Sightsong

自縄自縛日記

P.M.P.『Miles Mode』

2016-12-19 13:53:12 | アヴァンギャルド・ジャズ

P.M.P.『Miles Mode』(Sony、1993年)を聴く。

Masabumi "Poo" Kikuchi 菊地雅章 (p)
Marc Johnson (b)
Paul Motian (ds) 

発表当時に文京区の図書館で借りてカセットにダビングして聴いたときには、実はピンと来なかった。いま聴くと、なぜか凄さがギンギンに伝わってくる。

ちょうど、別の菊地雅章のピアノトリオ「テザード・ムーン」が起動したころである。そちらはベースがゲイリー・ピーコック、こちらはマーク・ジョンソン(P = Poo、M = Marc、P = Paul)。この違いが、本盤をより「ジャズ」に繋ぎ止める紐帯となっているような気がするがどうだろう。もっとも、テザード・ムーンのサウンドも随分と幅が広い。ジミヘン集やピアフ集などは曲の原型をとどめないほどに解体され、ひたすらに瞬間ごとの響きのリンケージが追及されていた。その一方で、『Triangle』などは曲全体の構成も追及し、素晴らしいものになっていた(わたしの好みはこっちだった)。本盤は後者に近いようである。

それにしても、やはりポール・モチアンのドラムスは唯一無二のものだ。菊地が唸りながら生み出す旋律とはまた別のタイム感で入ってきて、常に時間を伸び縮みさせる。もちろん菊地によるピアノの響きの手探りは素晴らしく、そのプロセスに感動してしまう。「Bye Bye Blackbird」の内奥への旅が、翌年のピアノソロ『After Hours』において結実しているのではないか。

●菊地雅章
菊地雅章『Masabumi Kikuchi / Ben Street / Thomas Morgan / Kresten Osgood』(2008年)
テザード・ムーン『Triangle』(1991年)
菊地雅章『エンド・フォー・ザ・ビギニング』(1973年)
菊地雅章『ヘアピン・サーカス』(1972年)
菊地雅章+エルヴィン・ジョーンズ『Hollow Out』(1972年)
菊地雅章『ダンシング・ミスト~菊地雅章イン・コンサート』(1970年)
菊地雅章『POO-SUN』(1970年)
菊地雅章『再確認そして発展』(1970年)
『銀巴里セッション 1963年6月26日深夜』(1963年)

●ポール・モチアン
ベン・モンダー『Amorphae』(2010、2013年)
トニー・マラビー『Adobe』、『Somos Agua』(2003、2013年)
ポール・モチアン『The Windmills of Your Mind』(2010年)
ポール・モチアンのトリオ(1979、2009年)
ビル・マッケンリー『Ghosts of the Sun』(2006年)
マリリン・クリスペル『Storyteller』(2003年)
ポール・モチアン『Flight of the Blue Jay』(1996年)
テザード・ムーン『Triangle』(1991年)
ポール・ブレイ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Memoirs』(1990年)
ゴンサロ・ルバルカバ+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン(1990年)
ジェリ・アレン+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Segments』(1989年)
キース・ジャレットのインパルス盤(1975、1976年)
キース・ジャレット『Treasure Island』(1974年)
70年代のキース・ジャレットの映像(1972、1976年)
キース・ジャレット+チャーリー・ヘイデン+ポール・モチアン『Hamburg '72』(1972年)
ビル・エヴァンス『The Complete Village Vanguard Recordings, 1961』(1961年)


梯久美子『狂うひと―「死の棘」の妻・島尾ミホ』

2016-12-19 09:59:07 | 思想・文学

梯久美子『狂うひと―「死の棘」の妻・島尾ミホ』(新潮社、2016年)を読む。

島尾ミホというひとには、神がかり、狂、ナラティブな語り部など、さまざまに謎めいていてよくわからない面がある。そのすべてが、いまや、神話のなかにとじこめられてしまった感もある。

本書は、生前のミホへのインタビューや、関係者の証言、そして存在が知られていなかったミホの日記などをもとに、ミホと夫・島尾敏雄の生涯を明らかにするものだ。わたしにとっては、島尾敏雄『死の棘』があまりにも怖い作品であったので(小栗康平による映画は、大したことはなかった)、その後発表された敏雄による『「死の棘」日記』など開くこともできなかった。しかし、本書は、おそらくは『「死の棘」日記』よりも怖ろしい。なぜならば、『「死の棘」日記』にもミホの操作による神話化が施されており、そして、それらの作品に描かれたものはすべて事実であり、かつ、同時に人生をくるむ虚構でもあったからだ。

ミホの人生も、敏雄の人生も、書き、書かれることによってのみ成り立っていた。それは人間の業というだけでは生ぬるいほどのものだった。

従来、ミホは奄美の巫女的な存在であったとされ、軍人として赴いた敏雄との愛が伝説的に語られてきた。しかし、それこそが語り・語られのはじまりであった。ミホは東京で暮らし、かつての恋人が棲む朝鮮半島にも立ち寄って、奄美に戻ってきたハイカラ娘であった。敏雄は、決して単なる優しい軍人ではなく、黙って性病をミホにうつし、沖縄と同様に奄美が「本土の捨て石」たることを認識しており、米軍が侵攻する前に撤退するという行動の欺瞞も認識していた。敏雄は、慶良間諸島における「集団自決」の報道を目にして、あのように責められる者が自分であったかもしれぬと戦慄していたという。だからと言って、その神話がウソであったというわけではない。

