Sightsong

自縄自縛日記

廣瀬純『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』

2014-05-26 22:57:52 | 思想・文学

廣瀬純『アントニオ・ネグリ 革命の哲学』(青土社、2013年)を読む。

現代において、そもそも、革命など可能なのか。アラン・バディウは、野蛮そのものの資本主義国家・社会という情勢下では、それを不可能だとする。可能性があるとすれば、それはこの世界ではない、向こう側の「あの世」にある。その到来に備えて、ともかくも準備だけはしておくべきだ、という議論である。

それに対して、革命(出来事)は不可能だが不可能ではないとする、ミシェル・フーコードゥルーズ=ガタリ、そしてアントニオ・ネグリ。情勢を「客観的」という限界のなかで視れば、革命など不可能に違いない。ここで登場する、ドゥルーズによる「マッケンローの恥辱」という愉快なことばがある。テニスのジョン・マッケンローは、とにもかくにもネット際に突進し、自らをにっちもさっちもいかない袋小路に追い込んだ。その「恥辱」によって、はじめて、情勢を突き破る「出来事」が生まれる。「あの世」ではなく、「この世」において、である。

かれらは、それを力能と呼んだ。あるいは、それはレーニンの象徴としてとらえられた。またそれを、ドゥルーズ=ガタリは「逃走線」と呼んだ。ネグリの解釈によれば、フーコーは、権力の網目構造でできた「この世」であるからこそ、別の構造も同時にビルトインされているとみた。

ネグリに対して、わたしが違和感を覚えていた点は、「この世」の統治のあり方を不完全なものとみなす一方で、なぜ、その不完全さを象徴する組織化を、力能の条件とするかということだった。廣瀬氏のネグリ解釈によれば、おそらくは、怒りや抵抗という一時的で分散化された力は、革命の力たりえないのである。そうではなく、何かの問題について一時的に力が出てきたとき(それは、反原発デモや、反基地運動かもしれない)、それを縒り合せなければならない。そして、その組織化は、政治的力と化す。

多少、納得できたような気がする。抵抗の統一など、そのままでは不可能であり、それこそが「絶望」、「恥辱」、「耐えがたいもの」なのであった。しかし、それらを見出すことは、「この世」において力能を生み出すもととなる。不可能から可能への反転である。

●参照
廣瀬純トークショー「革命と現代思想」
廣瀬純『闘争の最小回路』を読む
アントニオ・ネグリほか『ネグリ、日本と向き合う』
アントニオ・ネグリ講演『マルチチュードと権力 3.11以降の世界』
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』
アントニオ・ネグリ『未来派左翼』(下)
ミシェル・フーコー『狂気の歴史』
ミシェル・フーコー『知の考古学』
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』
ミシェル・フーコー『ピエール・リヴィエール』
ミシェル・フーコー『わたしは花火師です』
ミシェル・フーコー『コレクション4 権力・監禁』
重田園江『ミシェル・フーコー』
桜井哲夫『フーコー 知と権力』
ジル・ドゥルーズ+クレール・パルネ『ディアローグ』
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(上)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(中)
ジル・ドゥルーズ+フェリックス・ガタリ『千のプラトー』(下)
ジル・ドゥルーズ『フーコー』


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。