鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

明治の東京

2009-08-07 06:25:23 | Weblog
明治時代の東京の風景を知る上で、最近目を通した本の中で役立った本を何冊かピックアップしてみると、まずは馬場孤蝶の『明治の東京』。明治時代の東京の街のようす、通りのようす、郊外のようす、また庶民の楽しみであった寄席などのようすが、あるいはそれらの変化が、孤蝶自身の見聞をもとに、実に生き生きと描かれています。この本をメインに、それぞれの記事に関係する周辺資料を調べていきたいと思われるほどです。鏑木清方の随筆集『明治の東京』も面白い。特に築地界隈の描写はすばらしい。築地は外国人居留地があったところで、その界隈の雰囲気は下町のそれとは大きく異なるものでした。子ども時代にこの築地界隈で暮らしたことのある清方は、流麗な筆致でその懐かしい風景を追憶しています。山本松谷画の『百年前の東京絵図』。これは前に触れたことがあるので省略します。写真だと白黒の古さびたイメージになりがちな東京の風景が、石版画により、色彩豊かな、庶民のエネルギーが満ち溢れたものとして浮かび上がってきます。林順信さんの『東京市電名所図絵』は、路面電車が走り出して以後の東京が描かれているものですが、その絵(石版画・絵葉書)や写真から、それ以前からの東京の風景を垣間見ることができます。同時代の研究家が東京の風俗をまとめたものとしては、平出鏗二郎(こうじろう)の『東京風俗志 上・下』が実に詳しい。明治30年(1897年)頃の東京の風俗が、あらゆる分野にわたって克明に記されています。多数の挿絵も大いに参考になります。ちょっと変わったところでは、塩見鮮一郎さんの『貧民の帝都』。東京にかつてあった貧民窟について記されています。大正時代の中頃まで、東京の貧民窟といえば、神田の橋本町、芝の新網町、四谷の鮫ガ橋、下谷の万年町が「四天王」と言われていたという。また江戸時代、新吉原のほんそばに車善七宅があり、また浅草溜(ため)や寄場があったこともこの本で知りました。「四天王」と言われた東京の代表的な貧民窟の一つ万年町は、上野駅の近くにありました。このあたりは一葉もよく歩いた道筋の近辺であるから、もしかしたら一葉もこの貧民窟を目にしているかも知れない。初田亨(とおる)さんの『東京 都市の明治』も大変参考になりました。これについては以下、少しばかり触れてみたいと思います。 . . . 本文を読む

一葉・啄木、そして兆民

2009-08-06 06:46:33 | Weblog
幕末・明治の江戸・東京は、中江兆民の生涯を小説にする場合、その主要舞台となります。生まれ育った土佐の高知が第一の舞台であるとすると、最初の留学先である長崎が第二の舞台。そして第二の留学先である江戸(幕末・維新期の江戸・東京)が第三の舞台。そして第三の留学先であるフランス(パリ・リヨン)が第四の舞台。ジャン・ジャック・ルソーの主権在民論をフランス留学時代に吸収して帰国したのが明治7年(1874年)ですが、それ以後の人生のほとんどを兆民は東京で送っています(小樽・札幌・大阪・堺などで暮らしたこともありますが)。したがって、兆民の小説を描く場合には、江戸・東京の当時の風景を知ることが必須となります。私の『波濤の果て』では、昨年出版した「中江兆民のフランス」でフランス留学時代までを描いたので、これからは明治7年以後の兆民の生涯を描くことになります。幕末の江戸と維新期の東京については、「中江兆民の維新」で描きましたが、実際に東京を歩いて丹念に取材したわけではありません。丹念に取材したわけではない、と言えば、土佐の高知や長崎も取材はしたものの納得いくまで取材したわけではなく、ましてやフランスのパリやリヨン、イギリスのロンドンなどは一度も足を踏み入れたことはありません。しかし、3年前にこのブログを立ち上げて、取材旅行の報告をするようになってから、現地を実際に歩くことの大切さを思い知ることになりました。吉村昭さんの真似はできないけれども、神奈川近辺であれば、幾度も足を運ぶことが出来る。そう思い至って取材旅行をするようになったのです。その経験から言えば、『波濤の果て』の第1巻~第4巻までは、それなりに力を込めはしたものの、「頭」で書いたもので「足」で書いたものではありません。現場を踏み、兆民が歩いたり暮らしたりした道や街を、私も実際に歩いてみて(当時は歩くことが基本でした)、兆民が出会った風景や見たであろう風景を、これからはしっかりと描写していきたいと考えています。兆民が小説の主人公であることは変わりありませんが、兆民が生きた時代の街や村の風景や景観も生き生きと描いていけたら、と思っています。明治7年(1874年)以後の東京という街の移り変わりというものを、彼の没年である明治34年(1901年)までおよそ25年間をしっかりと描いていくのが、これからの大きな課題となります。 . . . 本文を読む