また、戦後ふたりが結婚してから、敏雄の放蕩・浮気と、それによるミホの発狂、そしてそれを機に、ミホの敏雄への完全支配がはじまる。『死の棘』の時代である。それも、驚くべきことに、語り・語られにより成立した。おそらくは、敏雄はその事実をミホに気付かせるように書いたものを露出し、その結果が敏雄の文学となっていった。敏雄だけではない。ミホも、自分の物語を形作ってゆくために、いずれ文学=人生にするために、すべてを記録した。そして、(意図しての)結果として、敏雄の浮気相手「あいつ」は、顔の見えない記号としてのみ機能した。残酷といえば残酷過ぎることである。

文学=人生という業により、敏雄は疲弊し、生命力を失っていった(しかし、ミホの狂という文学により、活力を取り戻してもいるのだ)。それと前後して、ミホ自身の物語は、敏雄の物語を通過したものから、ミホ自身の語りへと変化していった。どうやらここで、ミホは、奄美の古層へと遡っていった。かつて真実でもあり創作でもあった自身の神がかりを、自分自身のものとして取り戻したようにも見える。敏雄が書き、ミホがレコードに吹き込んだ『東北と奄美の昔ばなし』(島尾ミホさんの「アンマー」)や、『海辺の生と死』や、また後年に伊藤憲『島ノ唄』における朗読で垣間見せてくれた世界である。

そして敏雄の死後は、敏雄の文学を中心としたふたりの愛の世界を伝説とすることに集中した。他のものはあえて捨象して。不自然なほどにナラティブに語る姿が、アレクサンドル・ソクーロフ『ドルチェ 優しく』にとらえられているが、そういうことであったのだ。

わたしは読後のいまもまだ、恐ろしさに震えんばかりである。

本書について、『死の棘』とどちらを先に読むべきかという話題が出ているが、わたしは、まず『死の棘』、そして他の島尾敏雄の作品を読んでから本書にあたってほしいと思う。時間はかかるが急ぐものではないから。いずれにしても大変な作品である。

●島尾ミホ
島尾ミホ・石牟礼道子『ヤポネシアの海辺から』(2003年)
アレクサンドル・ソクーロフ『ドルチェ 優しく』(2000年)

島尾ミホ『海辺の生と死』(1974年)
島尾ミホさんの「アンマー」(『東北と奄美の昔ばなし』、1973年)

●島尾敏雄
岡本恵徳『「ヤポネシア論」の輪郭 島尾敏雄のまなざし』(1990年) 
島尾敏雄対談集『ヤポネシア考』 憧憬と妄想(1977年)


アンドレ・マルケス/ヴィンテナ・ブラジレイラ『Bituca』

2016-12-18 11:27:07 | 中南米

神楽坂の大洋レコードを覗いてみたところ、アンドレ・マルケス『Viva Hermeto』(2014年)、トリオ・クルピラ『Vinte』(2016年)の横に、アンドレ・マルケス/ヴィンテナ・ブラジレイラ『Bituca』(2013年)が置いてあった。

ヴィンテナ・ブラジレイラは、エルメート・パスコアールのグループにおいてピアニストを務めるアンドレ・マルケスによるビッグバンドであり、本盤はミルトン・ナシメントのカヴァー集となっている。

Andre Marques (arrange, conduct, p, fl, melodica)
その他、弦楽器、管楽器、打楽器などメンバー多数 

アルバム全体を通じて、幻惑的で魅力がある。曲ごとにさまざまな展開があって、ナシメントの曲ではあるが、同時にエルメートの音楽がもつ、汲んでも汲み足りないウキウキ感と豊饒さにも溢れているようだ。笑いながら焦って繰り返していくような感覚は何にもかえがたい。

ある曲は弦中心、ある曲は管楽器のソロを目立たせ、ある曲ではバンドネオンやアコーディオンが前に出てきて、またある曲ではコーラス中心。

マルケス自身は演奏よりもアレンジと指揮に集中しているのではあるが、6曲目の「Morro Vehlo」はピアノソロ曲となっており、抑えた導入部から最後の歓びへの展開が素晴らしい。この雰囲気はそのままに7曲目に突入する。また、2曲目ではフルートを、また11曲目ではメロディカを演奏しており、特にメロディカの甘さに惹かれる。

エルメートのグループにおいて、マルケスがどのようなパフォーマンスを見せてくれるのか楽しみだ。

●アンドレ・マルケス
トリオ・クルピラ『Vinte』(2016年)
アンドレ・マルケス『Viva Hermeto』(2014年)


