鮎川俊介の「幕末・明治の日本を歩く」

渡辺崋山や中江兆民を中心に、幕末・明治の日本を旅行記や古写真、研究書などをもとにして歩き、その取材旅行の報告を行います。

2009年 夏の「西上州~東信州」取材旅行 西上州その4

2009-08-27 06:24:22 | Weblog
 早朝、「道の駅」を出発し、磯部温泉近くのコンビニを探したところ、その近く(通り隔てた斜め前)が松岸寺というお寺でした。この松岸寺には、佐々木盛綱や大野九郎兵衛(浅野内匠頭の家臣)の墓があり、明治20年(1887年)に当時元老院議官であった黒田清綱が参詣した、との記述を『磯部温泉誌』で目にしていたので、コンビニで朝食を購入した後、早速境内に入ってみることにしました。

 宗旨は曹洞宗。本堂の左側の墓地の奥に祠があり、その中に佐々木盛綱のお墓と伝えられる石塔が入っていました。

 それより、門前の通りを磯部温泉の方に向かいましたが、この道はおそらく当時は桑畑の中の一本道(田舎道)であったろう、と思われました。

 磯部駅前の駐車場にしばらく車を停めさせてもらうことにして、早速、取材ノートに写した明治時代中頃と思われる温泉街を描いた略地図(『磯部温泉誌』に掲載されていたもの)を参考に、温泉街を歩いてみることにしました。

 駅前広場の左手から奥へと延びる通りを入ると、かつては警察分署があったところが、現在は磯部郵便局になっていました。そしてかつて郵便局のあったところは「イソベ薬局」になっていました。この警察分署のところで四辻になっており、そこを右折すると松岸寺へ至り、左折するとやがてゆるやかな坂道を下ることになりますが、かつてはこのゆるやかな坂の両側に旅館が建ち並んでいました。つまり旅館街であったわけです。

 この四辻を曲がらないで直進すると、突き当たりが赤木神社でした。この赤木神社の奥は公園になっていて、大手拓次など数多くの碑があちこちに設けられていました。これだけ歌碑などが設けられている公園は珍しい。その公園の奥は、碓氷川に突き出したようになっており、そこから石段で下へと下りることができるようになっていました。

 碓氷川の川沿いには、「ホテル磯部ガーデン」や「雀のお宿磯部館」、「竹林の湯宿はやし屋」など、立派なホテルや旅館が並んでいました。

 もとの四辻へと戻って、旧温泉街があったゆるやかな坂道を下りていきました。このかつての温泉街にある旅館は、「湯元長寿館」が左手奥にあるばかりで、ほかは磯部せんべいのお店(梅泉堂)や小さな飲食店、ないし駐車場などになっています。

 地図によれば、「鳳来館」はその温泉街の突き当たりにありました。

 ということで、突き当たりまでやってくると、その「鳳来館」の跡地と思われるところは、だだっ広い空き地となっており、右手にその名残りであるかも知れない蔵があり、左手に手造りガラス工房の「ISOBEガラス工房」の建物があるばかりで、あとは手前が有料駐車場になっていました。

 ここが「鳳来館」の跡地であることは、地図と見比べて、間違いのないところです。

 ここに木造3階建てで瓦葺きの屋根を持ち、客室100余、収容人員500名を誇る大旅館「鳳来館」があったのです。

 玄関手前には、通りを跨ぐ橋があって、その橋を通って宿泊客は本館2階から風呂場に行くことができました。この風呂場は、おそらく「済生社」といい、現在、「湯元長寿館」があるあたりがその場所であったのではないかと思われました。

 この「鳳来館」の裏手には大木喬任の別荘がありました。

 ちなみに、赤木神社裏手の、多数の歌碑があった公園のあたりが、かつては井上馨(かおる)の別荘地でした。

 このように見てくると、明治20年頃以後に栄えた磯部の旧温泉街はほとんどその姿を失い、現在の温泉ホテルや旅館の多くは、碓氷川の渓流に沿った景勝の地に点在しているということになります。

 井上馨は、兆民が最も嫌った政治家の一人でした。

 兆民がなぜ、この磯部温泉に立ち寄ったのかその理由はわかりませんが、この磯部温泉に立ち寄った時、兆民はここに多くの中央政治家や名士の別荘があることを知ったはずです。

 しかも、その別荘の中には、彼が最も嫌った人物の一人、井上馨の別荘もありました。

 その井上馨の別荘地は、もともとは赤木神社の社域であったものを、磯部温泉の「開祖」であり、「鳳来館」の主人である大手万平が強引に手に入れ、それを井上馨に別荘地として提供したと伝えられています。

 そのような経緯などを、もしかしたらこの磯部温泉で、兆民は耳にしているかも知れません。

 兆民が温泉街を散策していたとしたら、赤木神社にも足を運んだかも知れません。

 「鳳来館」では、茶菓子として、「いそべ煎餅」や「木の葉煎餅」が出たのでしょう。
 
 田舎道を歩いて、佐々木盛綱のお墓のある曹洞宗松岸寺まで歩いたかどうかは、わからない。

 小諸の小山太郎は、明治25年(1892年)2月2日の早朝、人力車で軽井沢追分宿を出立し、午前7時に横川停車場に到着。おそらくそれより汽車に乗って磯部停車場で下車。そこから「鳳来館」に赴き、そこで宿泊していた兆民と再会しました。

 二人は、おそらく朝食を摂ってから、旅館が左右に建ち並ぶゆるやかな坂道を上って、警察分署のところで右折、磯部停車場に至りました。そして駅前の「鳳来館」の出店で休憩かたがた横川へ向かう汽車を待ち、やがて高崎方面からやってきた汽車に乗車。午前10時頃に横川停車場に到着。そこの「万屋」で休憩してから「碓氷鉄道馬車」の小さな車両に乗り込みました。

 そして、碓氷峠を、車両の椅子に座りながら、馬の引っ張る馬車で登って行ったのです。

 その終点は追分宿の「油屋」前でした。


 続く


○参考文献
・『碓氷峠』萩原進(有峰書店)
・『関所のまち よこかわ』(うすいの歴史を残す会)
・『目で見る群馬の100年』群馬県立歴史博物館監修(煥乎堂)
・『磯部温泉誌』(安中市観光協会)


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