受けた。
石と化す都市や緑雨の鳥祀る
例えばこの句。「石と化す」と言うことにより、眼前にあるありのままの荒廃した姿を都市は見せてくれる。つまり、都市の持つ今の姿がクローズアップされ、過去の姿が剥奪されている、すり抜けている。しかし、今の世界を言葉にしたがため、過去の世界への憧憬がかえって強まってくる。今を写し取ることにより、確かにすり抜けたものがあることには違いない。だが、その奥に潜んでいた世界を私たちに再提示してくれるようなプラスの効果をももたらしていると思うのだ。
みなかみに逝きし獣の骨芽吹く
つまり、それは世界の再構築となっている。掲句においても、獣は既に死しており、それを言葉にすることにより、獣の生の記録がいったんはそこで確実に停止してしまう。しかし、その後を描くことにより、獣から円環されゆく世界の永遠性を感じさせてくれるのだ。あとがきにある「有限の命を持つ者の無限」がまさしく現出している。また、何の獣なのかを具体的に描写しないことにより、これもやはり獣へのイメージが広がっていく。言葉にすることによってすり抜けたものはあったとしても、私たち人間にも当てはまるようなさらなる普遍性を獲得している。
指先を鳴らせば変はる雪の速さ
型抜きに抜かれ白鳥つぎつぎと
そのようなことを考えていくと、何気ない句もどこか不思議な印象を帯びてくる。
常識の範疇で考えていくと、一句目のようなことは起こりえない。指先を鳴らしたときに仮に雪の速さが変わったとしても、それは偶然そうなっただけだったり、錯覚だったりにすぎない。しかし、それを言葉にすることにより、そのようなことが起きたのだという妙な説得力が生まれてくる。
二句目においても、起きている事象はごくありきたりなことにすぎない。ところが、型抜きに抜かれた白鳥がまるで生命を持ち、そのまま躍動していくかのような錯覚に陥る。言葉の隙間から幻の新たな世界がぽろぽろとこぼれ落ちていくようだ。
芋虫に咆哮といふ姿あり
囀れり壁に塗り込められし鳥
そして、この幻視が如実に表れたのはこの二句のように思う。
一句目は爽波の蓑虫の句を思わせる。爽波の句では目と鼻という顔の細部を見ているが、この句が見ているのは姿そのもの。咆哮という全体だけを描くことにより、その細部は剥奪されている。しかし、見た際の驚きのようなものがそれによって句に表れ、読者は咆哮をしているときの顔やその時の体の様子などを想像する。作者が見た幻想の姿を読者も幻視することができるのだ。
二句目は描かれた鳥。しかし、絵の持つ迫力などにより、まるでその鳥が絵の中から囀りをしているように感じられる。後半の説明的ともとれる文体から考えると、この鳥が単なる絵に過ぎないことは囀りを聞いているときにも頭ではわかっているにちがいない。しかし、頭ではわかっていてもその囀りの音が頭から離れない。現実をも優に超えていく幻視(幻聴)の強さがこの句にはある。
天使ではないので今宵髪洗ふ
以上のように、句には世界を再構築する感覚とそこから漏れ出た幻想的姿があるように思う。それでは、自身についてはどうか。「天使ではない」とあるように、現実の自分をあくまでも単なる人間としてとらえている。超現実的にも見えてきた世界に対し、自身はどこまでも現実的存在で、だからこそ髪を洗うのだ。しかし、それはあくまでも有限の命を持つからこそなせること。もしかすると、有限性が消失したあとには、天使になれるかもしれない。現実はあくまでも現実として、そのあとの世界を幻想しているのだ。
最後に、句集を拝読して惹かれたその他の句をあげて終わりにしたいと思う。
さまざまの桜の果ての墓一基
春雨や大仏のなかがらんどう
春夜へと産み落とさるる黒き山羊
流木のまた流れ出す星朧
紫陽花の冷たさに触れ巡り逢ふ
舞踏の素足花冠を海へ投ぐ
夏雲や飛ぶやうに傘出来てゐる
浮輪から見てゐる空と戦争と
冬の雨また轢かれたるゴシップ誌
撃たれたる記憶毛皮の全面に
発つ船の霞となるも手を振りぬ
大夕焼つぎつぎ見切品となる
青蔦のつひにわれらを這ひ始む
御空より零れ落ちては鳥つるむ