ザ・フィール・トリオ『Looking (Berlin Version)』

2016-12-16 18:15:26 | アヴァンギャルド・ジャズ

ザ・フィール・トリオ『Looking (Berlin Version)』(FMP、1989年)を聴く、

Cecil Taylor (p)
William Parker (b)
Tony Oxley (ds) 

30分余りの「first part」において、この3人はとても人間技とは思えないほどの全力疾走を見せる。ウィリアム・パーカーの指は、音楽のエネルギー状態が下がってくることを一瞬たりとも許さない。トニー・オクスレーのドラムスは、鼓やシンバルによる美しいパルスよりも、割れた音を含め、多様なものによるミクスチャーが持ち味のようであり、それによりサウンドの収縮を回避し続けている。そしてセシル・テイラーは、時間的にも構造的にもあらゆる形のクラスターを、高速で次々に生成してゆく。このトリオによる大伽藍に対して、聴く者はセンサーのスイッチを切ることができない。一旦の収束に向けて、パーカーが弓で弾き、テイラーが研ぎ澄まされた結果としての旋律を残す。

やや静かで短い「second part」を経て、その余韻を残して「third part」が始まるのだが、やはり、直前の事件は完璧に忘れさられ、またも30分をかけて、新たな大伽藍が構築される。そして収束、大伽藍は微妙にずらされ、形を変え、エッセンスだけが残る。

これがライヴであったとは信じられない。わたしは2004年にアントワープでテイラーとオクスレーのデュオを観ているが、そのときの印象を遥かに凌駕する。聴いていると、そのたびに、動悸とともに得体のしれないエネルギーがどこからか注入されてくる。これはなんだろう。セシル・テイラーに心の底から感謝したい気分である。

●セシル・テイラー
セシル・テイラー+田中泯@草月ホール(2013年)
ドミニク・デュヴァル セシル・テイラーとの『The Last Dance』(2003年)
セシル・テイラー+ビル・ディクソン+トニー・オクスレー(2002年)
セシル・テイラーの映像『Burning Poles』(1991年)
セシル・テイラー『The Tree of Life』(1991年)
セシル・テイラー『In Florescence』(1989年)
1988年、ベルリンのセシル・テイラー
イマジン・ザ・サウンド(1981年)
セシル・テイラーのブラックセイントとソウルノートの5枚組ボックスセット(1979~1986年)
セシル・テイラー『Michigan State University, April 15th 1976』(1976年)
セシル・テイラー『Dark to Themselves』、『Aの第2幕』(1969年、76年)
ザ・ジャズ・コンポーザーズ・オーケストラ(1968年)
セシル・テイラー『Live at the Cafe Montmartre』(1962年)
セシル・テイラー初期作品群(1950年代後半~60年代初頭)

●ウィリアム・パーカー
スティーヴ・スウェル『Soul Travelers』(2016年)
エヴァン・パーカー+土取利行+ウィリアム・パーカー(超フリージャズコンサートツアー)@草月ホール(2015年)
イロウピング・ウィズ・ザ・サン『Counteract This Turmoil Like Trees And Birds』(2015年)
トニー・マラビー『Adobe』、『Somos Agua』(2003、2013年)
ウィリアム・パーカー『Essence of Ellington / Live in Milano』(2012年)
Farmers by Nature『Love and Ghosts』(2011年)
ウィリアム・パーカー『Uncle Joe's Spirit House』(2010年)
DJスプーキー+マシュー・シップの映像(2009年)
アンダース・ガーノルド『Live at Glenn Miller Cafe』(2008年)
ブラクストン、グレイヴス、パーカー『Beyond Quantum』(2008年)
ウィリアム・パーカー『Alphaville Suite』(2007年)
ウィリアム・パーカーのカーティス・メイフィールド集(2007年)
ロブ・ブラウン『Crown Trunk Root Funk』(2007年)
ダニエル・カーター『The Dream』、ウィリアム・パーカー『Fractured Dimensions』(2006、2003年)
ウィリアム・パーカー、オルイェミ・トーマス、ジョー・マクフィーら『Spiritworld』(2005年)
ウィリアム・パーカー『Luc's Lantern』(2005年)
By Any Means『Live at Crescendo』、チャールズ・ゲイル『Kingdom Come』(1994、2007年)
ウィリアム・パーカーのベースの多様な色(1994、2004年)
Vision Festivalの映像『Vision Vol.3』(2003年)
ESPの映像、『INSIDE OUT IN THE OPEN』(2001年)
ペーター・コヴァルト+ローレンス・プティ・ジューヴェ『Off The Road』(2000年)
アレン/ドレイク/ジョーダン/パーカー/シルヴァ『The All-Star Game』(2000年)
ウィリアム・パーカー『... and William Danced』(2000年)
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』(1985年)
ウェイン・ホーヴィッツ+ブッチ・モリス+ウィリアム・パーカー『Some Order, Long Understood』(1982年)
『生活向上委員会ニューヨーク支部』(1975年)

トニー・オクスレー
セシル・テイラー+ビル・ディクソン+トニー・オクスレー(2002年)
『A Tribute to Bill Evans』(1991年)
セシル・テイラーの映像『Burning Poles』(1991年) 


