鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009.8月取材旅行「谷中~本郷~万世橋」 その5

2009-08-14 07:27:16 | Weblog
後で入った谷中霊園管理所でもらった「谷中霊園案内図」(寄付金を入れて、もらう)によると、この谷中霊園は、主として谷中天王寺の敷地等を東京府が引き継いで、明治7年(1874年)9月1日に、「谷中墓地」として開設したものだとのこと。その後、明治22年(1889年)に東京市に移管され、昭和10年(1935年)には「谷中霊園」と改め、現在に至っているという。また次のようにもある。「付近には寺院も多く寛永寺や天王寺の墓地と入り組んでおり、霊園全体の形は複雑になっている。幸田露伴の小説で有名な谷中天王寺の五重の塔跡地が霊園の中央にある。この跡地のほか3ヶ所の墓所が都の文化財に指定されている。」確かに「谷中霊園案内図」を見ても、その霊園全体の形が複雑であることがよくわかります。おそらく「甲」のうす緑色に印刷された区域が天王寺のかつての墓地で、「乙」の黄色に印刷された区域が明治7年以後に新しく開かれた墓地であるのでしょう。寛永寺が管理する徳川家の墓地は、この「乙」の区域の中にありますが、もちろんこれは谷中墓地が明治7年に開かれる以前からずっとあったもの。一葉姉妹が墓参りをしていた頃、ここは「谷中霊園」ではなく「谷中墓地」であったことが、この案内マップでわかりました。この案内マップでわかったことは、谷中墓地から根岸の方へ下っていく坂道が四つあって、それぞれ「御殿坂」「紅葉坂」「芋坂」「御隠殿坂」という名前であること。このうち「御行の松」方面へ下りていく坂道としては、「芋坂」か「御隠殿坂」の二つに絞られるであろうということ。一葉は根岸へ下っていった坂道の名前は記していない。この谷中墓地のかつてのようす、しかも明治15年(1882年)以前のようすを写した写真が、『ケンブリッジ大学秘蔵明治古写真』の中に収められています。P161~162にまたがる写真がそれで、撮影したのは臼井秀三郎。写真真ん中の標柱に「乙 第壹號墓地」と墨で書かれ、その右奥に九輪を乗せた五重塔がすっくと聳えています(昭和32年心中放火により焼失)。樹木は現在のようには繁茂してはおらず、お墓も現在のように石垣等で整然と区画されているわけではない、といったことがわかります。「乙1号」を案内マップで調べてみると、「金子屋」の東側辺り。ここが臼井の撮影地点。もちろんこの頃には網谷幾子は健在で、そのお墓はまだありません。 . . . 本文を読む