上記は兜太現代俳句新人賞を受賞した小田島渚の句集『羽化の街』のあとがきによる。「言葉の隙間からその多くがすり抜けてしま」うとあるが、この句集を一読した際、そのすり抜けは良いベクトルへと向かっている印象を受けた。
石と化す都市や緑雨の鳥祀る
例えばこの句。「石と化す」と言うことにより、眼前にあるありのままの荒廃した姿を都市は見せてくれる。つまり、都市の持つ今の姿がクローズアップされ、過去の姿が剥奪されている、すり抜けている。しかし、今の世界を言葉にしたがため、過去の世界への憧憬がかえって強まってくる。今を写し取ることにより、確かにすり抜けたものがあることには違いない。だが、その奥に潜んでいた世界を私たちに再提示してくれるようなプラスの効果をももたらしていると思うのだ。
みなかみに逝きし獣の骨芽吹く
つまり、それは世界の再構築となっている。掲句においても、獣は既に死しており、それを言葉にすることにより、獣の生の記録がいったんはそこで確実に停止してしまう。しかし、その後を描くことにより、獣から円環されゆく世界の永遠性を感じさせてくれるのだ。あとがきにある「有限の命を持つ者の無限」がまさしく現出している。また、何の獣なのかを具体的に描写しないことにより、これもやはり獣へのイメージが広がっていく。言葉にすることによってすり抜けたものはあったとしても、私たち人間にも当てはまるようなさらなる普遍性を獲得している。
指先を鳴らせば変はる雪の速さ
型抜きに抜かれ白鳥つぎつぎと
そのようなことを考えていくと、何気ない句もどこか不思議な印象を帯びてくる。
常識の範疇で考えていくと、一句目のようなことは起こりえない。指先を鳴らしたときに仮に雪の速さが変わったとしても、それは偶然そうなっただけだったり、錯覚だったりにすぎない。しかし、それを言葉にすることにより、そのようなことが起きたのだという妙な説得力が生まれてくる。
二句目においても、起きている事象はごくありきたりなことにすぎない。ところが、型抜きに抜かれた白鳥がまるで生命を持ち、そのまま躍動していくかのような錯覚に陥る。言葉の隙間から幻の新たな世界がぽろぽろとこぼれ落ちていくようだ。
芋虫に咆哮といふ姿あり
囀れり壁に塗り込められし鳥
そして、この幻視が如実に表れたのはこの二句のように思う。
一句目は爽波の蓑虫の句を思わせる。爽波の句では目と鼻という顔の細部を見ているが、この句が見ているのは姿そのもの。咆哮という全体だけを描くことにより、その細部は剥奪されている。しかし、見た際の驚きのようなものがそれによって句に表れ、読者は咆哮をしているときの顔やその時の体の様子などを想像する。作者が見た幻想の姿を読者も幻視することができるのだ。
二句目は描かれた鳥。しかし、絵の持つ迫力などにより、まるでその鳥が絵の中から囀りをしているように感じられる。後半の説明的ともとれる文体から考えると、この鳥が単なる絵に過ぎないことは囀りを聞いているときにも頭ではわかっているにちがいない。しかし、頭ではわかっていてもその囀りの音が頭から離れない。現実をも優に超えていく幻視(幻聴)の強さがこの句にはある。
天使ではないので今宵髪洗ふ
以上のように、句には世界を再構築する感覚とそこから漏れ出た幻想的姿があるように思う。それでは、自身についてはどうか。「天使ではない」とあるように、現実の自分をあくまでも単なる人間としてとらえている。超現実的にも見えてきた世界に対し、自身はどこまでも現実的存在で、だからこそ髪を洗うのだ。しかし、それはあくまでも有限の命を持つからこそなせること。もしかすると、有限性が消失したあとには、天使になれるかもしれない。現実はあくまでも現実として、そのあとの世界を幻想しているのだ。
最後に、句集を拝読して惹かれたその他の句をあげて終わりにしたいと思う。
さまざまの桜の果ての墓一基
春雨や大仏のなかがらんどう
春夜へと産み落とさるる黒き山羊
流木のまた流れ出す星朧
紫陽花の冷たさに触れ巡り逢ふ
舞踏の素足花冠を海へ投ぐ
夏雲や飛ぶやうに傘出来てゐる
浮輪から見てゐる空と戦争と
冬の雨また轢かれたるゴシップ誌
撃たれたる記憶毛皮の全面に
発つ船の霞となるも手を振りぬ
大夕焼つぎつぎ見切品となる
青蔦のつひにわれらを這ひ始む
御空より零れ落ちては鳥つるむ