シャイ・マエストロ『The Stone Skipper』

2016-12-15 15:32:59 | アヴァンギャルド・ジャズ

シャイ・マエストロ『The Stone Skipper』(Sound Surveyor Music、2016年)を聴く。

Shai Maestro (p ,key, perc)
Jorge Roeder (b)
Ziv Ravitz (ds)
Gretchen Parlato (vo) (2, 14)
Theo Bleckmann (vo) (6)
Neli Andreeva (vo) (6)
Kalina Andreeva (vo) (6)

何だこれはというほど凝っていて、曲作りも構成も演奏も異常に完成度が高い。

最初にノイズを入れつつ、またグレッチェン・パーラトの淡く溜めるヴォーカルによって美しく入ってきて、3曲目からトリオとして機能をはじめる。マエストロの強いピアノはどのようであっても素晴らしいし、キーボードをまじえて巧みに音を厚くしていくところや、7曲目でマエストロとホルヘ・レーダーとがアクロバティックなラインをユニゾンで演奏しているところなんて、聴いていて気持ちよく圧倒される。

パーラトのヴォーカルも良いのだが、6曲目に参加している、ポルトガルのマドレデウスを思い出させるヴォーカルは何だろう。ネリ・アンドリーヴァという人の歌声であれば、調べてみるとブルガリアの歌手のようでありとても魅力的だ。

●シャイ・マエストロ
カミラ・メザ+シャイ・マエストロ@新宿ピットイン(2016年)
マーク・ジュリアナ@Cotton Club(2016年)
シャイ・マエストロ@Body & Soul(2015年)
マーク・ジュリアナ『Family First』(2015年)


パウル・ローフェンス+パウル・フブヴェーバー+ジョン・エドワーズ『PAPAJO』

2016-12-14 11:43:17 | アヴァンギャルド・ジャズ

パウル・ローフェンス+パウル・フブヴェーバー+ジョン・エドワーズ『PAPAJO』(EMANEM、2002年)を聴く。

Paul Lovens (perc, saw)
Paul Hubweber (tb)
John Edwards (b)

各々が自分の楽器を演奏する即興であることはもちろんだが、それにとどまらない感がある。

擦れる音においても、撥ねる音においても、展開によって、ジョン・エドワーズのコントラバスがローフェンスのパーカッションにシンクロし、また逆もある。コントラバスがパーカッシブだとして、パーカッションだって周波数域が狭いパルスだけでなく、大きな響きをもっているわけである。同様に、パウル・フブヴェーバーのトロンボーンも様々な擬態を行い、様々な動物に化けている。

本盤は2002年の記録だが、2015年にも同じトリオで演奏している(>> 動画)。ローフェンスはいまもワイシャツにネクタイで叩いているんだな。

●パウル・ローフェンス 
アレクサンダー・フォン・シュリッペンバッハ『ライヴ・イン・ベルリン』(2008年)
シュリッペンバッハ・トリオ『Gold is Where You Find It』(2008年)
高瀬アキ『St. Louis Blues』(2001年)
シュリッペンバッハ・トリオ『Detto Fra Di Noi / Live in Pisa 1981』(1981年)
シュリッペンバッハ・トリオ『First Recordings』(1972年) 

●ジョン・エドワーズ
エヴァン・パーカー+ジョン・エドワーズ+クリス・コルサーノ『The Hurrah』(2014年)


ジョナサン・フィンレイソン『Moving Still』

2016-12-13 10:46:36 | アヴァンギャルド・ジャズ

ジョナサン・フィンレイソン『Moving Still』(Pi Recordings、2016年)を聴く。

Jonathan Finlayson (tp)
Miles Okazaki (g)
Matt Mitchell (p)
John Hebert (b)
Craig Weinrib (ds) 

前のリーダー作『Moment & the Message』(2012年)は、まるで小型精密な音楽機械が四方八方からサウンドのフラグメンツを雨あられと集中させるような、スリリングな作品だった。そのイメージでいちどライヴを観たところ(ジョナサン・フィンレイソン+ブライアン・セトルズ@6BC Garden)、その場で浮上してくるインスピレーションなど野蛮だと言わんばかりに、組み上げられたコンポジションをもとに丹念にサウンドを創り上げており、また驚かされた。

サウンドはM-BASEというよりヘンリー・スレッギル~リバティ・エルマンのコンポジションの雰囲気を色濃く受け継いでいるように思える。本盤を一聴して、まずはシンプルな構成で目立ったサプライズのない作品だなと感じた。

しかし、何度も追っていくと、やはりこれも丹念緻密に組み上げられているのだった。マイルス・オカザキのギター、マット・ミッチェルのピアノ、ジョン・エイベアのベースが、巧妙に、次々に前面に出てきては、入れ子細工か精密な三次元パズルのようにまた別の形となってゆく。そして知的に全体を主導するようなフィンレイソンのトランペット。静かにスリリングな作品である。

