鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その2

2009-08-11 07:41:46 | Weblog
明治26年(1893年)6月25日の一葉が、谷中霊園に向かうために、今私が歩いているコースを歩いていたかというと、どうもそうではないようだ。当時一葉が住んでいたところは本郷菊坂町69番地。路地の奥に入ったその家を出て、菊坂の通りに出て坂を少し下って菊坂下に出た一葉と妹くには、そこからゆるやかな坂を上って高崎屋が左角にある本郷追分に出ます。そこから今の「言問通り」に入って、東京帝国大学の構内を突っ切って弥生坂(鉄砲坂とも)を下り、そのまま直進して上野桜木(吉田屋酒店がある)のところで左折し、谷中霊園に入っていった可能性が高い。というのも、それが一番の近道であり、わかりやすい道であったから。私は弥生坂の途中で左折しましたが、おそらくこの道は一葉の頃にはなかったものではないか。一葉は、根津神社境内や藪下通りを歩いていますが、この日は歩いておらず、根津神社や藪下通り、そして団子坂に向かう場合は、今の「不忍通り」のところを左折して根津八重垣町を通過し、途中で左折して根津神社の大鳥居から社域を抜けていくか、根津裏門坂を上がって「藪下通り」に入っていった(逆のコースをたどることも)と思われます。今の「不忍通り」は、かつては今のように幅広の道ではなく、根津谷の、貧しい人々が住む長屋などがあったところを貫いて走る狭い通りであったようです(森鴎外の『青年』の記述より)。根津にはかつて遊廓がありましたが、一葉の頃にはすでに洲崎に移転しています。馬場孤蝶の『明治の東京』によれば 次の通り。「根津にあった遊廓が今の洲崎へ移された年代を今記憶しないが、明治十七年ごろまではあすこに娼楼が一郭をなしていたと思う。藍染橋までは引手茶屋であったらしく、花暖簾などが風に翻るのを見たことがある。橋から先きが娼楼の区域で、権現(根津神社のこと─鮎川)の方へ曲っている八重垣町の方に大楼があったのではなかろうかと思う。」団子坂についても、次のような記述があります。「団子坂が改修されて長い坂路(さかみち)になったのは、七、八年前かと思うのだから、あの坂のへんに曲って下りになっていたのを、藪蕎麦と菊人形と共に記憶している人は多いであろう。そして、あの辺の路が今よりもずっと狭かったことはいうまでもあるまい。」現在の団子坂と、一葉や鴎外、漱石が歩いた頃のかつての団子坂とは、ずいぶん違っていることがわかります。 . . . 本文を読む