●ジョナサン・フィンレイソン
メアリー・ハルヴァーソン『Away With You』(2015年)
ジョナサン・フィンレイソン+ブライアン・セトルズ@6BC Garden(2015年)
ジョナサン・フィンレイソン『Moment & the Message』 (2012年)


ジョシュア・エイブラムス『Represencing』、『Natural Information』

2016-12-12 15:25:17 | アヴァンギャルド・ジャズ

シカゴの変態ベーシスト、ジョシュア・エイブラムスを2枚聴く。

『Natural Information』(Eremite Records、2008、09、12年)

Joshua Abrams (guimbri, mpc, perc, harmonium, b, bells, dulcimer, donso ngoni, ms20)
Jason Adasiewicz (vib)
Lisa Alvarado (harmonium)
Jim Baker (arp 2600)
Ben Boye (autoharp)
Emmett Kelly (g)
Frank Rosaly (ds)
Noritaka Tanaka 田中徳崇 (ds)

トラック3と5とがアダシェヴィッツ、田中のトリオ。トラック2と6とがケリー、ロザリーとのトリオ。トラック7と8とがさらに3人。

『Represencing』(Eremite Records、2011、13年)

Joshua Abrams (guimbri, organ, ms20, harps, bells, harmonium, mpc)
Lisa Alvarado (gong & harmonium)
Mikel Avery (ds)
Ben Boye (autoharp)
David Boykin (ts)
Emmett Kelly (g)
Nicole Mitchell (fl)
Jeff Parker (g)
Tomeka Reid (cello)
Frank Rosaly (ds)
Jason Stein (bcl)
Chad Taylor (gong, ds)
Michael Zerang (tambourine)

トラック1と3とがボイキンのテナーと。トラック5にリードのチェロが参加。トラック6にミッチェルのフルートとステインのバスクラとが参加。その他もろもろ。トラック9のみライヴ。

2枚ともエイブラムスはモロッコのゲンブリを含め、さまざまな楽器を使っている。何というべきか、延々と幻惑と瞑想に引きずり込まれてしまい、反覚醒にて朦朧とする。それぞれのトラックは面白いのだが、こうなると全体として聴いているので別々の意識はない。

しかしその中で、デイヴィッド・ボイキンのテナーは少し聴きなおしてみる気にもなった。かつて「Outet」というグループで出てきたとき、音量もなくかすれるようなサウンドでまったく好感を持てなかったのだが、このように大きな音響に溶け込むプレイが持ち味なのかなと思った次第。

●参照
レンピス/エイブラムス/ラー+ベイカー『Perihelion』(2015-16年)


三宮一貫楼の豚まん、551蓬莱の豚まん、神楽坂五十番の肉まん、神楽坂フルオンザヒルの肉まん

2016-12-11 20:23:07 | 食べ物飲み物

東の雄こと「神楽坂五十番」の肉まんを食べることができて満足していたところ、同じ神楽坂に別の肉まん店を発見してしまった。高級住宅街のなかに小さく構えた「フルオンザヒル」である。名前がいかしている。確かに神楽坂はヒルにあって、ひとつ226円の「プチ肉まん」を買って、お店の前でかぶりついていると自分が限りなくフルに見える。

それはそれとして、肉まんひとつだけなのにお茶まで出してくださって、とてもいいお店だった。プチとは言っても普通サイズで、ほどよくおやつ感覚。中身にはしっかり味が付いていてこれが東京。そんなに皮が厚くないからもたれない。ここも旨い。また汁をこぼしてしまった(フル)。

よしよし、肉まん豚まん評論家を目指そうかな(何も知らん癖に)。

===以下、同じ2016年12月。===

全日空の機内誌『翼の王国』に、長友啓典氏による「おいしい手土産」という連載があって、毎回なんとなく読んでしまう。その中に、確か、西の「551蓬莱」に対して東の「神楽坂五十番」だ、などと書いてあって、そのうちにと思っていた。ちょうど入院中の病院から神楽坂は近く、思いがけず好機到来。ひとつ買って、急ぎ足で病院に戻って食べた。

結構大きいので、まずはパカリと割ってみたら、ズボンに汁をこぼしてしまった。かなり肉汁が多い。味付けも東京もんらしくしっかりしている。汁が多くても中から皮に沁みてぐちゃぐちゃになるでもなく、ちゃんとホールドしている。割らずに、大きな小籠包だと思って食べるべきである。そして食後の充実感がある。

でも好みはやはり「551蓬莱」なのだった。

ところで、なぜ関西で「豚まん」、関東で「肉まん」なのかについては、一説によれば、かつての肉の供給状況と人びとの嗜好が関係している(小菅桂子『カレーライスの誕生』の受け売り)。つまり、日清・日露戦争が起こり、牛肉の缶詰が戦地に送られた結果、牛肉の産地を控える関西と市場に流通する牛肉が減った関東では、人びとの嗜好までが違ったものになってしまった。そして、カレーライスについても、大阪では、牛肉が8割近く用いられ(東京は3割)、逆に東京では、豚肉が4割以上用いられている(大阪は1割)。従って、肉と言ってしまえば関西ではそれは牛肉ということになってしまうから、あえて豚肉だと呼ぶのだというわけである。

===以下、2014年9月。===

所用で神戸に足を運んだついでに、三宮駅で関西豚まん対決。両方ともテイクアウト専門店である。

三宮一貫楼」の豚まんは、はじめて食べる。具がぎっしりで肉肉しいと聞いていたのだが、実際にはそうでもなく、普通の具と皮とのバランス。具材が粗めに切ってあり、汁が多い。少ししょっぱい印象もあるが、その一方で、玉ねぎの旨味が嬉しい。

551蓬莱」は大阪が本拠。以前に、伊丹空港の店舗で何度も食べた。あらためて「一貫楼」とくらべてみると、具材が小さく刻んであって粘性がある。また、皮自体がとても旨い。

対決の結果、両方旨い。というと勝負にならないので、皮が旨い「551蓬莱」がより好み。

左:三宮一貫楼、右:551蓬莱 (iphoneで撮影)

●参照
551蓬莱


向島ゆり子『Right Here!!』

2016-12-11 10:34:53 | アヴァンギャルド・ジャズ

向島ゆり子『Right Here!!』(Off Note、1995-96年)を聴く。

Yuriko Mukoujima 向島ゆり子 (vln, accordion, sample)
Kazuto Shimizu 清水一登 (p)
Ryota Komatsu 小松亮太 (bandoneon)
Kazutoki Umezu 梅津和時 (cl)
Masataro Naoe 直枝政太郎 (g)
Sachi Hayasaka 早坂紗知 (sax)
Makoto Yoshimori 吉森信 (syn, hamondo organ)
Saizo Kuge 久下昌三 (telemin,o.o.o)
Jiro Imai 今井次郎 (sample, voice)
Shigeri Kitsu 木津茂理 (voice)
Hiroshi Yoshino 吉野弘志 (b)
Takayoshi Matsunaga 松永孝義 (b)
Wayne Horvitz (p)
Tom Cora (cello)
Samm Bennett (perc)
Yoshio Kuge 久下惠生 (ds, perc) etc. 

音楽は駅のアナウンスや雑踏のサンプリングからはじまる(今井次郎?)。曲により、想像の上で立つ場所も、集まる音楽家も異なる。向島さんのヴァイオリンやアコーディオンが心を騒めかせるのはもちろんだが、それだけではない。

「The Summer Knows」を思わせる曲調の「I Miss You」では、早坂紗知の哀しいサックスから入って、吉森信のシンセ、向島ゆり子のヴァイオリンが胸を掴む。「Tango」では片トラックだけのサウンドが続き、30秒後に唐突に小松亮太のバンドネオンが入ってきて、それまで陶然としていた感情がまた揺さぶられてしまう。「ハバネラ」もまたルーツミュージック。先日のゴールデン街・裏窓でのソロでも演奏してくれた。

人いきれの音楽、旅の音楽、タンゴ、越境。なんて魅力的なんだろう。聴いても聴いてもまた動悸がする。

●向島ゆり子
向島ゆり子@裏窓(2016年)
飯島晃『コンボ・ラキアスの音楽帖』(1990年)
パンゴ『Pungo Waltz』(1980-81年) 


松居大悟『アズミ・ハルコは行方不明』

2016-12-10 20:48:33 | 関東

病院を脱獄し、新装なった新宿武蔵野館に足を運び、松居大悟『アズミ・ハルコは行方不明』(2016年)。

足利。マイルドヤンキー。嫉妬と相互監視。突破口のない世界。もがき。「ヤベー」という言葉のみによるコミュニケーションらしきもの。

なにも地方都市を揶揄することはない。東京でもどこでも同じ資本主義社会のなれの果てである。

ここで、アズミ・ハルコの先輩は、セクハラしか頭にない上司をあざ笑うかのように、フランス人と結婚してアフリカへと旅立つ。これはまだ、現実の延長である。しかし、さらなる異常事態が訪れる。男性への復讐を目的としたJK暴力集団は、哄笑とヴァーチャルな銃で警察権力をものの見事に無力化する。アズミ・ハルコも、痕跡など関係ないとばかりに別の世界へと高跳びする。

ドゥルーズによる「マッケンローの恥辱」という愉快なことばがある。テニスのジョン・マッケンローは、とにもかくにもネット際に突進し、自らをにっちもさっちもいかない袋小路に追い込んだ。その「恥辱」によって、はじめて、情勢を突き破る「出来事」が生まれる。(廣瀬純『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』

情勢を客観的に見れば、「出来事」など起こるわけがない。しかし、「出来事」とは革命である。そのドゥルーズ=ガタリ的な逃走線とはそうしたときにのみ描かれうるものに違いない。

西脇尚人さんのレビューに唆されて良かった。その通り、ここには革命が描かれている。もちろん、それがどのような革命かわかるなら革命ではない。逃走線の兆しに革命が過激に感じられるということである。

私の今年のベストワン。 


バーグマン+ブロッツマン+シリル『Exhilaration』

2016-12-10 19:47:26 | アヴァンギャルド・ジャズ

バーグマン+ブロッツマン+シリル『Exhilaration』(Soul Note、1996年)を聴く。

Borah Bergman (p)
Peter Brotzmann (as)
Andrew Cyrille (ds) 

田中啓文『聴いたら危険!ジャズ入門』に「いきなりギャーッと馬鹿でかい音で吠え、そのあと吠えて、吠えて、吠えまくり、途中で音が裏返ったら、そのままフラジオに突入し、ピーピーいわせて終わり・・・・・・だいたいこのパターンだ」とあるように、ペーター・ブロッツマンはいつもブロッツマンなのであるが、ここでもブロッツマン。冒頭から、ボラ・バーグマンの轟音カーテンピアノとともにブギャーと全力で走る。

しかし毎回違うのがブロッツマンなのであって(たぶん)、2曲目の「Friendly Focus」では、バーグマンとお互いに音の響きを確かめあうようにプレイする。そして次の「Andrew's Song」では、題名通りにアンドリュー・シリルが主導するような形となって高みへと昇ってゆく。

シリルは激烈でも確実に確かめながらでも常に自覚的なドラムスを叩いている。

●ペーター・ブロッツマン
ブロッツ&サブ@新宿ピットイン(2015年)
ペーター・ブロッツマン+佐藤允彦+森山威男@新宿ピットイン(2014年)
ペーター・ブロッツマン@新宿ピットイン(2011年)
ペーター・ブロッツマンの映像『Concert for Fukushima / Wels 2011』(2011年)
ペーター・ブロッツマンの映像『Soldier of the Road』(2011年)
ペーター・ブロッツマン+佐藤允彦+森山威男『YATAGARASU』(2011年)
ハン・ベニンク『Hazentijd』(2009年)
『Vier Tiere』(1994年)
ペーター・ブロッツマン+フレッド・ホプキンス+ラシッド・アリ『Songlines』(1991年)
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』(1985年)
『BROTZM/FMPのレコードジャケット 1969-1989』
ペーター・ブロッツマン
セシル・テイラーのブラックセイントとソウルノートの5枚組ボックスセット(1979-86年)

●アンドリュー・シリル
トリオ3@Village Vanguard(2015年)
アンドリュー・シリル『The Declaration of Musical Independence』(2014年)
アンドリュー・シリル+ビル・マッケンリー『Proximity』(2014年)
ビル・マッケンリー+アンドリュー・シリル@Village Vanguard(2014年)
ベン・モンダー『Amorphae』(2010、13年)
トリオ3+ジェイソン・モラン『Refraction - Breakin' Glass』(2012年)
アンドリュー・シリル『Duology』(2011年)
US FREE 『Fish Stories』(2006年)
アンドリュー・シリル+グレッグ・オズビー『Low Blue Flame』(2005年)
ビリー・バング+サン・ラ『A Tribute to Stuff Smith』(1992年)
アンドリュー・シリル『Special People』(1980年)
アンドリュー・シリル『What About?』(1969年) 


ウィリアム・パーカー『Alphaville Suite』

2016-12-09 19:51:52 | アヴァンギャルド・ジャズ

ウィリアム・パーカー『Alphaville Suite』(RogueArt、2007年)を聴く。

William Parker (b)
Rob Brown (as)
Lewis Barnes (tp)
Hamid Drake (ds)
Mazz Swift (vln)
Jessica Pavone (viola)
Julia Kent (celllo)
Shiau-Shu Yu (cello)
Leena Conquest (vo)

タイトルにある通り、ジャン=リュック・ゴダール『アルファヴィル』(1965年)をモチーフとした作品である。ウィリアム・パーカーは70年代初頭に、テレビでこの映画を観たのだという。ライナーノートに、「It didn’t take long for me to realize that Alphaville wasn’t just another science fiction spy thriller; it was really a wake up call to modern society to be vigilant…」と書いているように、パーカーは、この映画に、無意味を切り捨てる管理社会の恐ろしさを見出していた。もちろん、音楽やヒューマニズムは無意味の側にある。

わたしはもう20年以上前に観たっきりで、劇中の音楽のことはまったく覚えていない(検索してかじるより、DVDで改めて観ようと思う)。しかし、本盤を聴いて抱く印象は、映画の記憶からぼんやりと勝手に再構築する、うっすらとした不安と、突然、過激に理由なく人に依存するような(『マリア』での太陽の挿入に感じられたような)、そのような雰囲気とは異なる。本盤の曲はすべてウィリアム・パーカーの作曲によるものであり、自律的である。

自律的であるとは言っても、パーカーがそれぞれの曲について書いたメモを読みながら聴いてゆくと、さらにイメージが膨らんでゆく。これは音楽が文字情報に従属したということにはならないだろう。ストリングスによる多様なサウンド、とくに心の皮膚が引っ張られるような素晴らしさがあって、しかも、パーカーは常に力強いベースによってサウンドの物語世界を手放さない。

壮大なのに小品的、自律的でいて次や他の世界に開かれている感覚か。

●ウィリアム・パーカー
スティーヴ・スウェル『Soul Travelers』(2016年)
エヴァン・パーカー+土取利行+ウィリアム・パーカー(超フリージャズコンサートツアー)@草月ホール(2015年)
イロウピング・ウィズ・ザ・サン『Counteract This Turmoil Like Trees And Birds』(2015年)
トニー・マラビー『Adobe』、『Somos Agua』(2003、2013年)
ウィリアム・パーカー『Essence of Ellington / Live in Milano』(2012年)
Farmers by Nature『Love and Ghosts』(2011年)
ウィリアム・パーカー『Uncle Joe's Spirit House』(2010年)
DJスプーキー+マシュー・シップの映像(2009年)
アンダース・ガーノルド『Live at Glenn Miller Cafe』(2008年)
ブラクストン、グレイヴス、パーカー『Beyond Quantum』(2008年)
ウィリアム・パーカーのカーティス・メイフィールド集(2007年)
ロブ・ブラウン『Crown Trunk Root Funk』(2007年)
ダニエル・カーター『The Dream』、ウィリアム・パーカー『Fractured Dimensions』(2006、2003年)
ウィリアム・パーカー、オルイェミ・トーマス、ジョー・マクフィーら『Spiritworld』(2005年)
ウィリアム・パーカー『Luc's Lantern』(2005年)
By Any Means『Live at Crescendo』、チャールズ・ゲイル『Kingdom Come』(1994、2007年)
ウィリアム・パーカーのベースの多様な色(1994、2004年)
Vision Festivalの映像『Vision Vol.3』(2003年)
ESPの映像、『INSIDE OUT IN THE OPEN』(2001年)
ペーター・コヴァルト+ローレンス・プティ・ジューヴェ『Off The Road』(2000年)
アレン/ドレイク/ジョーダン/パーカー/シルヴァ『The All-Star Game』(2000年)
ウィリアム・パーカー『... and William Danced』(2000年)
エバ・ヤーン『Rising Tones Cross』(1985年)
ウェイン・ホーヴィッツ+ブッチ・モリス+ウィリアム・パーカー『Some Order, Long Understood』(1982年)
『生活向上委員会ニューヨーク支部』(1975年)


かみむら泰一『A Girl From Mexico』

2016-12-09 10:21:45 | アヴァンギャルド・ジャズ

かみむら泰一『A Girl From Mexico』(EWE、2004年)を聴く。

Taiichi Kamimura かみむら泰一 (ts)
Motohiko Ichino 市野元彦 (g) 
Terumasa Nisikawa 西川輝正 (b) 
Takeshi Toriyama 鳥山タケ (ds) 

オリジナル曲が、十分な空間をもってゆっくりとしたスピードで次へ次へと展開するようで、またユーモラスで、とても好きになる。その見通しのよい空間では、市野元彦のギターが自然体で美しい音色を提示していくようで、脳が快感物質を分泌しながらその辺を散歩する。

かみむらさんはデューイ・レッドマンに多大な影響を受けたのだという。ややかすれ、エッジの丸いテナーの音になるほどと思わなくもない。最近では、もっと、楽器を鳴らしきらない~鳴らさないという鳴らしかたにも進んでいたりもするのかな。

●かみむら泰一
かみむら泰一+齋藤徹@キッド・アイラック・アート・ホール(2016年)
齋藤徹+かみむら泰一、+喜多直毅、+矢萩竜太郎(JazzTokyo)(2015-16年)

●市野元彦
rabbitoo@フクモリ(2016年)
rabbitoo『the torch』(2015年)
渋谷毅+市野元彦+外山明『Childhood』(2015年)


『endless 山田正亮の絵画』@東京国立近代美術館

2016-12-08 19:42:00 | アート・映画

病院を抜け出して、竹橋の近代美術館にて、山田正亮の回顧展を観る。

山田正亮といえばストライプである。ところが、それはほとんど1960年代において集中して描かれていたことがわかる。

初期の静物画は、濁った緑や茶が使われ、次第にバランスを意図的にか考慮しない抽象へと変化してゆく。抽象とは言っても、その後のさらなる変貌を予告するような、色のフィールド分割である。デュビュッフェを思わせる混沌の色分割、また矩形の画を経て、ストライプの時代が来る。

「会場ガイド」の文章によれば、二次元のストライプだけでなく、塗り重ねられた深さ方向にもストライプが現れることが特徴なのだという。確かに、実物を凝視すると、深さ方向に視線が行きつ戻りつする動きを感じる。しかし、それだけではない。個々の色を明確に分割しているものも、溶け合っているものもある。濁って汚いほどに色同士が融合しているものもある。深さ方向への動きが感じられず、二次元の移動を主とする作品もある。絵具にマテリアルを混ぜたことによって、逆に表面にのみ意識が絡めとられるものもある。おそらく、これは何年にも渡る狂気とも言える実験だった。

70年代に入り、色が淡くなり、各々の色フィールドが広くなる。画家が自らの色を発見してしまい、実験へと没入できなくなったのではないかと思えた。

●参照
空のストライプと山田正亮